Category archives: 1960 ─ 1969

下降

仲良しと、いま別れたらしい
娘さんが笑みを頬にのこしたまま
六階からエレベーターに入つてきた
四階で微笑んだ口がしまり
三階で頬がかたくなり
二階で目がつめたくなり
一階で、すべては消えた
エレベーターの扉があくと
死んだ顔は
黒い雑踏のなかに入つていつた

杉山平一
声を限りに」所収
1967

墓地への石段は・・・

墓地への石段はひどく古び そしてすりへっている
そこへわたしは きょうも生きることを教わりにゆく
もしも静寂と十字路がそこになく
わたしが自らの墓地から 耳傾けることをしなかったなら
ふたたびあたらしい愛にあやされて 帰路につくことは出来なかったろう

おお このすりへらされた親しい石の傾斜!
なんと多くのおびえた魂がうつむきながら行っただろう
あるいは涙を 嘆きを 小さな木箱にかたみして
だれもがそれを踏みしめていった そして
悲しみがいつも人々には重すぎたから
石はやさしく歪まなければならなかった
ここにくちづけるおおきな慈愛をもつものは
おそらくあの ありなしの風だけだろう

昇天をむしろ拒み 忘れられて土のなかにと拡がった
ついにひとりでしかなかった魂たちの表情をふかぶかと刻んで
いま 石段は明るい陽すじに影をつくり
ひろびろと樹脂の匂いを漂わせている墓地にむかって
あの はじめての子守唄のように静かだ

伊藤海彦
黒い微笑」所収
1960

眠りにつくとき
満潮のようにひたひたと胸を圧してくるものはないか
たとえば くらい獣のような思いはないか
そしてまとまりもつながりもないことを思っていると
頬を濡らしてくる熱いものはないか

おまえたちが眠りにつくとき
まぶたの上でかたはなされた山鳩が鳴きはしないか
ほろほろと──
おまえたちはそれをききながら眠りにおちていくのだろうか

高木護
「夕焼け」所収
1965

よもぎ摘み

戦争へ行つたまま四年になるのに
良人はまだ帰つてゐなかつた

彼女はその日よもぎを摘みに出た
一番末の子をおんぶして

八つの姉娘と五つの子は家で
絵本を見て乏しい昼餉を待つてゐた

よもぎは線路の近くに随分あつた
彼女が時を忘れるほど

電車の音がしたとき
彼女が線路を避けたとき

そのとき彼女は足元に蛇を見た
思はずとびのき彼女の頭は電車にふれた

頭をくだいて彼女は死んだ
あたりの山に青葉噴く五月のまひる。

杉山平一
声を限りに」所収
1967

紙風船

落ちてきたら
今度は
もっと高く
もっともっと高く

何度でも
打ち上げよう

美しい
願いごとのように

黒田三郎
もっと高く」所収
1964

心にひとかけらの感傷も

心にひとかけらの感傷も持たないやつが
  冬の隅田川を渡ってゆく
    愛もなく
      鳥もいない宇宙に向かって

心にひとかけらの勇気も持たないやつが
  肺をタールでいっぱいにして
    子供の首を洗っている
      絶望的な夕陽の溢れる隅田川で

ぼくは長い旅をした
  三十年かかっても計算できない道のりを
    横倒しの女たちといっしょに
      たったひとりで

ぼくが近づこうとしているのは
  たぶん風でつくられた
    変幻自在の見えない都市だ
      男が子供を産みはじめる苦痛の都市だ

ぼくは征服者の善意を信じないように
  あざむかれた階級の
    心からの悪意を信じることができない
      お願いだ せめて

生まれようとする無垢に
だれもさわるな

大岡信
大岡信詩集」所収
1968

不運

京都 雨
名古屋 雨
静岡 雨
そして横浜も 雨
十年ぶりの旅行だったが
さんざんだった
雨に降られどうしで
ちっとも陽の目をみなかった
何のことはない 列車が
西から東へ雨雲といっしょに走っていたのだ
ゆくさきざきが雨で
後からあとから晴れていったのだ

不運
不運
何というまわりあわせのわるさ
ぼくの人生とそっくり同じだ
輝かしかった明治の老人と
明るい昭和の若者の
まんなかの谷間で
ぼくら大正生まれは嵐にずぶ濡れできた

大木実
月夜の町」所収
1966

見えるものの歌

仕事にかかろうとあなたが上衣をお脱ぎになった時
私には脱ぐと云うことの美しさが
突然はっきりわかりました。
あなたが焚火に踵をおかざしになった時
人は無限の曲線から成ることを
そして踵は心を無限に導くことを
あたらしく私の眼に彫りつけました。

朝の光はきらびやかに
その時霜は一めんの白光を放ちました
もしもあなたが物をも云わず
一顧も私を御覧にならず
立ち去ってゆかれましても
それはもう致し方御座いません
私の心の襞はふかく折りたたまれ
みえない詩を沢山かくしました
私はそのことで満足いたしましょう

無意識にあなたの意味していらっしゃる事が
はっきりと今私の胸にこみあげました。
ただあなたにむかって私の髪の毛の渦の一つさえが
女の悲しみをあらわさず
私の指の一ふしがあなたを引きとめると
あなたに見えないであろうことを
つらくつらくおもいました。

永瀬清子
薔薇詩集」所収
1960

退屈

十年前、バスを降りて
橋のたもとの坂をのぼり
教会の角を右に曲つて
赤いポストを左に折れて三軒目
その格子戸をあけると
長谷川君がいた

きょう、バスを降りて
橋のたもとの坂をのぼり
教会の角を右に曲つて
赤いポストを左に折れて三軒目
その格子戸をあけると
やつぱり長谷川君がいた

杉山平一
声を限りに」所収
1967

―─雪が降って来た。
―─鉛筆の字が濃くなった。

こういう二行の少年の詩を読んだことがある。十何年も昔のこと、「キリン」という 童詩雑誌でみつけた詩だ。雪が降って来ると、私はいつもこの詩のことを思い出す。 ああ、いま、小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。勤勉、真摯、調和、そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖
「運河」所収
1967