Category archives: 1950 ─ 1959

三十の抄

牛蒡はサクサクと身をそぎ
水にひたってあくを落す

ほうれん草は茹でこぼされ
あさりは刃物にふれて砂を吐く

私はどうすれば良い
ひたひたと涙にぬらし
笑いにふきこぼし
戦火をくぐらせ
人の真情に焙って三十年

万人美しく、素直に生きるを
このアクの強さ
己がみにくさを抜くすべを知らず
三十年

俗に「食えぬ」という
まことに食えぬ人間
この不味きいのちひとつ
ひとにすすむべくもなき
いのちひとつ

齢三十とあれば
くるしみも三十
悲しみも三十
しかもなおその甲斐なく
世に愚かなれば
心まずしければ
魂は身を焦がして
滅ぼさんばかりの三十。

石垣りん
私の前にある鍋とお釜と燃える火と」所収
1959

わが住処

裏の谷間の小川をせり上った行きどまりの
三角地
みんなが粗末にしている石ころだらけの
地形がある
私は
そこが好きなのだ
小川にかかった
一本の丸木橋の袂のところに
四角い柱を組んで
方丈ほどの家を建てたい
お父さん お母さん 前のトマト畑と
あそこに一軒 家たってくれろ
庭に籾筵を干して
川の縁には一本の緋桃の木を植えるよ
私を嫁にやらんで
葱坊主で囲んだ
あの三角畑とトマト畑
私にくれろ
あそこに婿とってくれろ

堀内幸枝
村のアルバム」所収
1957

ある孤独

座っているのは彼の子どもたち。
包んであるのは骨壷だ。
写真のまえの
甘いものをつかんでむしゃむしゃ食う。
誰かついでくれたウィスキーをぐいとひっかける。
さびしくも口惜しくもなく。
──死んじまいやがって。
このしらじらしいおもいは
死んだやつにはわかるまい。
「いい人でしたねエ」
それっぽっちの無内容な回想言葉で
誰かれの記憶のなかに
うすっとぼけてゆくだけのものとなりおわった。
今夜ここで呑んでいるのは生きているものの特権だ。
すっぱぬきも
おひゃらかしも
おまえのかくしばなしも酒のサカナ。
つゆどきにしては また凄い雨が降るものだ。
死んでしまってはなにも知らぬということが無性にシャクにさわるのだ。
生きて残っているものがバカを見る。
こんな死んだやつも背負って
立って歩かねばならない。

秋山清
ある孤独」所収
1959

その夜

女ひとり
働いて四十に近い声をきけば
私を横に寝かせて起こさない
重い病気が恋人のようだ。

どんなにうめこうと
心を痛めるしたしい人もここにはいない
三等病室のすみのベッドで
貧しければ親族にも甘えかねた
さみしい心が解けてゆく

あしたは背骨を手術される
そのとき私はやさしく、病気に向かっていこう
死んでもいいのよ

ねむれない夜の苦しみも
このさき生きてゆくそれにくらべたら
どうして大きいと言えよう
ああ疲れた
ほんとうに疲れた

シーツが
黙って差し出す白い手の中で
いたい、いたい、とたわむれている
にぎやかな夜は
まるで私ひとりの祝祭日だ。

石垣りん
私の前にある鍋とお釜と燃える火と」所収
1959

ほんのしばらくと思つて
錨を下ろしたのに
錨には太いカギがあつた
カギは見えない泥にくひこみ
もう 離れようとしない

風が出てゐる
帆が鳴つてゐる

杉山平一
杉山平一詩集」所収
1952

ある種のバガテル

白い四角
という緑
の立体

黒い円筒
という

の平面

つぎは
黄いろい空間
のある
直線



非常に円いハンカチ
のために
青くなる


または

のなか
の雷

それらのため

完全に重いピンクの薬

北園克衛
「煙の直線」所収
1959

あくびの子ども

だまって
通る人を
見あげ見おくっている。
この六つくらいの子どもを
ぼくは自分の幼い子とくらべた。
しろい肩がみえ
メリヤスのシャツがやぶれている。
板きれをしいて
ズボンに下駄ばきのひざをだき、
ちいさな紙箱と
横にボール紙に
「私ノ父ハ軍属トナッテ――」と、六、七行かいてある。
止まる人も
読む人もない。
地下鉄からでてくる段々の中途で
人の足をとめるにはわるい場所だ。
いま出てきた人が
ひととおり途だえたとき。
両手をつきあげて
子どもは大きなあくびをして
ちょうどふりかえったぼくをみて、にこっとした。

秋山清
「象のはなし」所収
1959

カキツバタの記憶

梅雨のみどりの中で
カキツバタがきれいだった

前に
こんな女のひとがいた

わたしはハサミで
その一本を切ってきて
机の上に挿した

まったく どこもかしこも
清潔にしていたひとだった

だが 急に
カキツバタは壺をぬけ出すと
みどりの中へもどっていった
あのひとのように
ながめられるので
はずかしかったのだろうか

わたしは後を追っていってさがした
カキツバタは数本
おなじかっこうをしていたが
はにかんだのですぐわかった

しかし どうしたのだろう
わたしのカキツバタは
お尻に長いゴムテープをつけていた

わたしはそのテープで
もどった理由がやっとわかった

あのひとも去っていったが
「会者定離」のそんなテープを
お尻につけていたのだろう 多分。

土橋治重
「STORY」所収
1958

ぶらんこ

       わたしが四十五になると
       うたうつもりの歌

・・・・ぎいこぎいこ たのしい風よ
かたむきのぼり かたむきくだる
海の白帆よ 漁師の村よ
つまりはこうさ わたしは惚れて
たましいぬけて

小さいナイフとぎすまし
手にきざんだが 少女のイニシャル
・・・・ぎいこぎいこ 傷口こする縄のおと
四十路のいまに思いだす

なつめを噛めば 少女をおもい
目にも絢なるころもをみても
・・・・ぎいこぎいこ たのしい風よ
たえ得ず書いた恋文さえも
崇拝きわまり 署名も得せず

つらいあまりのミステイフイカション
字体ですらもかえてあったが
・・・・ぎいこぎいこ たのしい風よ
ついに僕だと知れてしまった

いまでもほてるかやさしい耳よ
いまでもにじむか老いたる瞳
四十すぎての ぶらんこあそびも
・・・・ぎいこぎいこ 辷る白帆よ
少女しのべば 恥ともしない

少女がひとりと聞いてはおどろき
生活にいくらか衰えたなど
ましてや家を支え暮らすと
聞けばふさぐよ わがこころ

・・・・ぎいこぎいこ ゆたかな髪よ
靱い眉毛も 澄んだ瞳も
やさしいのどからふっくら噴きでる
すずしいすずしい天使の声音も
・・・・ぎいこぎいこ胸はずませて

おもうばかりでかなしいばかり
おもいあきらめ年月へたが
・・・・ぎいこ ぎいこ
    このために闇屋しかねぬわが思い           二十二年頃の「詩人」

富士正晴
「小詩集」所収
1957

 うつくしい、うつくしい墓の夢。それはかつて旅をしたとき何処かでみた景色であつたが、こんなに心をなごますのは、この世の眺めではないらしい。たとへば白い霧も嘆きではなく、しづかにふりそそぐ月の光も、まばらな木々を浮彫にして、青い石碑には薔薇の花。おまへの墓はどこにあるのか、立ち去りかねて眺めやれば、ここらあたりがすべて墓なのだ。

原民喜
原民喜詩集」所収
1951