僕は君が生れた時隣りの部屋で
夢中になつて君の母の苦しみを聞きながら原稿を書ゐていた
だつて僕はその時金が一文もなかつたからさ
僕は原稿を書き終へたら君は生れた
僕は原稿をポストへ入れに出ながら
わななく心を押へながら上野にゐる友達に金を借りに行つた
僕はアーク灯のぼんやりした公園の森の中を
声高々と歌を歌つて歩いて行つた
自然に僕は歌つてゐたのだ
僕は自分に氣がついてからも歌つた
僕は愉快でならなかつた
友は金と一緒におむつとタオルを渡してくれた
みな玄関に出て僕を見つめてゐた
僕は皆の顔を見て笑つた
僕はその金でどつさり思い切つて果物を買つて
君の母の所へ歸つて来た
だが 君は生れて
父の生れた土地へも行かない
母の生れた土地へも行かない
両方とも僕達をきらつてゐるのさ
僕はどつちへも通知しない
然しそんな事が何んだ
君はここの所から出発すればいいんだ
何者も怖れるな
勇敢なるかつ誠実なる戦ひの旗を
僕は死ぬまで君のために振るよ。
萩原恭次郎
「断片」所収
1931