Category archives: 1980 ─ 1989

鯛の復活

言葉で表現されたものは真実とは遠いものである
物事は表現され得るものではないからだ
その一瞬において 価値をあらしむるのだ

潮に侵入された部屋の中を鯛は暴れまわった       

そして部屋の外へ飛び出した
空間には外も内も有り得ない          

音もなく死の扉は開かれた
頭と顋を切断されて鯛はその生涯を椀の中で過した   
鯛の眼は汚れた人間の手を見据えていた
キリストの復活を真似て鯛はついに蘇った
どこからともなく喜びの歌がきこえる
潮は天井まで満ち溢れ吸物椀も漂流する
鯛は悠々と尾鰭をうごかして泳いでいた

高橋新吉
「海原」所収
1984

鳥の一瞥

胴体から
首が
離れていていいわけはないように

指が腕から
足が脚から
離れていていいわけはない

しかし
腕から指が
脚から足が
離ればなれに飛散している情景は

鳥の一瞥が
その小さな網膜に まざまざと焼付けている
鳥は墜ちても
その情景は、小さな網膜と倶に腐化し去ることはないであろう

飛散した指は
足は
首は
その位置を恢復せねばならぬ
その位置を恢復せねばならぬ
 (飛散した指が 足が 首が 瞑目するのはそのときである)

北川冬彦
「北川冬彦全詩集」所収
1988

猫よ

胡桃ほどの大きさの
その脳みそで

死んだ子の
顔はおぼえてゐないのだね
ただ 数だけの
ひとつ といふ数だけの
おぼろげな記憶?

おまへが 誰に教はりもしないのに
袋を破って 袋を食べて
あの子の毛並がふんはり立つほどなめて それから
両端から嚙みつぶすやうに止血しながら
上手にヘソの緒を切るのを見たとき
ほとんど <神>を信じさうになった
(<本能>といふことばでは足りなかった!)

でもその時すでに あの子は息をしてゐなかったのだ
わたしが 雪を掘って
雪の下の土を掘って
椿の根もとに 埋めたのだよ
もうひとつ 袋のままの未熟児といっしょに
(あの子には 初めから見向きもしなかった
だから 数にも入ってゐないらしいけれど)

驚いたことに
それから三日たって
おまへはもう一度 死んだ子とそっくりの子を一匹産んだ
こんどはひっそり
わたしを呼びもせず
わたしに いっしょにいきませもせずに

けれどおまへには相変わらず
ひとつ といふ欠落の記憶があったのか
(うらやましいことに
 たぶん<かなしみ>の記憶ではなく
それでおまへは 一匹を盗む
十日前に同じ種の子を四匹産んだ 実の母から
戻しても 戻しても
一匹だけを盗む
(この三日間さうしつづけてきたやうに)

母親は 怒りもせずにそれを見てゐる
やがて突然 あとの三匹の仔猫ごと
娘の傍らに引き移って
やさしく やさしく 娘をなめる
娘はまた ぜんぶの子たちを抱きかかへ
息もつかせず なめつくす

<愛>と呼んではいけないのだらうか
親子 姉弟 恋がたき同士入り乱れ
ある子は祖母の ある子は姉の
マッチ棒の先ほどの可愛い乳首にすがりつき
眠ってはなめ なめては眠り
<かなしみ>さへも宿らない
おまへたちの 胡桃ほどの脳に
宿ってゐる何かを
その深い安らぎを
<愛>と呼んでは いけないのだらうか
わたしたちの
梨の実ほどの脳で

吉原幸子
ブラックバードを見た日」所収
1986

花ぬすびと

庭いちめんの
桜の花びら踏みしめて
姫気分となった朝
空も桃いろになまめいて
遠くの海に溶けていった

きれいなものはぬすんでいいのよ
そんな声がする
いい匂いするから
全部ぜんぶ
開けてね
窓も こころも
千年の血をしたたらせる花の
そんな声が

わたしのこころをぬすんだひとはいなかった
あのひとたちのこころ
にぎりしめたことはなかった
わたしのこころを捧げたかった

咲いた色のまま
うるわしく老いて
風をふるわせ
花はこころを閉じない
ついに訪れなかったものを待ちながら
らんまんと
花は

手のひらを透かして
ひとつひとつの約束をたぐりよせる
記憶がこころを殺す
生きられないから
忘れる
桜は吹雪き
なにもかも 忘れる

崖のふちで花の小枝に手をのばすと
たけのこが
眼の下の竹林からいっせいに空を刺し
わたしの眼に飛びこんでいる

さて 今夕
たけのこを煮て 山椒散らして食べること

新藤涼子
「薔薇ふみ」所収
1985

心について

春の野に
かなしいこころを捨てた。
ふりかへると
そこが怪物のやうに
明るくなツてゐる。

岡崎清一郎
1986

別離

できるなら
ぼくはそこでその全部を暗誦したかつた
(生きた日のかぎりを)
それからプールの縁に桜草をいつぱいに植えて行きたかつた
わらべ唄をうたい
遠い日の子供になつて

嵯峨信之
嵯峨信之詩集」所収
1989

フィアンセ

赤城駅というのが終点。
家の近くに
<この人>がむかし泳いだ川があって
とてもいいところだった。
お母さんと一緒に
おうちの人に挨拶してきた。
式は──キリスト教で、
と君はいった。

<この人>は赤い顔をしていたが、
詩のはなしになると
すぐに夢中になった。
深大寺では
風車を買い、
君は風で風車がよくまわるのを
ふしぎがっていた。

ボヘミアに行ってみたい、と言い、
おでんをたべたい、と言い
時間がない、と言いあい、
借りてきた大きな自動車は
<君の運転では>
木洩れ陽の林の中を
ぐるっと廻っただけで
人生のように重そうで。

──ここから
どこに行くのか。
レースのついた
子どもっぽい服がまだ似合う
小さなフィアンセ。
もうじき、
君らのオルガンを鳴らす
秋がくる──。

菅原克己
菅原克己全詩集」所収
1988

あけがたにくる人よ

あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく
私はいま老いてしまって
ほかの年よりと同じに
若かった日のことを千万遍恋うている

その時私は家出しようとして
小さなバスケット一つをさげて
足は宙にふるえていた
どこへいくとも自分でわからず
恋している自分の心だけがたよりで
若さ、それは苦しさだった

その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった
どんなに待っているか
道べりの柳の木に云えばよかったのか
吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか
あなたの耳はあまりに遠く
茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように
通りすぎていってしまった

もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに
あけがたに来る人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ
涙流させにだけくる人よ

永瀬清子
あけがたにくる人よ」所収
1987

夏帽子

昔わたしがその下で唇をかんだ一本の木があった

その木をゆすると夏帽子に音たてて

雨のやうに桃色のをしべが落ちてきた

いまはその木は刈り倒されて

夏帽子にトマトを盛って

泣きなき帰ってきた子供はもうみえない

ひこばえにも花なんか咲かない

中嶋康博
中嶋康博詩集」所収
1988

音楽

窓辺の冷たい硝子壜

清水をみたして聴き耳をたててみる

明るい水底のレンズに集まるのは

八分音符のふしぎなプランクトンです

中嶋康博
中嶋康博詩集」所収
1988