Category archives: 2010 ─ 2018 (Current)

何処へ

 

いつか幕は降りる

 

アラームにゆり起こされ
逃げ去ろうとする夢の尻尾を追って
朝の鏡にむかうとき
わびしい夜ふけの電車の片隅で
ぼんやり窓にうつる自分の顔に気づくとき
何に囚われて生きて来たのか
惑いの道をさすらっていたのか
ざらついた舞台にひとり取り残され
終末が近づいた予感とむかいあう

 

そのときはじめて出逢うもの
死者たちの吐息がまだただよっている
読みかけた書物の咽喉に
運河に舫う浚渫船のへさきに
窓にひるがえるカーテンのすそに
軽やかにまわる風見鶏の胸毛に
客席をわかせたベース弾きのほそい手首に
それぞれの時 それぞれの場所で
未知の輪郭にやさしくふれようとする

 

そして幕は降りる

 

人はちりぢりに何処へむかうのか
生きながら腐爛しかけた恥にまみれ
すでに傷を癒すすべもなく
やましさ 未練がましさをひた隠し
見知らぬ町の辻に立ちすくむとき

 

不穏な月の暈の下で
透きとおる異界のさまざまな影とすれちがう
はるかな闇のかなたで始まるステージに
最初の明かりが射し込んでいる

 

平林敏彦
ツィゴイネルワイゼンの水邊」所収
2014

耳をください

まず顔が好きでしょ 前髪が好きでしょ
積み木をすぐ崩して遊ぶのすてきでしょ
腹違いの息子 まんじ型の傷のあと
そろそろ気がついてくれなきゃ泣いちゃうぞ

たとえば今日がイスだとしたら壊れそう
くさって脚が折れて気軽に座れなくなっちゃうぞ

さみしがりやだけど群を抜いてがんこ
足が速いことを自慢せずに謙虚
たらいまわしされても文句も言わないで
坂道登ったら夕焼けにひとこと

朝いちばん辞書にある知らないことばを丘で叫ぶと
どこかのだれか知らない人がほれぼれするでしょ

うぬぼれている人の部屋に必ずある写真が
うちにもあるので安心して眠れるね

大きい音ならなんでもよくって
歌える歌なら好き嫌いもない
はなしを聞くならいくらでも
ぼくの耳はだれかのもの

かなしそうな声でうれししそうな声で
どんな人からどんな時電話が来るの
道を歩きながら自転車乗りながら
どれくらいの音でイヤホン聴いてるの

朝いちばん辞書にある知らないことばを丘で叫ぶと
どこかのだれか知らない人がほれぼれするでしょ

柴田聡子
さばーく」所収
2016

みえない手紙

どこにいますか
おげんきですか
背すじのばして歩いてますか
わらう日々を すごしていますか
ときどき泣いたりしてますか
ちょっとスネたりもしてますか

どこにいますか
おげんきですか
話につまると空を見あげて
きっかけをさがそうとしましたね
あの日 あなたもわたしも
いっしょうけんめいでした

どこにいますか
おげんきですか
わたしは なんとかやっています
ときどき ふっとたちどまり
あなたを探す自分に気がつき
しらぬまに急ぎ足になります

どこにいますか
おげんきですか
あなたとわたしを へだててしまう
かぞえきれない春夏秋冬
みえないあなたに きりもなく
みえない手紙を書いてます

どこにいますか
おげんきですか

追伸=きょうはいい天気です

工藤直子
じぶんのための子守歌」所収
2013

檸檬

引き絞られた呼び声が
ひかりにとけて
アスファルトに堆積する
枯れていく夏のふるえる手
耳を聾され
汗がにじんで
握りしめたのは
檸檬

  *

おれ、瓶ビール飲んで
鯖の塩焼きと冷奴をつまんで
カウンターのなかの兄さんたちを眺めて
いたところ、ふいに
誰かに呼びとめられたような気がして
だけれども兄さん、水割りつくってるし
並んで座った男たちは無口
みな静かに夏の午後の
束の間の休息を味わっている
そうだ、いい午後だ
なんの心配もしなくていい
思って悠々と
煙草に火をつけた
そしたら

檸檬を握りしめて男
遠くからこっちを見ていた
蓬髪、破れた作務衣
自称陶芸家みたいな
あるいは田舎で十割蕎麦やってます
みたいな感じ
だけどその表情
その表情は無であった
まるでやせ細った樹木のように立って
檸檬ひとつ
優しく握りしめて
男、仁王立ちに立ってこっちを見ていた

瓶ビール
最後の一滴までグラスに注いで
もう一度見ると
もう男はいない
なんだったのだろうかと
考えてはみたもののわからない
けれどもなぜだかおれは
彼のことを知っているような気がして
忘れてはいけないことを忘れているような
妙な心持になって
ビールを一息にあおり
兄さんに清酒
コップ一杯二百二十円のを頼んで
夏だった
そとにはひかりが溢れていた

  *

引き絞られた呼び声が
ひかりにとけて
アスファルトに堆積する
枯れていく夏のふるえる手
耳を聾され
汗がにじんで
握りしめたのは
檸檬

藤本徹
「青葱を切る」所収
2016

五月

流れていく緑
あの中をゆっくり歩きたいと
窓の外を見ている

赤ん坊を抱いた人が乗ってきて
隣りに座る
ふっくらした赤ん坊が
澄んだ眼でこちらをしきりに見る
口元がほころぶ
赤ん坊も笑う
肩がほぐれる

あやそうとすると
赤ん坊の視線はそのままわたしに注がれて
わたしの面に真っ直ぐに注がれて
貼りつく

わたしの中で
葉がわずかにゆれ
枝々が震える
光を通さない葉の重なり

わたしの木を
赤ん坊がじっと見ている

小網恵子
「野のひかり」所収
2016

中国紀行

やがて朝焼けが、
拡散し、煙突や船橋の壁に
闇の中からの最初の分離を
与えていくと
わたしたちもまた
朝に
移り変わっていったのかもしれない。

夜通し目覚めていて、お互いもう眠っているのかもしれないと、黙って空をみていた。
海鳴りのただなかの、強風の甲板で、二人しらじらと明けゆく。青いフィルムが一枚ずつ剥がれて、さめざめとした光が重たい朝もやの中に、岸沿いの造船所や紡績工場を浮かび上がらせると、波のうえに白く海鳥が、
清浄な死者へ手向ける
献花のようにみえる。

(どうしてこんな、寂しいことをおもうのか。
(夕べあんなに芳しい、誘いだす花のようだったのに
(やわらかい、卵形に似た秘密の隔絶
(特別なやり方の目配せや、芳醇な沈黙が
(今朝はもう渡っていった。そして黄泉の国へ、尾を引いて落ちた。
(わたしたちは夜通し若さをアルコールのように灯し
(暁がくると、いっぺんに老いてしまったような気がする。
(そして朝が、まぎれもない朝が
(新鮮な果実や魚を運んでくる

いつの間にか漫々とした泥水
濁った川波のうえを
船体の低い平べったい舟が
いろいろの品を積み、進んでいく

川風は
潮の境の色をなぶり
青年の焼けた髪をなぶり

彼は、
ハルビンで生まれたという
薄い眸をしている。動物のようだと、耳打ちすると、あなたも笑うと猫に似ているね、と静かな、いくぶん眠そうな面差しのなかで、眸だけがつめたく燃えている。これは荒野に目醒める動物の眼だ、巨星のような。幾年月、被膜もない野曝しの、遺跡のように沈黙していた。ざわめきを閉じ込めたまま沈黙してしまった、
彼の、城跡に似た
うつくしい横顔。

(揚子江は泥水
(上海は煙って黄色い空
(次第に雨。
(人ごみを避けて、裏道
(指先だけでこっそり繋ぎ
(くしゃくしゃのコートを
(あなたと思うだろう、しばらくの間は、たぶんきっと
(ふいにわたしは雨がさみしく(ね、日本は好きですか、
あなたの生まれた街の雨を
思う
(──駅へ、

彼は
祖国に
帰らざる日々を燃やし
つめたい熱の眸はなおいっそう
黒龍江に流れる雨粒を
       (雨に濡れると、
        子どもの頃を思い出す、
        いつもこんな静かな)故郷の水を
からだいっぱいに携えて、
荒野へと 流離ってきた
あなたの眼は深く、遠のいて、
星明りをまっすぐ吸い込んだ
もう一度きりの
ロブノールの湖面。
       (雨が降っていた。緑が綺麗だった。
子どもの頃は、みんな綺麗だった──)

その指冷たく、なめらかに冷たく

乳色の光、列車の窓をすべり落ちる
雨だれ・・・・

川の水は海へと抜け
オホーツクの海峡で冷えゆくとき
故郷をまっすぐ振り返るだろう
あなたが異国の恋人たちのまにまに
かすめとっていく眼差しで
帰還せよ、と呼ぶからだじゅうの水を
宥めすかしながら
渡ってきた道を
いっさんに駆けだしていく
視線の一群
届かざる、
年月

さあ猫みたいな子だね、おいで、こっちに
(列車は西安へ──
だがあなたもまるで
まだ七つほどの、痛ましい清澄。(だから、
傘がないときは、
雨宿りをしなければならない、
ひっそりとさみしさが (わたしたちの 子ども時代の影が
通り過ぎるまで
街や大通りの喧騒の
ひとつ上空からくる

雨だれの中へ埋没していくことを、
ふいに震撼する
あなたとわたしの
輪郭線や
皮膚の下が暴かれる
晴れ間のように潔白な、
真っ白い
分離を引き起こす
その瞬間までは。

暁方ミセイ
「ウイルスちゃん」所収
2011

詩が住んでいられる空間は、もっと広い。(詩と写真)

 少し意識をずらすだけで、別の見え方が現れることがある。例えば、雨の中、ビニール傘をさして歩いているとき、一瞬、透明なビニールを滑る水滴へまなざしを移せば、視界は、空を流れる雫の眺望に変わってしまう。少しのずれから生まれる微かな非日常は、些細でも、きらめきがある。私は日々の些細な裂け目を、詩を書くときに大切にしたい。それは写真でも変わらない。1999年1月からHP「北爪満喜の詩のページ(ただいま小休止中)を開設し、ブログのはしりの言葉と写真のコーナー「memories」を始めた。今も更新し続けていて、いつもコンパクトデジタルカメラを持ち歩いている。(注)  どこかへ行くとき立ち止まって撮ったり、部屋で光や何かに反応して撮ったりと、生活の一部のようになっている。ファインダーを覗かずに撮れるカメラは、撮ることを人の目の高さから解放し、固定した視野からも解き放った。だから私は、柔軟に周囲や対象と向き合って撮ることができる。

 これまで写真を撮ることは、銃を撃つイメージと重ねられてきた。今使っているファインダーがないコンパクトデジタルカメラでは、撮ることは対象を撃つよりも、探ることに近い。固定された視野からではなく多様に撮ることは、意図しない新鮮さを探ることでもある。そこに詩のまなざしが写真を見いだし、言葉を呼び、生きられる広がりがある。これまでこの違いについて何か語られた言葉を読んだことがない。けれど「人の目の高さから解放」されたことは、特別な出来事ではないか。

 人の目は、思ったほど自由に物を見ることができない、という事実はあまり意識されていないようだが、社会の中で人は習慣化した目で見ながら過ごしている。その習慣化した見方や、既成概念に捕らわれた枠から、外れる見え方を得る可能性が、コンパクトデジタルカメラで撮ることに隠れている。私は、腕が動き手首が回る範囲の体の動きに添って、コンパクトデジタルカメラで瞬間瞬間に反応しながら、できるだけ柔軟に撮りたい。光なのか、遠さなのか、質感なのか、色彩なのか、対象へのこだわりなのか、状況なのか、その瞬間瞬間に反応しているのは、はっきりとした一つの動機だけではないことが多い。あらかじめ分かって詩の言葉を書くことがないように、なぜ撮っているのかを意識してみると、それは発語の奥行きの深さや多様さを彷彿とさせる。だから柔軟に撮って、そこに詩のまなざしが呼吸できる光の切れ端をメモリーにたくさん記録する。

 そうして撮った無数の瞬間は、夜、パソコンに移し変えるのだが、それらはまだ写真以前の光の切れ端だと思っている。後で一枚一枚を選んでゆくときに、光の切れ端は、初めて写真になる。選んだ一枚の写真が起点になって、無意識の何かに背を押され、写真を背にして歩きだすように詩の言葉を進めてゆくことがある。また言葉も写真も並行して行き交いながら、詩と組写真になってゆくこともある。ただ、皮膚の外である外部を撮った写真と、言葉は別のものだから混じることはない。けれど、それはまるで、言葉と写真が少しずつ出会いながら、育ってゆくひとときのようだ。詩は詩で、写真は写真で、どちらかがどちらかの背景ではなく、自立して作品となることをこれからも目指したい。

 写真誌『アサヒ・カメラ』昭和14年10月号に萩原朔太郎が詩人としてエッセイを寄稿していて「記録写真のメモリイを作る為でもなく、また所謂芸術写真を写すためでもない」機械の光学的な作用を借り「郷愁」を写したい、と語っている。今になってとても響く。機械の光学的な作用を借り、私は、日常の習慣的な見方や既成概念の捕らわれを崩し「脱出」する一枚一枚を写したい。そして言葉と写真の両方で詩を求めてゆきたい。

 展示は何度やっても不慣れで分からないことばかりで不安もあるが、続けている。銀座3丁目のビルの通路での展示は常設で、HPに地図(北爪満喜・詩と写真展2016.10.7よりfile.15)を掲載している。また、今年2013年3月20日から24日、前橋市のミニギャラリー千代田で開催した詩と写真展『記憶の 窓は水色の枠』はYouTubeにアップロードした。詩への入口を増し、間口を広げて、街を行きながら、ネットを見ながら、ふと目を向けてくれた誰かに、詩が届くことを願う。

 ビルを訪れる様々な目的の人々が、ふと写真や言葉を目にし、日常の些細な裂け目にざわつくとしたらどうだろう。通路で広告の言葉ではない言葉を読むことで、気になってしまったらどうだろう。通路は見慣れない場所になり、人々の中に別の空間をつくる。そこは詩の住みはじめた空間なのだ。詩が住んでいられる空間は、出会う毎にうまれ、作品や文字を離れ、もっと広いのだと思う。

 先日の前橋の展示で印象的な出来事があった。見知らぬ若い女性が、トイレの男女の記号を写した写真を指差して「救われた気持ちになった」と言った。私には届かない、作品が完全に旅立った瞬間だった。詩と7枚の組写真の中の一枚だったが、彼女が展示した言葉を見て、どの部分かを強く受け止め、写真から何かの声を聞いて、新しい詩を作ったに違いない。彼女は、あまり詩が身近ではいな人のようだった。彼女に生まれた詩の空間を祝いたい。

北爪満喜
「現代詩手帖2013年8月号」初出
2013

注  HP「北爪満喜の詩のページ」・・ただいま小休止してます。
北爪満喜 詩と写真展 file.15
通路の詩と写真展常設(銀座3丁目のビル1階通路) 2016年10月7日から file.15 展示しております。  

(萩原朔太郎と写真 参考文献)
下記のLinkにステレオ写真愛好家氏による萩原朔太郎の「僕の写真機」の紹介があります。
http://midi-stereo.music.coocan.jp/irohastr/hagiwara.htm

鳥についての短い情報

小学館の図鑑NEO(ネオ) POCKET(ぽけっと)『鳥(とり)』(二〇一二)の、ページの下の部分に、一行で書かれた鳥についての情報の文章があるので、今回はそれを引用して、思ったことを書く
「春(はる)になると、鳥(とり)が繁殖(はんしょく)のために北(きた)へと旅立(たびだ)つのは、北方(ほっぽう)で食(た)べ物(もの)が多(おお)く発生(はっせい)するからです。」
多く発生するものはキノコで、キノコのようなフクロウがキノコを食べて中華料理の材料になる。北には白いシロフクロウがいて、とても丸かった、丸かった
「スズガモは貝(かい)をからごと飲(の)みこみます。からは胃(い)のなかで粉々(こなごな)にされ、はいせつされます。」
カモを見ると、ああ、あのカモの中で、貝殻は粉々になっているのだな、ということを思うことにする。サザエこなごなになる。カルシウムざらざらである、飛んでいる
「ミコアイサのオスは、顔(かお)のもようから、パンダガモの愛称(あいしょう)でよばれることがあります。」
白い部分が多いカモで、目のまわりが黒い、カモ科の鳥である。竹を、食べるのかもしれない。竹は貝殻のように粉々になるだろう。パンダは森で竹をバキッと折る
「鵜(う)飼(か)いは、ウに魚(さかな)を飲(の)みこませてとる漁(りょう)の方法(ほうほう)です。日本(にっぽん)ではウミウを使(つか)います。」
ウが飲み込んだ魚は缶詰の中身になって、金属の色で輝いて、店に暗く並んでいるだろう。店の看板や、缶詰のまわりには、〈新鮮な魚〉と書かれていて、水煮!水煮
「日本(にっぽん)のサギのなかまで、最(もっと)も小(ちい)さいのは、ヨシゴイです。」
アオサギはとても大きな動物であると思いながら、私は自分の上を飛んでいくバッサバッサのアオサギを見ていた。アオサギよりも人間よりも小さな指のような よしごい
「体(からだ)の大(おお)きな種(しゅ)をワシ、中型(ちゅうがた)以下(いか)をタカとよびますが、はっきりした区別(くべつ)はありません。」
イルカとシャチにあまり区別がないので、海岸でキノコを食べているウミウシのような生きものがバサバサ飛んだらシャチのようなタカだったりワシだったりする、みさご
「漢字(かんじ)で水鶏(すいけい)と書(か)いて、クイナと読(よ)みます。水辺(みずべ)にすむ鶏(にわとり)に似(に)た鳥(とり)、という意味(いみ)です。」
ヤンバルクイナがニワトリのようにたくさんいる風景が夢で、ヤンバルクイナの暗い顔が木に並んでいる版画。カラーの、着色された、版画で、めずらしい鳥の美術館
「ウミネコは、鳴(な)き声(ごえ)がネコに似(に)ていることから名(な)づけられました。」
ウミウシは鳴き声が牛に似ていたのかもしれないし、チョウザメは飛んでいた。チョウザメを見て、長いUFOであると思っていた。ミミズクはネコのような動物だった
「海(うみ)鳥(どり)の減少(げんしょう)は、漁(りょう)のあみにかかるものが多(おお)くいることも原因(げんいん)の1つといわれています。」
そのようにしてサメも減少している写真を見た記憶がある。鳥の肉も缶詰になって、私は缶詰が苦手で、缶詰が犬のように鳴くので、滑走する缶詰から逃げる私わたし
「ピジョンミルクは、全体(ぜんたい)の約(やく)74%が水分(すいぶん)です。ウシのミルク(牛乳(ぎゅうにゅう))は、約(やく)89%が水分(すいぶん)です。」
ハトはピジョンミルクを出してヒナを育てるのだ、という。ウミウシもナマコもドロドロになって、水分が牛乳よりも少ないのだろう。絵の具で海底に色を付けたのである
「フクロウ類(るい)の羽角(うかく)は、角(つの)や耳(みみ)ではありません。羽毛(うもう)です。」
ミミズクは鬼のような形相でネズミや地獄の人間を食べてしまうのだろうと思う。それから壁に貝殻を飾っていた。貝殻は虹の色にキラキラ光る熱帯の羽毛のような熱帯魚
「ブッポウソウのひなは貝(かい)がらや金属(きんぞく)を飲(の)みこみ、かたい甲虫(こうちゅう)を消化(しょうか)する助(たす)けにしています。」
めずらしい金属を飲み込むのかもしれなかった。テルルは貝殻のようなものである。甲虫も金属で、貝殻が羽で、壁に貼り付けて、壁を壁画にしてロココにしていた
「キツツキが木(き)にあけたあなは、小鳥(ことり)や小動物(しょうどうぶつ)が巣(す)あなとして利用(りよう)します。」
むささびは木の丸い穴から顔を出していた。穴は闇であった……むささびの顔の後ろに、闇が、広がっている。その穴はキツツキが彫刻したもので、リスの彫刻である
「カケスは鳴(な)きまねがうまく、ほかの鳥(とり)の声(こえ)だけでなく、救急車(きゅうきゅうしゃ)の音(おと)などもまねて鳴(な)きます。」
私が倒れた時、カケスの背中の上にいて、テーブルの上で名前や住所を紙に書いたり、話していたような記憶がある夜。カケスは乾いたゴジラのようなものだっただろうか
「トラツグミの気味(きみ)の悪(わる)い声(こえ)は、想像上(そうぞうじょう)の動物(どうぶつ)「ぬえ」の声(こえ)ではないか、といわれていました。」
わたしトラツグミの鳴き声を聞いた記憶がありますが、ヌエであるとは思わず、何であるのか全くわからないと思って眠っていた。ヨタカの声のようなものであると思った
「鳥(とり)の羽毛(うもう)には、ダニがついていることがあるので、さわったら手(て)洗(あら)いをしましょう。」
たくさんの小さな細かい虫が集まって宇宙を作るように鳥を作っているのであるのだな。羽毛はやがて腐ってバラバラになるだろうし、緑色になるだろうと思った
「フラミンゴミルクは、食道(しょくどう)の一部(いちぶ)である素(そ)のうから出(で)る、栄養(えいよう)ほうふな液体(えきたい)です。」
ハトがピジョンミルクを出すように、フラミンゴからはフラミンゴミルクが出るんだな。ドロドロな液体が多い地球なので演奏して歌ってしまうよ。なまこも歌うだろう
「シロハラウミワシのえものの90~95%が、魚(さかな)とウミヘビだったという研究(けんきゅう)があります。」
ウミヘビは、たくさん、いるんだな。私はウミヘビをあまり見たことがないような記憶がある。水族館でウミヘビがたくさん泳いでいると、水族館の屋根を破って鳥が来る!

小笠原鳥類
夢と幻想と出鱈目の生物学評論集」所収
2015

大みそかに映画をみる

年末になると、毎年子狸たちが家(うち)に疎開しに訪れる。
賭け事を好む天狗たちが、来年に振る賽子(さいころ)の中に入れる命を山に探しにくるためである。

床に落ちていた一本の白糸をすくい、指でつまんで、すとそれを引き抜いたときにある狸が言ったのは、
「あ これは線路に似ている。」
それで、皆で大笑いをしている。
疎開しているために、彼等の身長は私の握りこぶし程だが、
それでもたくさんの子狸たちが一斉に笑い転げると騒がしい。
廊下の奥で、今年の四月に亡くなった祖母が心配そうに顔をのぞかせている。
大みそかの日になって、夜、紅白歌合戦の決着もつかぬうちに、初詣をしに家を出た。
しばらく平坦の道を歩いた後、コンクリートの坂をずんずんと上がっていった。
酔っぱらったように、狸たちはアジア音楽の節回しの歌を歌っている。
向かいから子どもが母親と並んで歩いて来たが、疎開の狸たちに気がつかず行ってしまった。
「小さなものの横を通り過ぎるとき、自分がまるで化け物のように思える。」
親子にとって、蟻のように群れる狸の集団は、単に生臭い風に過ぎなかっただろう。

公園までたどり着くと、木々の葉が電灯に照らされ緑色に発光していた。
奥へは登山口が続いている。
我々は石造りの鳥居の建つ山の道を進み歩いた。

よく見れば、電灯の蛍光灯が葉を通り抜け山の中まで照らしているのではなく、木と木の間に、明るい映像の膜が張ってそれが光っているのだ。
木の葉の色が移り、映像はやや緑がかっている。
映像の中に私自身の姿はない。
これは、今年に私自身が体験したものであるからだ。
覚えのある声が、通り過ぎる木々の映像からざあざあと流れる。
「・・・・どんなことをするにしても、これは自分にしかできないことだと誇りを持つこと。些細なことでも、他の人にはできないことだと信じ誇ること・・・・」
あれは、今年の十月に定年退職をした業務監査室長の映像だ。
彼の横顔と、職場に向かって語りかけていた様子が上映されている。
カメラの前の白いキャビネットが、映像を少し塞いでいる。

あちらこちらで、映像の膜が張っている。
横目で確認しつつ、ひたすらに暗い夜坂を上る。
映画だろうかとも思う。

私は十一月に部屋を訪れていた男の服を捨てた。
電話がかかってきた時、もらった手紙を粉々に引き裂いてしまった。
荷物は全部捨ててほしいと言われた。
私は送り返したいと思ったが、住所を知る術もなく、また、戸棚にしまって眠ろうとすると、夜に扉を内から叩いてうるさい。
仕方なく透明の袋に包んで、所定の場所に置いていたら、住みかの決まり通りに業者に持っていかれてしまった。

山を上がるごとに、狸はもとの大きさを取り戻して駆け上がっていく。
面白がって人間に化ける者もいるが、その中に、覚えのある背の形がうつった。

夜は刻々と更けていく。
決して、浅くなっていくというものではない・・・・
そうして映像はいっそう濃く、鮮明になっていく。

(東京タワーが小さく見える、
東京スカイツリーも、もはや米粒以下だ・・・・)

明けろ明けろ!
毒をもって毒を制すが如くに、夜が一層に更けて、
一気に透明になる瞬間が訪れる!

霧に包まれているかと思った。
我々は無我夢中で山道を上がっているが、今年の思い出が、やがて不鮮明になっていくのを肌で感じている。
同時に、狸たちの姿も薄れていくだろう。
重なり合う音声が、徐々に遠くなっていく。
前を歩く狸は天狗を警戒しつつ、前につんのめりそうになりながら、さらに茂みの奥へと入っていった。

マーサ・ナカムラ
「現代詩手帖2016年1月号」掲載
2016

「ポエタロ」より

天にむかい
天をささえ
地にしるし
地をさす
むすばれる星明かりと
土の匂い

冗談

言葉と言葉の間にある
空気の指が
君の細胞のすきまを
くすぐる

空を大地をめぐれ
からだをめぐれ
いつでも
動きつづけるものだけが
清らかだ

しお はるかな
    うみのあじがする
しお よあけのゆきと
     おなじいろ
しお いのちをささえ
     いのちをきよめる
小さじいっぱいの
ちきゅうのかたみ

覚和歌子
ポエタロ」所収
2016