詩が住んでいられる空間は、もっと広い。(詩と写真)

 少し意識をずらすだけで、別の見え方が現れることがある。例えば、雨の中、ビニール傘をさして歩いているとき、一瞬、透明なビニールを滑る水滴へまなざしを移せば、視界は、空を流れる雫の眺望に変わってしまう。少しのずれから生まれる微かな非日常は、些細でも、きらめきがある。私は日々の些細な裂け目を、詩を書くときに大切にしたい。それは写真でも変わらない。1999年1月からHP「北爪満喜の詩のページ(ただいま小休止中)を開設し、ブログのはしりの言葉と写真のコーナー「memories」を始めた。今も更新し続けていて、いつもコンパクトデジタルカメラを持ち歩いている。(注)  どこかへ行くとき立ち止まって撮ったり、部屋で光や何かに反応して撮ったりと、生活の一部のようになっている。ファインダーを覗かずに撮れるカメラは、撮ることを人の目の高さから解放し、固定した視野からも解き放った。だから私は、柔軟に周囲や対象と向き合って撮ることができる。

 これまで写真を撮ることは、銃を撃つイメージと重ねられてきた。今使っているファインダーがないコンパクトデジタルカメラでは、撮ることは対象を撃つよりも、探ることに近い。固定された視野からではなく多様に撮ることは、意図しない新鮮さを探ることでもある。そこに詩のまなざしが写真を見いだし、言葉を呼び、生きられる広がりがある。これまでこの違いについて何か語られた言葉を読んだことがない。けれど「人の目の高さから解放」されたことは、特別な出来事ではないか。

 人の目は、思ったほど自由に物を見ることができない、という事実はあまり意識されていないようだが、社会の中で人は習慣化した目で見ながら過ごしている。その習慣化した見方や、既成概念に捕らわれた枠から、外れる見え方を得る可能性が、コンパクトデジタルカメラで撮ることに隠れている。私は、腕が動き手首が回る範囲の体の動きに添って、コンパクトデジタルカメラで瞬間瞬間に反応しながら、できるだけ柔軟に撮りたい。光なのか、遠さなのか、質感なのか、色彩なのか、対象へのこだわりなのか、状況なのか、その瞬間瞬間に反応しているのは、はっきりとした一つの動機だけではないことが多い。あらかじめ分かって詩の言葉を書くことがないように、なぜ撮っているのかを意識してみると、それは発語の奥行きの深さや多様さを彷彿とさせる。だから柔軟に撮って、そこに詩のまなざしが呼吸できる光の切れ端をメモリーにたくさん記録する。

 そうして撮った無数の瞬間は、夜、パソコンに移し変えるのだが、それらはまだ写真以前の光の切れ端だと思っている。後で一枚一枚を選んでゆくときに、光の切れ端は、初めて写真になる。選んだ一枚の写真が起点になって、無意識の何かに背を押され、写真を背にして歩きだすように詩の言葉を進めてゆくことがある。また言葉も写真も並行して行き交いながら、詩と組写真になってゆくこともある。ただ、皮膚の外である外部を撮った写真と、言葉は別のものだから混じることはない。けれど、それはまるで、言葉と写真が少しずつ出会いながら、育ってゆくひとときのようだ。詩は詩で、写真は写真で、どちらかがどちらかの背景ではなく、自立して作品となることをこれからも目指したい。

 写真誌『アサヒ・カメラ』昭和14年10月号に萩原朔太郎が詩人としてエッセイを寄稿していて「記録写真のメモリイを作る為でもなく、また所謂芸術写真を写すためでもない」機械の光学的な作用を借り「郷愁」を写したい、と語っている。今になってとても響く。機械の光学的な作用を借り、私は、日常の習慣的な見方や既成概念の捕らわれを崩し「脱出」する一枚一枚を写したい。そして言葉と写真の両方で詩を求めてゆきたい。

 展示は何度やっても不慣れで分からないことばかりで不安もあるが、続けている。銀座3丁目のビルの通路での展示は常設で、HPに地図(北爪満喜・詩と写真展2016.10.7よりfile.15)を掲載している。また、今年2013年3月20日から24日、前橋市のミニギャラリー千代田で開催した詩と写真展『記憶の 窓は水色の枠』はYouTubeにアップロードした。詩への入口を増し、間口を広げて、街を行きながら、ネットを見ながら、ふと目を向けてくれた誰かに、詩が届くことを願う。

 ビルを訪れる様々な目的の人々が、ふと写真や言葉を目にし、日常の些細な裂け目にざわつくとしたらどうだろう。通路で広告の言葉ではない言葉を読むことで、気になってしまったらどうだろう。通路は見慣れない場所になり、人々の中に別の空間をつくる。そこは詩の住みはじめた空間なのだ。詩が住んでいられる空間は、出会う毎にうまれ、作品や文字を離れ、もっと広いのだと思う。

 先日の前橋の展示で印象的な出来事があった。見知らぬ若い女性が、トイレの男女の記号を写した写真を指差して「救われた気持ちになった」と言った。私には届かない、作品が完全に旅立った瞬間だった。詩と7枚の組写真の中の一枚だったが、彼女が展示した言葉を見て、どの部分かを強く受け止め、写真から何かの声を聞いて、新しい詩を作ったに違いない。彼女は、あまり詩が身近ではいな人のようだった。彼女に生まれた詩の空間を祝いたい。

北爪満喜
「現代詩手帖2013年8月号」初出
2013

注  HP「北爪満喜の詩のページ」・・ただいま小休止してます。
北爪満喜 詩と写真展 file.15
通路の詩と写真展常設(銀座3丁目のビル1階通路) 2016年10月7日から file.15 展示しております。  

(萩原朔太郎と写真 参考文献)
下記のLinkにステレオ写真愛好家氏による萩原朔太郎の「僕の写真機」の紹介があります。
http://midi-stereo.music.coocan.jp/irohastr/hagiwara.htm

One comment on “詩が住んでいられる空間は、もっと広い。(詩と写真)

  1. 「詩が住んでいられる空間は、もっと広い」は北爪満喜さんの許諾をいただいた上で掲載しております。
    無断転載はご遠慮ください。

    この詩を読んで興味を持たれた方は是非、下記もご覧下さい。
    本文中にも関連ページにLinkを貼っております!

    北爪満喜ホームページ 
    (Fire Foxでは文字崩れが起るようですので気をつけてください)
    http://www1.nisiq.net/~kz-maki/

    北爪満喜Twitter
    @kitazume363

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