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今わたしはなにかを忘れてゆく

なにを考えていたのだろう

今わたしはなにかを忘れてゆく

そして忘れてゆくことも忘れてゆくだろう

四月二十七日午後五時五十一分

液晶は 時刻のこわれやすさ

そこに一分とどまり

わずかに無へと滲んでゆくもの

目をあげれば光は

より薄いままに四囲をあかるく満ちている

建物の稜線はふくらみ

電線に曇り空の量感はまし 雪をさえ思わせる

 

わたしはみているのだろうか

それともみえない というかなしみなのか

みたい というよろこびか

空にむかいときおり不思議な穴のようになる視野

かすかに藻のようにうごく

こころのうごめきの感触だけがわかる

なにを考えていたのだろう

言葉はなにも思わないうつろないきものとして

また色づかないまま沈んでゆく

いおう としていたのか

いいえない とあきらめてゆくのか

水のように点りはじめた外灯

それらがなににともなくあるために いきづく空のパールグレー

 

気がつけば

より青みをました空気に

白くこまかなものがただよっている

雪でもなく 灰でもなく 残像の淡さで

記憶がかすかに藻のようにうごく

鳥が電線から旅だったのか

わたしは鳥をみていたのだろうか

それはどんなふうに飛びたち

一瞬空を不思議な色にして また翳らせたか

光をなくしたガラスに樹木の影はすでに夜のようにほどかれている

曇り空 電線 トランス 繁り葉

ふれたこともないそうした端から

光のニュアンスは変わっている

わたしはなにかを忘れたことに気づく

忘れたことも忘れてゆくことに

鳥の羽毛だと思う

飛ぶことにかかわったなにかであると思う

そのように思わせるなにかが

空にのこされている

立ち騒いだあとの空白が わたしにのこされている

手にとろうとすれば

ただようものは風圧でふいとそれてゆく

ひとつひとつに思いがけない意志があるのか

わたしはいくどもそれをくりかえす

忘れたことも忘れてゆきながら そしてそのことに気づきながら

みえないひとの襟をなおすように指をのべてゆく

なにを考えていたのだろう

鳥について?

光と影について?

なぜ意味もなく携帯をみてしまったかについて?

わたしのものでありすぎてやわらかでくずれやすいもの

鳩のくぐもる声でかんがえていたこと

(I feel so good, It’s automatic) *

コンビニの隙間から歌声がきこえる

藻のように揺れる美しいサビの部分は

なにもかもオートマチックだといっている気がする

きこえるたびに なにかを忘れてゆく

そして忘れてゆくことも 忘れてゆく

信号の青は青よりもあおく

梔子の白は白よりもしろく

曇り空のパールグレーは水のように光る外灯あたりをうずまき

不動の世界は

色と質感をオートマチックに深めてゆく

鳥の声はきこえない

デモ言葉ヲ失ッタ瞬間ガ一番幸セ、

輝きだしたコンビニはセイレーンのように歌いつづけている

飛び去ったものはあの歌声のなかに消えたのかもしれない

 

羽毛は仄光り 空気は昏くなる

空はなにかがいなくなったブルーグレーの画面

そこにうっすら忘却の軌跡があり

去ったものの匂いがのこっている

いくばくかまえの胸のやわらかさと鼓動のはやさ

思いだしもしないのに忘れることのないものの消滅

また曇り空はのこされて

時間はかすかにこわれ

電線とトランスと繁り葉とともに世界は濃くなっている

夜ではなく

忘れてゆくことも忘れてゆくことの果て を想う

 

* 宇多田ヒカル「Automatics」

 

河津聖恵

アリア、この夜の裸体のために」所収

2002

The Erotics Is a Measure Between

 after Lorde

 

Your body is not my pommel horse

nor my Olympic pool or diving board.

Your body is not my personal Internet

channel nor my timeline,

nor my warm Apollo spotlight.

Your body is not my award

gala. Your body is not my game—

preseason or playoffs.

Your body is not my political party

convention. Your body is not

my frontline or my war’s theatre.

Your body is not my time

trial. Your body is not my entrance

exam or naturalization interview.

I am a citizen of this skin—that

alone—and yours is not to be

passed nor won. What is done—

when we let our bodies sharpen

the graphite of each other’s bodies

—is not my test, not my solo

show. One day I’ll learn. I’ll prove

I know how to lie with you without

anticipating the scorecards of your eyes,

how I might merely abide—we two

unseated, equidistant from the wings

in a beating black box, all stage.

 

Kyle Dargan

From “Honest Engine

2015

 

エロティック 相手との距離を測るもの

 

ロードに倣いて

 

あなたの肉体は私の鞍馬ではない

私のオリンピックプールでもないし

飛び込み台でもない。

あなたの肉体は私のネットチャネルではないし、

私のタイムラインではない。

私の「アポロ」の暖かいスポットライトでもない。 *

あなたの肉体は私の祝祭の報いではない

あなたの肉体は私の試合 ─プレシーズンあるいはプレイオフの─ ではない

あなたの肉体は私の政党の大会ではない。

あなたの肉体は私の前線ではない。

あるいは私の戦争の劇場ではない。

あなたの肉体は私のタイムトライアルではない。

あなたの肉体は私の入学試験ではない。

あるいは移民審査ではない。

私はこの肌の市民である

─ただそれだけ─

そしてあなたは

通過することも

勝利することもない。

なされたこと ─

我々が自らの肉体を研ぎ澄ませる時

それぞれの肉体の黒いチョーク

─それは私の試験ではない。

また私のソロのショーでもない。

いつの日か

私は学ぶだろう。

私は証明するだろう

私があなたを欺くすべを知ったことを。

あなたの瞳の値踏みを見越すことなく。

私はただじっと待つ

─我々二人

落馬して、

翼から等しい距離で

全てのステージで

ブラックボックスを叩きながら

 

* 訳注 アポロはニューヨークハーレムにある劇場

無力の夏

コップは割れて鳥子の喉に流れ込むはずだったアプリコットジュースが床にこぼれてしまう《モウ一度ヤリ直サクチャ》振り向きざま鳥子に手渡そうとしたコップは割れて鳥子の喉に流れ込むはずだったアプリコットジュースが床にこぼれてしまう《モウ一度ヤリ直サクチャ》なみなみと注いだアプリコットジュースの冷たさが硝子越しに指を凍えさせるから振り向きざま鳥子に手渡そうとしたコップは割れて鳥子の喉に流れ込むはずだったアプリコットジュースが床にこぼれてしまう《モウ一度ヤリ直サクチャ》美しく透んだ氷を選んでいくつも入れなみなみと注いだアプリコットジュースの冷たさが硝子越しに指を凍えさせるから振り向きざま鳥子に手渡そうとしたコップは割れて鳥子の喉に流れ込むはずだったアプリコットジュースが床にこぼれてしまう《モウ一度ヤリ直サクチャ》開け放したままの冷蔵庫から漏れる淡いオレンジ色の光を浴びながら美しく透んだ氷を選んでいくつも入れなみなみと注いだアプリコットジュースの冷たさが硝子越しに指を凍えさせるから振り向きざま鳥子に手渡そうとしたコップは割れて鳥子の喉に流れ込むはずだったアプリコットジュースが床にこぼれてしまう《モウ一度・・・・・

 

修復 できない

幾度繰り返しても(いいえ たったいちどだけ)コップが割れて

飛び散る無数の硝子片がマーブルの床に突き刺さる

 

「リピート・プレイをぬけだすには」

遠くから鳥子の声が聞こえる

そう リピート・プレイをぬけだすには わたしはそれが知りたいの

教えて 鳥子

「リピート・プレイをぬけだすには」

アプリコットジュースの洪水に押し流されてゆく鳥子の声がゆらゆら揺れる

「リピート・プレイをぬけだすには すばやく時間を飛び移ること

ターンテーブルはまわり続けているのだから

擦過音を解く針のようにすばやく

絶望が長く引き伸ばされるような落下に耐えて

死んだばかりの魚時間

非ユークリッド幾何学における球面三角形の声時間

それから アフリカ時間」

 

《飛ビ移ル》!

 

アプリコットジュースがわたしの血を滲ませて マーブルの床をゆっくりと流れてゆく 鳥子に手渡そうとしたコップは割れ 飛び散った硝子の破片がわたしの指を傷つけていた 氷のかけらをいくつも入れてからなみなみと注いだアプリコットジュースが 急速に冷えてわたしの指をしびれさせたのだ アプリコットジュースを注ぎ入れたとき 氷たちは触れ合って ピシ、ピシ、と音がしたから わたしはわざとゆっくり長々とジュースの瓶を傾けた 開け放したままの冷蔵庫から淡いオレンジ色の光が漏れてコップの中のアプリコットジュースの中の氷のひとつひとつに影ができるのをぼんやり数えた 冷蔵庫を開けてその瓶を見つけた瞬間 アプリコットジュースに決めたのだった かすかな電気音をたてている冷蔵庫の中にアプリコットジュースが冷やされていることなどすっかり忘れていたのに 床に転がっていた硝子のコップを拾い上げたときは ただ喉が乾いたということばかり思いつめていたのだ
喉が乾いた、と。落雷のように激しく、喉が、乾いた、と・・・・・

 

喉が 乾いたのは 《誰》

 

アプリコットジュースが広がる床に浮島のように光る硝子片を飛び渡って

鳥子が 駆け寄ってくる

素足から流れ出した鳥子の血が アプリコットジュースに混じって

わたしと鳥子のマーブル模様を描いている

 

川口晴美

デルタ」所収

1991

父をひそめて

つま先にタイツをくぐらせる私の前で

母は アラッと声を上げた。

私の足首を引き寄せて、ため息と共に告げる。

「あんたの足の爪、

お父さんにソックリね」

父の足の爪なら覚えている。

年老いた歯にも似たそれは、

立ち尽くめの手仕事を彷彿とさせる。

一日三十人余りの口を覗き込み、

せっせとガーゼを詰めている父。

けれど、この両足を並べてみれば

見慣れた私の爪が顔を出す。

「ホラ、この小指のあたりとか・・・・・。

やっぱり親子ねェ」

感嘆する母に背を向けて

そっとタイツを引き上げる。

タイツは薄いブラウンで、

細かなダイヤの模様が編み込まれている。

 

いつでも切り離してさよならできると信じてきたのに、どこへ体を届けても、私は父を生やし、父のように歩くのだろうか。父の跡を地面に残しては、こっそりとうずくまったのか。湧き出す水のようには、生まれることができなかった。どこからともなく流れてきた、混じり気のない私そのものとして目覚めたい。歩んでいきたい。けれど、水を見つめる私の前につま先がある。紛れもないこの足で、砂利を踏み分けてきたから。

 

この足が、父と私の

何を結びつけるのだろう。

問いかけたい気持ちを背後に追いやり、

背中のジッパーを撫ぜる。

黒いワンピースが

この身をひとつに束ね上げ、

めくれた裾は父の足を投げ出している。

入念に乱れを整えれば、

膝頭は身をすくませて

布の陰に隠れていった。

 

すんなりと父をひそめて、

私は街へ出かけゆく。

新しい水脈を追って

駆けていく。

 

文月悠光

屋根よりも深々と」所収

2013

黄色い翅

脈拍をおしはかりながら

心臓がゆっくりとはばたき始めた。

私が驚いた隙に心臓は脈を速め、

ひといきに舞い上がる。

振り仰げば、それは一匹の蝶の姿をしていた。

鱗粉をまとって黄色に輝く翅、

黒々と目立つ複眼。

口もとには細い管が端整なうずを巻いていた。

 

「十九年も一緒だったのに、自分の心臓が蝶とは気づかなかった」

蝶は羽ばたきの速度をゆるめ、私の鼻先で触角をかしげる。

血がみなぎっていたはずの左胸に手を当てると、

そこは冷たい空洞と化し、恐ろしいほどに寡黙だった。

まつげの奥から蝶を見つめて、まばたきで話をしたい。まばたきは、はばたきと同じで、よろこぶ翅の所作だから、蝶は私のまつげが気に入ったよう。

(蜜を口いっぱいに含みながら、わたしたちは花々をあとにする。わたしたちがいないとき、花は咲かない、咲いてはならない)

 

口先を研ぎ、蝶はしたたかに蜜を吸い上げる。

花から飛び立つごとに、その影を大きくして。

やがて蝶の航路が起伏を帯び、拍子をとりはじめる。

私の鼓動のしらべだろうか、

からだのそとで脈を奏でる蝶のかげが濃い。

左胸をひらいてみせると

蝶は待ちわびていたように身をひるがえし、

左胸へ舞い降りた。

蜜があたたかく染みわたれば

花の香に包まれて、唇がゆるむ。

鼓動と共に

私の口からことばがこぼれ出る。

 

内から響き始める拍動に

黄色い翅が舞い立ち、

連なっていく。

 

文月悠光

屋根よりも深々と」所収

2013

暮春

ひりあ、ひすりあ。

しゆツ、しゆツ……

 

なやまし、河岸の日のゆふべ、

日の光。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆツ、しゆツ……

 

眼科の窓の磨硝子、しどろもどろの

白楊の温き吐息にくわとばかり、

ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、

蒸し淀む夕日の光。

黄のほめき。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆツ、しゆツ……

 

なやまし、またも

いづこにか、

なやまし、あはれ、

音も妙に

紅き嘴ある小鳥らのゆるきさへづり。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆツ、しゆツ……

 

はた、大河の饐濁る、河岸のまぢかを

ぎちぎちと病ましげにとろろぎめぐる

灰色黄ばむ小蒸汽の温るく、まぶしく、

またゆるくとろぎ噴く湯気

いま懈ゆく、

また絶えず。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆツ、しゆツ……

 

いま病院の裏庭に、煉瓦のもとに、

白楊のしどろもどろの香のかげに、

窓の硝子に、

まじまじと日向求むる病人は目も悩ましく

見ぞ夢む、暮春の空と、もののねと、

水と、にほひと。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆツ、しゆツ……

 

なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、

また懈ゆく。

 

ひりあ、ひすりあ。

しゆツ、しゆツ……

 

北原白秋

邪宗門」所収

1908

美しい穂先

雨があがりました

薄日が

拡散する午後です

お母様、

ちょっとそこまで

散歩に行きましょうか

公園の手前の

美術館で

絵を眺めましょうか

それから

お喋りしましょうか

アスファルトに揺らぐ

わたしたちの影

どうみても

親子なのですから

ちょっとそこまで

散歩に行きましょうか

 

美しい穂先のように

凛、としている

あなたと

笑いながら

生きていきたいのです

次の秋には

おそらで魚が泳ぐのです

それを

一緒に

仰ぎましょうね

少しの甘いお菓子と

お茶を用意して

ちょっとそこまで

散歩に行きましょうね

 

雨があがりました

しゃんしゃんと水滴をはじく

美しい穂先

あなたがいるかぎり

わたしはいつまでも

ここに居たいと思うのです

それは

お母様が

美しい穂先という

名前のとおり

凛、としているから

泣きたくなるほど

好きになっていくのです

 

三角みづ紀

カナシヤル」所収

2006

In Tongues

 for Auntie Jeanette

1.

Because you haven’t spoken

in so long, the tongue stumbles and stutters,

sticks to the roof and floor as if the mouth were just

a house in which it could stagger like a body unto itself.

 

You once loved a man so tall

sometimes you stood on a chair to kiss him.

 

2.

What to say when one says,

“You’re sooo musical,” takes your stuttering for scatting,

takes your stagger for strutting,

takes your try and tried again for willful/playful deviation?

 

It makes you wanna not holla

silence to miss perception’s face.

 

3.

It ain’t even morning or early,

though the sun-up says “day,” and you been

staggering lange Zeit gegen a certain

breathless stillness that we can’t but call death.

 

Though stillness suggests a possibility

of less than dead, of move, of still be.

 

4.

How that one calling your tryin’

music, calling you sayin’ entertaining, thinks

there’s no then that we, (who den dat we?), remember/

trace in our permutations of say?

 

What mastadonic presumptions precede and

follow each word, each be, each bitter being?

 

5.

These yawns into which we enter as into a harbor—

Come. Go. Don’t. says the vocal oceans which usher

each us, so unlike any ship steered or steering into.

A habit of place and placing a body.

 

Which choruses of limbs and wanting, of limp

linger in each syllabic foot tapping its chronic codes?

 

 Tonya M. Foster From “A Swarm of Bees in High Court

2015

 

言葉の中で

 

ジャネットおばさんに

 

1.

あんまり長い間、喋らなかったから、

舌はもつれ、つっかえて、

はりついてしまうのだ。天井や床に。まるで口が

ちょうど家であるかのように 中で舌は千鳥足だ。

 

昔、とても背の高い男を愛した。

キスする為に椅子の上に立たなければいけなかった。

 

2.

何と言えばいいんだろう。

「とっても音楽的ですねえ」なんて言われて。 どもりをしゃべくり芸に

ふらつきを気取りに

何度もやりなおしているのを わざとやっているおふざけだと思われて。

 

もう伝えようとする気持ちも失せた。

誤解している顔に向かうと 何も言えない

 

3.

朝早いわけじゃないの

太陽はとっくに昇っているんだけど ずっと

ふらついている 「ナガキジカンニワタル」

息の詰まるような静寂。 死と呼ばざるを得ないような。

 

だが、静寂は可能性を示唆するのだ

死んではいない 動く まだ生き続ける 可能性を

 

4.

挑戦を音楽と呼ばれるのはどう?

話しているのを娯楽扱いされるのは?

言葉を並べたてても、我々が思いかえし、復唱する事が全く無いとしたら?

(ワレワレトハダレナノダ)

 

何てものすごい思い込みが先走り、そして

追っているのだろう、ひとつひとつの言葉を、存在を、苦い実存を

 

5.

この大きな口の中に入っていくの?まるで港に入っていくように

来て。行って。やめて。海は語りかけ、先導する

われわれを。 操舵されるどんな船にも似ずに。

言葉を配置していく。

 

詩句と欠乏の唱和なのか、それとも

いつまでも続くコードで、音節のステップを踏みながら、よろめき、ぐずぐずしているのだろうか?

 

八尾の萩原朔太郎、一九三六年夏

 昭和十一年八月二十一日。あなたは従兄の病気見舞いのため大阪八尾の萩原家を訪れたところだ。栄次さんは重篤。少 年期から青年期にかけて心の支えであり文学上の師でもあったこの従兄がいなければ今の自分はなかった、とあなたは思う。医学の道を断念し、熊本、岡山、大 阪、東京での六年もの浪人生活の末、失意のうちに帰郷した青春時の残像が次々と脳裏を走る(竹、竹、竹……)。あの頃、ドストエフスキーを教えてくれたの も栄次さんだった(一粒の麦もし死なずば……)。詩作の苦悩を訴えたのも、成功の予感を告げたのも、処女詩集の献辞を捧げたのも、すべて栄次さんに対して だった。彼は今もあなたを「朔ちゃん」と呼ぶ。

 

 この時あなたは、すでに七冊の詩集をもつ堂々たる詩壇の人物。一昨年に出した詩集は、自他ともに一番弟子と認める 詩人から手厳しい批評を受けたが、一方では新しい理解者をもたらした。昨年は初の小説を、この春には念願の定本詩集も出した。若い詩人たちに敬われ大手雑 誌の「詩壇時評」の担当者でもある。最近、ある詩人があなたの「抒情精神」の脆さ危うさを批判する辛辣な評論を発表したが、なんら反論もせず見過ごすくら いの余裕はすでに生れている(数年後その詩人の不安は的中することになるのだが)。

 

 先ほどあいさつに出た小学生は栄次さんの長男で八尾萩原医院の後継者。この少年が六十年以上も後に、あなたのマン ドリン演奏のことや、親族皆でくり出した温泉旅行のことを書くことになる(*)とは、あなたは夢にも思わない。「たいそう情感を籠めた弾きかた」と、少年 が感じた楽曲は何? 酒が入ると時折弾いた古賀メロディの一節?(まぼろしの影を慕いて……)少年が目撃しそこねたという宴席で、あなたは従兄の病をしば し忘れることができたでしょうか。著名人としての自意識が少しは働いたのでしょうか。色紙などしたためて(広瀬川白く流れたり……)。つい先日、父の墓を 訪れて「過失を父も許せかし」と歌ったあなたは、たしかに半世紀を生きてきた。「父よ わが不幸を許せかし」とは「不孝」の誤り? それとも本気で「わが 不幸」を悔いていた? 「父は永遠に悲壮である」と書いたあなたは、亡父に自らを重ねていたのでしょうか。

 

 朔太郎さん。あなたが従兄を亡くし「文学界賞」を受け「詩歌懇話会」の役員となり「日本浪漫派」同人となるこの年 のことを、ぼくはいずれ詳しく書きたいと思っています。残り少ない歳月の中であなたが最後にたどり着いた詩境(それは昭和十四年刊行の詩集『宿命』に示さ れることになるのですが)の出発点が、大阪八尾のこの夏にあるのではという、さして根拠のない直感にこだわってみたいと思うのです。この頃のあなたに特別 な興味を抱くのはぼくだけではない、と思われてしかたがないのです。五十路のあなたはすでに(栄次さんと共に)冥府をさまよっていたのかもしれません。

 

 (*)萩原隆『朔太郎の背中』深夜叢書社

 

山田兼士

微光と煙」所収

2009

吾胸の底のここには

吾胸の底のここには

言ひがたき秘密住めり

身をあげて活ける牲とは

君ならで誰かしらまし

 

もしやわれ鳥にありせば

君の住む窓に飛びかひ

羽を振りて昼は終日

深き音に鳴かましものを

 

もしやわれ梭にありせば

君が手の白きにひかれ

春の日の長き思を

その糸に織らましものを

 

もしやわれ草にありせば

野辺に萌え君に踏まれて

かつ靡きかつは微笑み

その足に触れましものを

 

わがなげき衾に溢れ

わがうれひ枕を浸す

朝鳥に目さめぬるより

はや床は濡れてただよふ

 

口唇に言葉ありとも

このこころ何か写さん

ただ熱き胸より胸の

琴にこそ伝ふべきなれ

 

島崎藤村

落梅集」所収

1901