Category archives: Chronology

柱時計

ぼくが

死んでからでも

十二時がきたら 十二 

鳴るのかい

 

苦労するなあ

まあいいや

しっかり鳴って

おくれ

 

淵上毛錢

1950

囈語

竊盜金魚

強盜喇叭

恐喝胡弓

賭博ねこ

詐欺更紗

涜職天鵞絨

姦淫林檎

傷害雲雀

殺人ちゆりつぷ

墮胎陰影

騷擾ゆき

放火まるめろ

誘拐かすてえら。

 

山村暮鳥

聖三稜玻璃」所収

1915

秋風の歌

 さびしさはいつともわかぬ山里に

    尾花みだれて秋かぜぞふく

 

しづかにきたる秋風の

西の海より吹き起り

舞ひたちさわぐ白雲の

飛びて行くへも見ゆるかな

 

暮影高く秋は黄の

桐の梢の琴の音に

そのおとなひを聞くときは

風のきたると知られけり

 

ゆふべ西風吹き落ちて

あさ秋の葉の窓に入り

あさ秋風の吹きよせて

ゆふべの鶉巣に隠る

 

ふりさけ見れば青山も

色はもみぢに染めかへて

霜葉をかへす秋風の

空の明鏡にあらはれぬ

 

清しいかなや西風の

まづ秋の葉を吹けるとき

さびしいかなや秋風の

かのもみぢ葉にきたるとき

 

道を伝ふる婆羅門の

西に東に散るごとく

吹き漂蕩す秋風に

飄り行く木の葉かな

 

朝羽うちふる鷲鷹の

明闇天をゆくごとく

いたくも吹ける秋風の

羽に声あり力あり

 

見ればかしこし西風の

山の木の葉をはらふとき

悲しいかなや秋風の

秋の百葉を落すとき

 

人は利剣を振へども

げにかぞふればかぎりあり

舌は時世をのゝしるも

声はたちまち滅ぶめり

 

高くも烈し野も山も

息吹まどはす秋風よ

世をかれがれとなすまでは

吹きも休むべきけはひなし

 

あゝうらさびし天地の

壺の中なる秋の日や

落葉と共に飄る

風の行衛を誰か知る

 

島崎藤村

若菜集」所収

1897

朱のまだら

日射しの

緑ぞここちよき。

あやしや

並たち樹蔭路。

 

よろこび

あふるる、それか、君、

彼方を、

虚空を夏の雲。

 

あかしや

枝さすひまびまを

まろがり

耀く雲の色。

 

君、われ、

二人が樹蔭路、

緑の

匂ひここちよき。

 

軟風

あふぎて、あかしやの

葉は皆

たゆげに飜へり、

 

さゆらぐ

日影の朱の斑、

ふとこそ

みだるれわが思。

 

君はも

白帆の澪入りや、

わが身に

あだなる戀の杙。

 

軟風

あふぎて澪逸れぬ、

いづくへ

君ゆく、あな、うたて。

 

思ひに

みだるる時の間を

夏雲

重げに崩れぬる

 

緑か、

朱か、君、あかしやの

樹かげに

あやしき胸の汚染。

 

蒲原有明

有明集」所収

1908

森がある

ある娘の胸の前に暗い道路がひとすじ延びている、

夕闇か、夜明け前かはわからない。

道路に娘は立っていてそれから歩きはじめる、

道路に沿って道路の上を歩きはじめる、

あたたかい格好だよく備えた格好だ。

 

地虫が一匹、道路の先で歌っている、

大きい、大きい、ありったけの声で、

 ナスとパセリは仲がいい

 トマトとニラは仲がいい

 ニンニクとイチゴは仲がいい

 春菊とレタスがチンゲンサイを蝶から守る

娘の耳に、ありったけの声がかすかに届く、

娘はふるさとを思い出す自家用畑を思い出す、

そうして娘は元気を出す、

森が生える。

 

道路の左右に森が生える、

道路の右に針葉樹の森がひろがり、

道路の左に広葉樹の森がひろがり、

一頭の馬、100年生きた黒い馬がブナの陰から

娘が娘のまま歩いて森を抜けるのを遠くに見届ける、

地虫はまだ同じ歌を歌っている、

娘はききとる、

むねにきざむ、

くちずさむ、

娘のブーツの右足が地虫のすぐ脇を踏む、

 

森の終わりぎわの道路っぱたに男がふたりしゃがんでいる、

あれは無頼気取りのだ、そうだおしゃれだが踊れない奴らだ。

あれには森の終わりが森の始まりにみえる、

だからあれは自動車を森の終わりに乗りつけて平気でいて、

吸いなれない煙草を競って吸っていて、娘が通るのを

待っていて、

そこへ速度をもった電灯がふたつ向かってくる、

子どもの乗った自転車だ兄の乗った自転車だ。

あれはふたりでひとつになって驚いて跳びすさって、

自分の腰が曲がっていることに

まだ、気がつかないでいる。

 

娘はもう森からずいぶん離れた場所まで歩いてきたのだ。

道路はいつまでたっても二手には分かれない、

娘は疲れて、明るく灯るカフェにはいる。

 

するとカフェは同じ顔した娘でいっぱいで、ほとんど満席で

ある娘は痩せある娘は肥り、

ある娘は妊娠しておりある娘は年取っており、

ある娘はもっと小さい娘を連れていて、

道路は黙って待っていて退屈しのぎにカフェの灯りを見ていて、

カフェの窓のほうは道路には目もくれずに、道路ぎわに生えたカツラの、

図ったような黄色と緑の散らばり具合を撮っていて、そのあいだに

一頭の馬、1000年生きた黒い馬がカフェの窓から漏れる灯りのなかを走り抜けてゆき、

 

日が昇る。

道路がカフェに目を戻すと灯りは消えていて、

誰もいない誰もいない冷たい朝になっていて、

娘がひとり、扉をあける──

娘の胸の前に明るい道路が水平に延びている、

道路と水平に両手をいっぱいに娘は伸ばす、

朝の光を全部吸い込むために。

娘の左手の道路の先から

娘の右手の道路の先へ

速度をもった塊がふたつ、娘の胸の前を横切ってゆく、

子どもの乗った自転車だ兄の乗った自転車だ。

両目を見開いて、娘はふたつの速度を見送る、

乗ったことのない速度を見送る。

 

娘の準備は整っている、

あたたかい格好だよく備えた格好だ。

 なすとぱせりはなかがいい

 とまととにらはなかがいい

 にんにくといちごはなかがいい

 しゅんぎくとれたすがちんげんさいをちょうからまもる

自分の賛美歌を娘は歌いながら

道路を渡る、

そこへ

めきめきと森が生える。

 

大崎清夏

指差すことができない」所収

2014

一群のぶよ

いち群のぶよが 舞ふ 秋の落日

(ああ わたしも いけないんだ

他人も いけないんだ)

まやまやまやと ぶよが くるめく

(吐息ばかりして くらすわたしなら

死んぢまつたほうが いいのかしら)

 

八木重吉

秋の瞳」所収

1927

私たちは海辺に住まう(抄)

 かつて、熱心に風の名を集めた人があった。その人によると、『万葉集』の末二巻のなかでは「アユノカゼ」に「東風」の二字を当てているという。そして、風が陸地に打ち上げるものを、人々は寄物と呼んだ。

 海からのくさぐさの好ましいものを、日本人に送ってよこした風の名が「アユ」であった。

 東風がどのような宝物を吹き寄せたのか、浜辺に立つ私たちには、もはや知るよしもない。

 けれども、私もまた、集めようと思う。風の名を。

 

城戸朱理

漂流物」所収

2012

生命あるものの濡れるところ(抄)

 それらは、自らが何かであることを洗い流されて、逆に、これから何かでありうるような薄明の領域に打ち上げられたのだろうか。

 そのようにも見える。そして、物言わぬ物たちは、その背中に海の響きを潜ませているようにも。

 カーゴカルトと呼ばれる原始的な信仰の形態を思い出してもらいたい。たとえば、未開の種族の居住地に飛行機が墜落する。すると、彼らは天から降ってきたその機械を、神からの贈り物と思い込み、機体と積荷は信仰の対象となる。

 そんな激しい価値の転倒が、浜辺では、いつも起こりつつある。ときに膝を付き、ときには頭を垂れるような姿勢になるのは、そこが地の果てであって、この世の外に限りなく近いところのように思われるからではないのか。波と戯れる人々も、また、半裸の姿で、自分が誰かであることを、なかば風に攫われつつあるように見える。

 潮風が、髪に躰に、微細な海のかけらを積もらせていく。波は、あまりにも無造作に寄せては返し、その無造作ゆえに、時の鼓動となる。そんな波を、以前、思いがけないところで目にして、驚きに打たれたことがあった。映画館のスクリーンで。あれは「カルメンという名の女」という映画だったろうか。珍しくもない、眺め、そして、鼓動。

 そのとき、生物の心臓も別の時を刻み始める。

 漂流物。すでに何かであることを終え、その名を失ったもの。それでも、再び、誰かが彼らに名前を与えることはできる。そして、そのときまで、彼らは未生の状態でまどろんでいる。

 

城戸朱理

漂流物」所収

2012

あきらめのない心

わが子のあらんには

夏はすずしき軽井沢にもつれゆき

ひとの子におとらぬ衣をば着せんもの

こころなき悪文をつづり世過ぎする我の

いまは呆じたるごとき日をおくるも

みな逝きしものをあきらめかねるなり。

 

ひとびとはみなあきらめたまへと云へども

げにあきらめんとする心、

それを無理やりにおしこまうとするは

たとへがたくおろかなり。

あきらめられずある心よ

永くとどまれ。

 

室生犀星

忘春詩集」所収

1922

ひそかな対決

ぱあではないかとぼくのことを

こともあろうに精神科の

著名なある医学博士が言ったとか

たった一篇ぐらいの詩をつくるのに

一〇〇枚二〇〇枚だのと

原稿用紙を屑にして積み重ねる詩人なのでは

ぱあではないかと言ったとか

ある日ある所でその博士に

はじめてぼくがお目にかかったところ

お名前はかねがね

存じ上げていましたとかで

このごろどうです

詩はいかがですかと来たのだ

いかにもとぼけたことを言うもので

ぱあにしてはどこか

正気にでも見える詩人なのか

お目にかかったついでにひとつ

博士の診断を受けてみるかと

ぼくはおもわぬのでもなかったのだが

お邪魔しましたと腰をあげたのだ

 

山之口貘

「山之口貘全集」所収

1963