ある娘の胸の前に暗い道路がひとすじ延びている、
夕闇か、夜明け前かはわからない。
道路に娘は立っていてそれから歩きはじめる、
道路に沿って道路の上を歩きはじめる、
あたたかい格好だよく備えた格好だ。
地虫が一匹、道路の先で歌っている、
大きい、大きい、ありったけの声で、
ナスとパセリは仲がいい
トマトとニラは仲がいい
ニンニクとイチゴは仲がいい
春菊とレタスがチンゲンサイを蝶から守る
娘の耳に、ありったけの声がかすかに届く、
娘はふるさとを思い出す自家用畑を思い出す、
そうして娘は元気を出す、
森が生える。
道路の左右に森が生える、
道路の右に針葉樹の森がひろがり、
道路の左に広葉樹の森がひろがり、
一頭の馬、100年生きた黒い馬がブナの陰から
娘が娘のまま歩いて森を抜けるのを遠くに見届ける、
地虫はまだ同じ歌を歌っている、
娘はききとる、
むねにきざむ、
くちずさむ、
娘のブーツの右足が地虫のすぐ脇を踏む、
森の終わりぎわの道路っぱたに男がふたりしゃがんでいる、
あれは無頼気取りのだ、そうだおしゃれだが踊れない奴らだ。
あれには森の終わりが森の始まりにみえる、
だからあれは自動車を森の終わりに乗りつけて平気でいて、
吸いなれない煙草を競って吸っていて、娘が通るのを
待っていて、
そこへ速度をもった電灯がふたつ向かってくる、
子どもの乗った自転車だ兄の乗った自転車だ。
あれはふたりでひとつになって驚いて跳びすさって、
自分の腰が曲がっていることに
まだ、気がつかないでいる。
娘はもう森からずいぶん離れた場所まで歩いてきたのだ。
道路はいつまでたっても二手には分かれない、
娘は疲れて、明るく灯るカフェにはいる。
するとカフェは同じ顔した娘でいっぱいで、ほとんど満席で
ある娘は痩せある娘は肥り、
ある娘は妊娠しておりある娘は年取っており、
ある娘はもっと小さい娘を連れていて、
道路は黙って待っていて退屈しのぎにカフェの灯りを見ていて、
カフェの窓のほうは道路には目もくれずに、道路ぎわに生えたカツラの、
図ったような黄色と緑の散らばり具合を撮っていて、そのあいだに
一頭の馬、1000年生きた黒い馬がカフェの窓から漏れる灯りのなかを走り抜けてゆき、
日が昇る。
道路がカフェに目を戻すと灯りは消えていて、
誰もいない誰もいない冷たい朝になっていて、
娘がひとり、扉をあける──
娘の胸の前に明るい道路が水平に延びている、
道路と水平に両手をいっぱいに娘は伸ばす、
朝の光を全部吸い込むために。
娘の左手の道路の先から
娘の右手の道路の先へ
速度をもった塊がふたつ、娘の胸の前を横切ってゆく、
子どもの乗った自転車だ兄の乗った自転車だ。
両目を見開いて、娘はふたつの速度を見送る、
乗ったことのない速度を見送る。
娘の準備は整っている、
あたたかい格好だよく備えた格好だ。
なすとぱせりはなかがいい
とまととにらはなかがいい
にんにくといちごはなかがいい
しゅんぎくとれたすがちんげんさいをちょうからまもる
自分の賛美歌を娘は歌いながら
道路を渡る、
そこへ
めきめきと森が生える。
大崎清夏
「指差すことができない」所収
2014
この詩は大崎清夏さんの許可をいただいた上で掲載しています。
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著者ブログ
http://osakisayaka.com/
「道」をテーマにした作品は映画だとフェリーニの「道」、詩だと高村光太郎の「道程」がすぐさま思い浮かびましたが、「森」と「道路」と「娘」という自然と人工の間にある存在の凛とした佇まいは、無くしたもののように愛おしい。