Category archives: Chronology

中国紀行

やがて朝焼けが、
拡散し、煙突や船橋の壁に
闇の中からの最初の分離を
与えていくと
わたしたちもまた
朝に
移り変わっていったのかもしれない。

夜通し目覚めていて、お互いもう眠っているのかもしれないと、黙って空をみていた。
海鳴りのただなかの、強風の甲板で、二人しらじらと明けゆく。青いフィルムが一枚ずつ剥がれて、さめざめとした光が重たい朝もやの中に、岸沿いの造船所や紡績工場を浮かび上がらせると、波のうえに白く海鳥が、
清浄な死者へ手向ける
献花のようにみえる。

(どうしてこんな、寂しいことをおもうのか。
(夕べあんなに芳しい、誘いだす花のようだったのに
(やわらかい、卵形に似た秘密の隔絶
(特別なやり方の目配せや、芳醇な沈黙が
(今朝はもう渡っていった。そして黄泉の国へ、尾を引いて落ちた。
(わたしたちは夜通し若さをアルコールのように灯し
(暁がくると、いっぺんに老いてしまったような気がする。
(そして朝が、まぎれもない朝が
(新鮮な果実や魚を運んでくる

いつの間にか漫々とした泥水
濁った川波のうえを
船体の低い平べったい舟が
いろいろの品を積み、進んでいく

川風は
潮の境の色をなぶり
青年の焼けた髪をなぶり

彼は、
ハルビンで生まれたという
薄い眸をしている。動物のようだと、耳打ちすると、あなたも笑うと猫に似ているね、と静かな、いくぶん眠そうな面差しのなかで、眸だけがつめたく燃えている。これは荒野に目醒める動物の眼だ、巨星のような。幾年月、被膜もない野曝しの、遺跡のように沈黙していた。ざわめきを閉じ込めたまま沈黙してしまった、
彼の、城跡に似た
うつくしい横顔。

(揚子江は泥水
(上海は煙って黄色い空
(次第に雨。
(人ごみを避けて、裏道
(指先だけでこっそり繋ぎ
(くしゃくしゃのコートを
(あなたと思うだろう、しばらくの間は、たぶんきっと
(ふいにわたしは雨がさみしく(ね、日本は好きですか、
あなたの生まれた街の雨を
思う
(──駅へ、

彼は
祖国に
帰らざる日々を燃やし
つめたい熱の眸はなおいっそう
黒龍江に流れる雨粒を
       (雨に濡れると、
        子どもの頃を思い出す、
        いつもこんな静かな)故郷の水を
からだいっぱいに携えて、
荒野へと 流離ってきた
あなたの眼は深く、遠のいて、
星明りをまっすぐ吸い込んだ
もう一度きりの
ロブノールの湖面。
       (雨が降っていた。緑が綺麗だった。
子どもの頃は、みんな綺麗だった──)

その指冷たく、なめらかに冷たく

乳色の光、列車の窓をすべり落ちる
雨だれ・・・・

川の水は海へと抜け
オホーツクの海峡で冷えゆくとき
故郷をまっすぐ振り返るだろう
あなたが異国の恋人たちのまにまに
かすめとっていく眼差しで
帰還せよ、と呼ぶからだじゅうの水を
宥めすかしながら
渡ってきた道を
いっさんに駆けだしていく
視線の一群
届かざる、
年月

さあ猫みたいな子だね、おいで、こっちに
(列車は西安へ──
だがあなたもまるで
まだ七つほどの、痛ましい清澄。(だから、
傘がないときは、
雨宿りをしなければならない、
ひっそりとさみしさが (わたしたちの 子ども時代の影が
通り過ぎるまで
街や大通りの喧騒の
ひとつ上空からくる

雨だれの中へ埋没していくことを、
ふいに震撼する
あなたとわたしの
輪郭線や
皮膚の下が暴かれる
晴れ間のように潔白な、
真っ白い
分離を引き起こす
その瞬間までは。

暁方ミセイ
「ウイルスちゃん」所収
2011

赤い髪

 ニーナが、なまあたたかい舌で、わたしの右手をなめた。
「わたし、犬」
 あたりをクンクン嗅ぎながら部屋の隅に這っていった。
 そこにニーナの寝床が吊りさげられた毛布で仕切られている。
 冬の間、アンドレシェフスキー夫妻はこの一室を使って暮らしている。ストーヴにオリーヴの根をくべて、わたしたちは数人で話していた。ニーナが犬を演じだしても誰も気にとめない。
 わたしはニーナの犬をひとりじめにした。
 ニーナが、「行かない」と言いだしたら行かない。オリーヴの若木のそばで、「これはニーナの木」と言ったとき、わたしには、ほんとうにそれがニーナの木のように思えた。
今は犬になってしまった。

 食事になってもテーブルにつかない。這ったまま吠えているので、スープ皿を床におろしてやらなければならなかった。
 スプーンを使わずにハアハア言って食べ終わると、ストーヴの火を見ている。じっとしているから、もう気がまぎれたのだろう、とひとりが話しかけてみても口をきかない。
 しばらく頭を振っていたが、ぐったりとわたしの膝に寄りかかってきた。まだ、顔をあげて「ウーッ」とうなる。
 なかなか犬をやめないのはわたしのせいもあるのかもしれない。
 犬の気持をうけいれて、やわらかい赤い髪をなでている。

川田絢音
「サーカスの夜」所収
1984

会社の人事

「絶対、次期支店次長ですよ、あなたは」
顔色をうかがいながらおべっかを使う、
いわれた方は相好をくずして、
「まあ、一杯やりたまえ」と杯をさす。

「あの課長、人の使い方を知らんな」
「部長昇進はむりだという話だよ」
日本中、会社ばかりだから、
飲み屋の話も人事のことばかり。

やがて別れてみんなひとりになる、
早春の夜風がみんなの頬をなでていく、
酔いがさめてきて寂しくなる、
煙草の空箱や小石をけとばしてみる。

子供のころには見る夢があったのに
会社にはいるまでは小さい理想もあったのに。

中桐雅夫
「会社の人事」所収
1979

妖精の距離

うつくしい歯は樹がくれに歌った
形のいい耳は雲間にあった
玉虫色の爪は水にまじった

脱ぎすてた小石
すべてが足跡のように
そよ風さえ
傾いた椅子の中に失われた

麦畑の中の扉の発狂
空気のラビリンス
そこには一枚のカードもない
そこには一つのコップもない
欲望の楽器のように
ひとすじの奇妙な線で貫かれていた

それは辛うじて小鳥の表情に似ていた
それは死の浮標のように
春の風に棲まるだろう
それは辛うじて小鳥の均衡に似ていた

詩は形を持たぬ
という頑なな認識があり、私を捉えてはなさない。
書いているときの
ペンや鉛筆が紙を擦っているが、
これはこれで別の何かの仕事なのか?

言葉は処えらばず
遣って来て、掠めて去る。
私はおんなの名を呼びたいと思うとき
のように、その名を探している。

瀧口修造
「妖精の距離」所収
1937

眺望

屋根といふものがなければ
暮しはできないものなのか
もの哀しい習俗のぐるりの
屋根屋根を濡らして
遥かなる狐の嫁入りが行く
青い風は僕の隣から
眺望を撫でてはゐたけれど
僕はこのまんま
美しい空つぽになりたくて
ほそい山径に群れてゐる
花蝋燭のやうな野苺に
すくないけれど僕も
眺望も呉れてしまつた

淵上毛錢
1950

死んだ男

たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
──これがすべての始まりである。

遠い昨日……
ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
──死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった

Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かかった黄金時代──
活字の置き換えや神様ごっこ──
「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

埋葬の日は、言葉もなく
立会う者もなかった、
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横わったのだ。
「さよなら。太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

鮎川信夫
「鮎川信夫詩集」所収
1947

浅春偶語

    「物象詩集」の著者丸山薫君はわが二十余年来の詩友なり、この日
    新著を贈られてこれを繙くに感慨はたもだす能わず、乃ち

友よ われら二十年も詩を書いて
已にわれらの生涯も こんなに年をとつてしまつた

友よ 詩のさかえぬ国にあつて
われらながく貧しい詩を書きつづけた

孤独や失意や貧乏や 日々に消え去る空想や
ああながく われら二十年もそれをうたつた

われらは辛抱づよかつた
そうしてわれらも年をとつた

われらの後に 今は何が残されたか
問うをやめよ 今はまだ背後を顧みる時ではない

悲哀と歎きで われらは己にいつぱいだ
それは船を沈ませる このうえ積荷を重くするな

われら妙な時代に生きて
妙な風に暮したものだ

そうしてわれらの生涯も おいおい日暮に近づいた
友よ われら二十年も詩を書いて

詩のなげきで年をとつた ではまた
気をつけたまえ 友よ 近ごろは酒もわるい!

三好達治
一点鐘」所収
1941

ランプ

野中にさみしい一けん家
あたりはもう薄暗く
つめたく
はるかに遠く
ぽつちりとランプをつけた
ぽつちりと點じたランプ
ああ
何といふ眞實なことだ
これだ
これだ
これは人間をまじめにする
わたしは一本の枯木のやうだ
一本の枯木のやうにこの烈風の中につつ立つて
ランプにむかへば自ら合さる手と手
其處にも人間がすんでゐるのだ
ああ何もかもくるしみからくる
ともすれば此の風で
ランプはきえさうになる
そうすると
私もランプと消えさうになる
かうして力を一つにしながら
ランプも私もおたがひに獨りぼつちだ

山村暮鳥
風は草木にささやいた」所収
1918

行進

ししん しんしん ししん しんしん
ししん しんしん ししん しんしん
    しんしん 歩め

  きみたち行進する
  土偶たち行進する

    集まれ波 波うて波
    ばらばら波 はがれ波
    くだけ波 あられ波
    波のない波

地球につもらぬ雪のふるなかを

ししん しんしん ししん しんしん
ししん しんしん ししん しんしん
    おこれよ地震

  落下傘兵が落下傘を追いかけている
  夢の底なんかであるものか
  飛行機雲が飛行機を追いかけている

ううん うんうん ううん うんうん
ううん うんうん ううん うんうん
    うなれよ 仲間

  土偶たち行進する
  おれたち行進する

    集まれ波 波うて波
    はなびら波 ちぢれ波
    めがね波 うろこ波
    波のない波

  地球にささらぬ氷の散るなかを

ううん うんうん ううん うんうん
ううん うんうん ううん うんうん
    うめけよ 影たち

  落下傘兵が落下傘に追いつかない
  夢の底なんかであるものか
  飛行機雲が飛行機に追いつかない

はっは はははは はっは はははは
はっは はははは はっは はははは
    はきだせ 炎

  土偶たち行進する
  きみたち行進する

    集まれ波 波うて波
    糸くず波 なみだ波
    まぎれ波 えくぼ波
    波のない波

  地球に落ちない光りの舞うなかを

はっは はははは はっは はははは
はっは はははは はっは はははは
    はじけろ 縄文

  落下傘兵が落下傘に追いぬいている
  夢の底なんかであるものか
  飛行機雲が飛行機に追いぬいている

はっは しんしん うんうん はっは
ししん はっはは ううん しんしん

  地球をとりまく 眩暈となって

    集まれ波 波うて波
    びいだま波 指輪波
    ぼたん波 ほたる波
    波のない波

    波うたぬ波の波のなか
    波うたぬ波に波うたせ

  おれたち行進する
  きみたち行進する

宗左近
「縄文」所収
1979

汽車 一

だれが人の足を踏みたいか
だがおれたちはぎりぎりと踏んだ
靴と薄歯とで
はつとするほどほかの足を踏んだ
そしてきんきん踏まれた
おれたちのからだが人波にもまれて失われそうだつた

おれたちはおれたちのからだを人波のなかからもぎ取らねばならなかつた
おれたちは手荷物にしがみついた
おれたちは切符を握りつぶした
子供の泣き声がおれたちの股の下から叫んだ
女の頭がおれたちの鼻さきでばさばさになった
だれが人の足を踏みたいか
だがおれたちはむちやむちやに踏んだ
踏んでも下が見られなかつた
顔をねじむけることができなかつた
おれたちはからだを浮きあがらせたかつた
おれたちは浮きあがらなかつた
地面にすきまがなかつた
無数の足がくつついていた
おれたちはぎりぎりと踏んだ
いつでもぎりぎりと

中野重治
中野重治詩集」所収
1935