Category archives: Chronology

せっけん

こんなに
ちいさく なった
おふろばの
せっけん

うちじゅうの
みんなの こころに
やさしく
ちりしいて

1まいだけ
のこった
バラの
はなびらのようだ

まどみちお
くまさん」所収
1989

何故 生まれねばならなかったか。

子供が それを父に問うことをせず
ひとり耐えつづけている間
父は きびしく無視されるだろう。
そうして 父は
耐えねばならないだろう。

子供が 彼の生を引受けようと
決意するときも なお
父は やさしく避けられているだろう。
父は そうして
やさしさにも耐えねばならないだろう。

吉野弘
吉野弘詩集」所収
1999

孤独の日の真昼

濡れた草場にかくれて
僕の くりかへした
さまざまの 窮屈な姿勢は
何とみじめにこころよかつたことか

誰からも見られてゐない確信と
やがて 悔ゐへの誘ひと─
その時 真昼が
匂ふやうであつた

太陽は甘く媚び
戦ぎはいつしか絶え…
小鳥の唄だけ 遠く囁いてゐた

ああ 聖らかな
逃れ去り行く 繋がれてあるこの一刻
この欲情のただしさを

立原道造
萱草に寄す」所収
1937

リス

リスを見たことを
得意になって言うではないか
枝から枝へ渡ったリスを見ただけで
その手は新らしい棒をにぎり
その目はおさな児のように燃え
その口はまだ聞かなかった声をあげ
烈しく息さえ切らして迫ったではないか

だがそれでもなお
リスはつかまらなかったろう
リスは薄日のさす木の枝から次の木の枝へ
隠れては現われして捕え難い思惟のように
姿を消してしまったろう

だから言っておく
私には分るのだ
リスは極く小さないきものなのだ
リスを追うのに
棒などをふりまわすものではない
徒党をくんで追うものではない

リスは夜不思議な星がまたたく時刻に
素手でとらえるものなのだ
争いや疲れを癒した夜のてのひらに
やわらかくいだくものなのだ
いだいたならまた未知の明日のなかへ
さようならと離してやるものなのだ
あのリスの目と
ふさふさした尾のなかに
隠し絵のような世界があるのだ

村上昭夫
動物哀歌」所収
1968

日常

私の所有は
ガラクタばっかりなんだが。
居場所は世間の端っこなんだが。

他人さまの眼からすれば
悪知恵だって
それなりにある。ということであるだろう。

巣箱ほどではあるけれども
あいつの住家
雨漏りにはまだ年月が足らぬ。ということであるだろう。

知人、友人が先立つのに
まんまと生き延びて
老年なんぞ抱えこんでる。ということであるだろう。

孫の二、三人はあるようで
昔話なんぞ反芻して
いい気になって呆けてる。というふうであるだろう。

女友だちも何人かいて
喫茶店あたりで
デイトしてる。といった噂だってあるだろう。

戦争はごめんだ
絶対権力はごめんだなどと
ぶつくさ言ってる弱虫めが。ということであるだろう。

白髪。
残り歯。
白内障。
メニエル氏病や
老齢病。
長寿手帳の無賃乗車証も授かって。
私の非所有は
権威的肩書の類いで。
居場所は現代雑居地。その平均値の揺れ揺れで。

伊藤信吉
「風や天」所収
1979

大儀

躓いたら轉んでゐたいのである
する話も咽喉の都合で話してゐたいのである
また、
久し振りの友人でも短か振りの友人でも誰とでも
逢へば直ぐに、
さよならを先に言ふて置きたいのである
あるひは、
食べたその後は、口も拭かないでぼんやりとしてゐたいのである
すべて、
おもうだけですませて、頭からふとんを被つて沈澱してゐたいのである
言いかへると、
空でも被つて、側には海でもひろげて置いて、人生か何かを尻に敷いて、膝頭を抱いてその上に顎をのせて背中をまるめてゐたいのである。

山之口貘
定本山之口貘詩集」所収
1936

着せかえ人形

雨の日の暮は暗く
部屋のすみ襖のかげの
座ぶとんに寝かせてならぶ
首だけの人形の顔

姫は口もとに紅をはき
役者の顔のくまどりに
千代紙のころもを着せる
鋏の音と姉のためいき

着せかえた人形たちの首を抜き
すげかえ遊ぶたそがれどき
虚構に生きる人の世の
はなやぎは一瞬にして地におちる

白装束に着せかえて
経帷子に箸の杖
紙箱の棺に寝かせて掌を合わす
とむらいさえも遊びであつた

斎藤怘
「葬列」所収
1969

訪問者

トマトを盛つた盆のかげに
忘れられてゐる扇

その少女は十九だと答へたつけ
はじめてひとに見せるのだといふ作詩を差出すとき
さつきからの緊張にすつかりうけ応へはうはの空だつた
もつと私が若かつたら
きつとそれを少女の気随な不機嫌ととつたらう
或はもすこし年をとつてゐたなら
かの女の目のなかで懼れと好奇心が争つて
強ひて冷淡に微笑しようと骨折るのを
耄碌した老詩人にむける憐れみの目色と邪推したらう

いま私は畳にうづくまり
客がおいていつたノート・ブックをあける
鉛筆書きの沢山の詩
愛の空想の詩をそこによむ
やつと目覚めたばかりの愛が
まだ聢とした目あてを見つける以前に
はやはげしい喪失の身悶えから神を呼んでゐる
そして自分で課した絶望で懸命に拒絶して防禦してゐる
あゝ純潔な何か

出されたまゝ触れられなかつたお茶に
もう小さな蛾が浮んでゐる
生涯を詩に捧げたいと
少女は言つたつけ
この世での仕事の意味もまだ知らずに。

伊東静雄
反響」所収
1947

南極では物は腐らない

あざらしの夫婦が並んで死んだ
永い旅から帰ってきたら
何の腐爛も起さずに
雌は立派に立ったままで
眼から氷柱を垂らしていた
犬が食ってしまったらしい雄は
赤い泥のような小さな糞となり
クレパス沿いに点々と並び
一番新しいらしいのが
一本湯気を立てていた

犬塚堯
南極」所収
1968