Category archives: Chronology

不安

僕は不安で堪らない
僕がサナトリュームにゐる間に
家に置いてきた子猫が
僕を忘れてしまひはせぬか

今の僕は小説を書くことを忘れ
小説からも忘れられるかもしれないことを
そんなに不安に感じてないが
ただこれだけが僕には気がかりだ

人生の事柄のなかには
見たところ下らない事柄のやうで
その根はひそかに深く人生の悲しみに通じてゐる
さういふ馬鹿にならないものがあるが

僕にはその一種と思へてならぬ
僕の好きな好きな子猫が
僕をあんなに慕つた子猫が
僕をケロリと忘れてしまふ悲しみ

高見順
死の淵より」所収
1964

かよわい花

かよわい花です
もろげな花です
はかない花の命です
朝さく花の朝がほは
昼にはしぼんでしまひます
昼さく花の昼がほは
夕方しぼんでしまひます
夕方にさく夕がほは
朝にはしぼんでしまひます
みんな短い命です
けれども時間を守ります
さうしてさつさと帰ります
どこかへ帰つてしまひます

三好達治
花筺」所収
1944

或る筆記通話

おほかみのお──レントゲンのれ──はやぶさのは──まむしのま──駝鳥のだ──うしうまのう──ゴリラのご──河童のか──ヌルミのぬ──うしうまのう──ゴリラのご──くじらのく──とかげのと──きりんのき──はやぶさのは──獅子のし──ヌルミのぬ──とかげのと──きりんのき──をはり

高村光太郎
高村光太郎詩集」所収
1950

ぶくろ界隈夕景

陽が暮れて
街街の 仕切られた灰色の窓が
バタバタと落ちはじめる
まっ先に 微かな音が
エスカレーターの段差が硬くたたまれるようにして
世の中の寸法を合せてしまうと
このあたりでは すんなりした脚で有名な
娼婦が ひときれの肉を煮る銅鍋を抱えて
過去に抱かれるようにぼんやりと
どこかへ向って馳けていく 誰も知らないところへ

雲が星によって閉じつけられるのか
星が雲によってくだかれたか
街街の部屋の片隅で
女たちが ひどい脱色のために
細くなった髪の流れを
きついピンクのクリップで捲きあげて
産み落した筈の影の子供に
何ごとかささやいているのがみられた
ときには小さな庭の
トウモロコシの 青くむくんだ葉かげで
のびのびとおしっこをする隣家の女もある
捨て猫とならんでじっとして
そこを吹く風は闇によって
殊更涼しいにちがいない

森原智子
1999

野生の童話

どんなに哀切にあける朝でも
一房の葡萄のようなかがやきがある
どんなにむざんに昏れる夜でも
ひっそりと開眼してゆく怒りがある
それを信じて
ぼくはどこでもない場所に坐り込んでは
ひとりふるい器に新しい酒を注ぎ
傾く日のふかさについて
考える
踏みはずしてきた故郷の
ぬかるみで湯気をたてていた馬糞
杉の家に悪口のように吹き込む風の音や
おそろしい静寂を運んでくる
初雪の足音を告げる猟銃の遠い音・・・・
あの地はぼくの野生の童話だ
いつも凶悪な無意味さに目覚めていて
ことばの床を踏みぬいて
放心した若い両親が
にくしみさえも失って立ちつくしていたりした
つらくひえ込む雪の朝など
ぼくは洗面器のひかりに小さな両手をつきながら
錐のように考え込んだものだった
でも欲しかったものはただひとつ
書いてもつきぬノートの一束
そのたましいの余白
日々はただ
夢破れた父を眠らす山河の上で
ごうごうたる吹雪のように鳴ったのか
あゝ無数の紙片が闇の中に散ってゆく
教室の余白に描かれたさみしい漫画や
野火のような前線を走る記憶も
そしていまはあっけなく死にゆくひとびとの片がわで
咳をしたり
笑いあったり
うらぎりうらぎられる
意識の地下道ばかりを這っている
だから野の水をのみながら
勇気や狂気にちかいきよらかな脚韻に耳をすまし
<時>の奈落で浮沈しているのだが
それでなくてもときどきぼくは
底のないまっさおな目で
異様にあかるく
酔っぱらっているらしいんだ

清水昶
「夜の椅子」所収
1976

白いシクラメン

いま
ちょうどななつめのしくらめんのはなが
ひらいたところです
はくちょうよりもしろく
うなじをたかくもたげて
いま ちょうど
ななつめのしくらめんのはなが
さいたばかりです
しはすのしろいひかりのなかで
はねをこころもちうしろにひいて
いまにもとびたとうとするちょうのような
ななつめのしろいしくらめんのはなを
ただひたすらみつづけていると
せかいはひどくしずまりかえり
すきとおり
なにもかもがまるで
えいがのらすと・しいんのように
うつくしくとおざかっていくのがわかります
なぜあれほど
たったひとつのらちもないことばに
こだわりつづけていたのだろう
なぜにくむのかなぜかなしむのか
わたしのなかで
ほぐしようもなくむすぼれていたおもいが
しろいしくらめんのはなびらのうえを いま
やわらかくほどけながらとおくとおく
とおざかっていくのがみえます

征矢泰子
「綱引き」所収
1977

山の上の空が
まつ青だ
雲が一つ浮んで
まつ青だ

原民喜
原民喜詩集」所収
1951

文法のいない朝

言葉の迷路は暗くて長いから
文法と友好条約を結ぶことにする
文法はわたしよりずっと背が高い
力を合わせたらいいだろう
昔の敵意を忘れようとして
握手するとき わたしたちの手が
小人と巨人の手に見える

話の口火を切るのは文法
不信を抱いたまま
わたしたちは簡単な会話を交わす
そして 何度も右に曲がったり
左に曲がったりしているうちに
いつのまにか道案内を
文法に任せている

ある日起きたら 文法はいない
いつもより明るい朝に導かれて
探すが見当たらない
仕方がなく一人で歩き出す
暫くして 文法はまた現れる
肩を並べて歩くと 二人とも
同じ身長になっているのに気づく

文法のいない朝が多くなると
わたしの疑いが少しずつ膨らむ
文法は力強い外形を失って
時間が逆戻りしているように
声が高くなって 筋肉が溶けて
わたしのとなりに少年が残る
言葉を交わさない日々が増える

いま 文法は既に幼児
すぐ 歩けなくなる
言葉は喃語になりつつ
迷路を進むのはもう
わたしの責任になった
地図もコンパスもないが
朝がもう眩しくなっている

光に導かれて 近いうちに
出口が見つかるだろう
そして そのとき
わたしは言語の迷路から
誇らしげに出るのだ
むかし文法だった胎児を
身のうち深く宿しながら

ジェフリー・アングルス
わたしの日付変更線」所収
2011

父上の苦しみ給ひし事を苦しまむ

頭蓋骨の割れ目を馬車は走つた
馬の顔には大きな眼孔がぽつかり開いてゐる
闇の中へ馬は足を上げてゐる
馬車の中には女の死体があつた
お腹には赤んぼの大きな瞳が見開かれてゐた
小さな手足はしつかり握られてゐた

私の寝台からは毎朝黒リボンの馬車が走り出す
私の食事からは朝毎に墓場のオルガンが鳴らされる
彼の女は父を忘れてゐる子供を生む
彼の女の蒼い顔は血管の中へ銀貨を流し込む
生活は飯にコロロホルムをかけてゐる
如何に月末を苦しまふと銀貨一枚鼠がくはえて来て呉れはせぬ
消費された女のお湯銭代と私の食費代を
誰に借りに行つたらいゝのか
天井がぬけて落ちさうな部屋に何物も期待するもの無く
広げられた新聞の広告欄には
「近来類似品や模倣品が沢山現れてをりますからお注意下さい。」

新聞紙をめくり向ふへやつて
この埃つぽい部屋に骸骨のやうに寝てゐる
ザク————ザク————ザク————ザク
また借金取りの足音が近づいて来る

萩原恭次郎
死刑宣告」所収
1925

私の夜

別れるとき もう次の約束をしなくなった
〝さようなら〟 のあと
〝ではまたいつか〟 の言葉をそえるだけで
地下鉄の階段を 右と左に別れて降りていく
振り返る ということも もうないことを思って
私も振りむくことをやめている

夜になると この夏 日和佐の砂浜で見た
海亀の産卵の姿を思っている
四肢を砂に埋めて 見開いた目を空にむけて
長い苦しみの時間をかけて産み落とす卵は
いままで私の見たものの中で もっとも美しいものとして目に残り
薄紅色の 真珠色の
あたたかく やわらかく
私のてのひらの中に ちょうど包めそうな
光の珠は
ひとの姿を形づくる前の
宿ったばかりの ひとのいのちそのものと
同じに違いない

亀はその淡々しい 美しいいのちを砂に埋めて
自然の手にまかせたまま 星明かりの海に帰っていった

重く疲れた体を引きずり
波打ちぎわにたどりつくまでの長い時間も
亀は 振りむくことをしなかった
振りむくことを期待して 波間にかくれるまでを見送った私の感傷を
灯を消した床の中で 私は笑ってみる

動物も植物も 愛などという面倒な感情は不要なのだ
犬や猫 猿の生態に愛を認めるのも
人の感傷に過ぎないのではないか
彼らは 愛よりも生そのものを 見事に行動しているのだ

愛を断ち切ったり 紡いだり
それも至極個人的な感情の中での操作をくり返している日々に
何がある?

亀は 産卵の傷ましい疲労からとうに回復しているだろう
生み落とした卵のどれほどが生を全うして
海に帰って来るかを 思うこともなく
すべて自然のまま
海底に 心静かに 忠実に
生を呼吸しているだろう

〝またいつか〟 の言葉の意味の重さ 軽さ
そのどちらとも計りかねて 胸に手を置くと
私の生が忠実に 生を鼓動していることに気づく
私も 星明かりの海の 深みへと降りてゆく
私の夜

高田敏子
むらさきの花」所収
1976