僕は不安で堪らない
僕がサナトリュームにゐる間に
家に置いてきた子猫が
僕を忘れてしまひはせぬか
今の僕は小説を書くことを忘れ
小説からも忘れられるかもしれないことを
そんなに不安に感じてないが
ただこれだけが僕には気がかりだ
人生の事柄のなかには
見たところ下らない事柄のやうで
その根はひそかに深く人生の悲しみに通じてゐる
さういふ馬鹿にならないものがあるが
僕にはその一種と思へてならぬ
僕の好きな好きな子猫が
僕をあんなに慕つた子猫が
僕をケロリと忘れてしまふ悲しみ
高見順
「死の淵より」所収
1964