Category archives: Chronology

ラヴレター

何の言葉も書かれていない。
宛名と差出人の名と消印、
ただそれだけだ。

異国の街からの一枚の絵ハガキ。
木立の中の朝の光り、
尖塔と走る犬。

あとは何も書かれていない。
ただ沈黙だけが
そこにくっきりと書かれている。

他の誰れも書くことができない
言葉にならない言葉、それは
きみしか読むことができない。

長田弘
メランコリックな怪物」所収
1973

空間

中原よ。
地球は冬で寒くて暗い。

ぢや。
さやうなら。

草野心平
絶景」所収
1940

乳房

なにをかくすことがあろう
鬼たちのふるさとは此処だった
母たちのやわらかくまろい乳房のうしろ
ひそかにふかくかくされた冥い迷妄の陥穽
なにを愧じることがあろう
母になることは鬼になること
母たちが母たちであるかぎり
鬼たちはいつもそこ 母たちの乳房のうしろ
うまれては死に死んではうまれて
ほそぼそとしつように
おもいわずらいの瘴気吐きつづけ
はりめぐらしたあやめもしらぬ闇のなか
母たちを犯しつづけて棲んでいた
いまようやく
身も心も独り立っていった子らが
わたしの掌のなかにのこしていった
休火山のようにしずかな乳房
ああ ついきのうまで 母だったのかわたしも

征矢泰子
すこしゆっくり」所収
1984

西瓜の詩

農家のまひるは
ひつそりと
西瓜のるすばんだ
大かい奴がごろんと一つ
座敷のまんなかにころがつてゐる
おい、泥棒がへえるぞ
わたしが西瓜だつたら
どうして噴出さずにゐられたらう

山村暮鳥
」所収
1925

ミオの星から

なんども生まれかわる星がある
闇に光り 闇に消えて 
ある日 秋の町にとどくのだ
あたりにはぼうぼうと
赤い夕日が燃えていて
その一点に
ミオの光はともるのだ
私は書こう あなたに
生まれ変わるための
長い年月について
そこにとどくときのよろこびと
消えるときのおののきについて
何億年も残るのは 私の体を包んだ
もう一つの金色の光であったことを

稲葉真弓
「アンサンブル」掲載
1992

修辞的鋳掛屋

わが団地村を訪れる鋳掛屋の口上。
「コウモリガサノ
ホネノオレタシュウリ。
ドビンノ
トウヅルマキノユルンダシュウリ。
ナベカマノ
アナノアイタシュウリ。
なんでもお申しつけください」

マイクを口に押し当てて
日曜ごとの時間。
語順がおかしいので
私は日曜ごとに訂正する。

「鍋釜の穴のあいた修理」を
「穴のあいた鍋釜の修理」に。
もしくは「穴のあいた鍋釜の、修理」に。

しかし
語順訂正にも拘わらず
「穴のあいた修理」の残像呪縛は強い。
余儀なく「てにをは」を変え
「穴のあいた鍋釜を修理」とする。

何度目の来訪だったろう。
私は鍋に穴をあけ
鋳掛屋の鼻先へ突き出した。
「穴のあいた修理」を頼む――。

夕方、穴はきれいにふさがれて
鍋は戻ってきた。
「いらだっておいでのようですが――」
と鋳掛屋は微笑した。
「私は、夜毎、睡眠中のあなたを訪れていますが、ご存知ないでしょう。
夜いっぱいかかって、人々の傷をふさぎ、朝、立ち去るのですが、私
の手で傷が癒されたと思う人は、先ず、いないようです。
それが傷というものでしょう。
ですから、正確に〈穴のあいた修理〉としか、言いようがないのです」

吉野弘
感傷旅行」所収
1971

故郷の河・東京・兄の内妻

 時間的距離、その奥行きのパース。消失点は、笑う人の笑いにある。僕の表情は今、そこに合わせて微笑している。黄変した山肌を遡る視線の先、峰の尾根筋で大きな発電用風車十機程が、列を成して回っている。風は午後の日を傾けて早くも白く、風車の長い強化プラスチック製ブレードもことさらに白い。
 雲。寒の青い空に孤立するいくつかの雲塊。雲は輪郭のほつれた低密度の立体で、常に高さを内包している。佇まいが「希望」に似ているのだ。そういう類似だけが、ある時は人にとって雲の存在意義である。雲自体にとって、雲であることが存在の様態の一局面に過ぎないことは自明であるとしても。
 歩をとめてみると足下の雑草も去年の今頃と同じように、びるびる音を立て風に吹かれている。ただ吹かれている。
 去年の今頃。東京の兄が違法薬物の摂取で錯乱して入院し、一緒に暮らしていた女性が自殺未遂の後行方不明になっている。彼女とはそのふた月前、兄を訪ねた折に一度だけ会った。つやのある黒髪と長い首が印象的だった。美しい唇がつうっと上下に割れて僅かに白い歯を見せてくれていた。「皓歯」といい「明眸」というが、目の辺りの造型は既に記憶の空白部となっている。
 顔の下半分だけに残る音のない笑い。
 そこで彼女についての記憶は消失している。何を話したのか。どこでどう別れたのか。浅草の古い雑居ビルの屋上。十二月の初め、曇天。低い鉄柵の向こう側では、くすんだ白や灰色、茶色、焦茶のコンクリート建築が無秩序に錯綜し、文字と図像を混濁させた看板や広告塔が散らばっていた。大通り。路地。建築の隙間から漏出する不定形の気配。それが走る自動車だったり、あるいは歩く人々だったりする。僕が不在である世界は実在するのだと、初めて実感として知った。
 あれから東京に行ったことはない。兄の病院にも顔を出していない。一度会っただけの女性のことはもともと何も知らない。知らされていない。母から名前を聞いたことはあるが、忘れてしまった。僕にとって彼女はひとつの表情だった。跳躍するプロミネンスが悉く鎮火し氷結すると、太陽は表情を変えて月になる。生死も判然としない、知らない女性の微笑が、今、故郷の河の土手から見る丘陵の尾根筋に昼間の月として淡く輝いている。
 僕に関係のない世界の、僕に関係のない生命体が、僕の知らない場所から僕の情欲を支配する。とても心細い。
 人間や人生の核心というべきものは僕から逃げ出し、世界と僕との間に成立した虚構の時空間を途方もない早さで移動している。傷病や死の苦痛が僕という個体を鷲掴みにする前に、僕は逃げたものを捉えなければいけないはずだ。が、それはとうに諦めている。僕を巡る公私の時間的領域が急速に消費されているのがよくわかる。
 短い枯れ草が足下で風に揺れる。堤防の上から振り返り見慣れた河を見る。広大な磧、白く乾いた丸石の堆積する向こうに、冬枯れの細流が幾筋かに分かれながら光を反射している。中学生だった時、増水して鉄橋を流した故郷の河が、今は何事もなく流れている。
 決定的な天変地異は、まだこれから起こるのだが。

右肩ヒサシ
現代詩投稿サイト「B-REVIEW」より転載
2017

あなたをじっとみていると
私は真実だけになりました

あなたが濡れているときは
私も濡れてゆれました

あなたにふれると氷のように
私はつめたく隔てられ

あなたはいつか私になり
私があなたになったとき

あなたはひとりみまかって
私は私を失いました

いまは思い出のかけらばかり
毀れたあなたのかけらばかり

野田宇太郎
「夜の蜩 野田宇太郎全詩集」所収
1966

ゆき

しんしんしんしん
しんしんしんしん

しんしんしんしんゆきふりつもる
しんしんしんしんゆきふりつもる
しんしんしんしんゆきふりつもる
しんしんしんしんゆきふりつもる

しんしんしんしん
しんしんしんしん

草野心平
草野心平詩集」所収
1951

椅子

無人であることを絶対の
前提とすることで
部屋ははじめてひとつの意志に
めざめることができる
椅子を引き倒し
扉を押しあけたものの
最後の気配に
耳をすませたのち きみは
椅子がみずからの意志で
ゆっくりと起き直り
無人の食卓へ向うさまを
ひっそりとおもい
えがけばいいのだ

石原吉郎
北條」所収
1975