わたしが 眠っている間
わたしの少しずつが
見えない 揚羽にでもなって
ひらひら 飛び立ってゆくのではないか
そんな具合に 少しずつ
私は 減ってゆくのではないか
減りながら
そしてわたしは
岩になってゆく
かやくさになってゆく
鵠になってゆく
信じてくれますか
しんじつ めざめのたびごとに
こうして わたしは
別のもの
おもいがけないものにと
変りはててゆく
あなたと わかれてからのわたしは・・・・
高野喜久雄
「存在」所収
1961
わたしが 眠っている間
わたしの少しずつが
見えない 揚羽にでもなって
ひらひら 飛び立ってゆくのではないか
そんな具合に 少しずつ
私は 減ってゆくのではないか
減りながら
そしてわたしは
岩になってゆく
かやくさになってゆく
鵠になってゆく
信じてくれますか
しんじつ めざめのたびごとに
こうして わたしは
別のもの
おもいがけないものにと
変りはててゆく
あなたと わかれてからのわたしは・・・・
高野喜久雄
「存在」所収
1961
毎日
胃袋を覗く
せせっこましい暗室の中で
白い鈎形の影の
臍から何寸下がっているから
あなたの胃袋は病気だと
前後 左右に
おしつけ こすりあげる
黄変米をこなし
雑魚をくらい
MSA小麦を喰いつくした
白い影が
目の前でゆれる
何十年かを生き抜いた
君の胃が
飲み
くらい
こなしつづけたものが
どれだけ
君の肉であり
君の知恵であったか
君の胃は
何十年
日本の政治の排泄物をくらいつづけてきた
そして
胃は
むくみ ただれ
あげくの果ては
このほじくれた激痛の
悔恨に似た穴だ
世の中の
巨大な胃袋のなかで
僕は
どろどろに溶かされながら
白い鈎形の影を追いつめる
御庄博実
「御庄博実詩集」所収
1987
男の子って
どうして雲がすきなのかしらね
おばさん 小さな女の子だったけれど
こんなにおばさんになってもまだ
わからないわ どうしてなの?
雲ってね おばさん
未来とか とおい国とか まだ出会わないひととか
なんだかそういうものを感じさせるんだ
だから雲を見ながら
夢を見ているのさ男の子は──
それじゃ小さな雲だったら
小さな夢なの?
大きな大きな黒雲だったらどうなのよ
嵐が来るかもしれないのに──
どうしても わかってくれない
白い ふっくらした
雲みたいなぼくのおばさん
辻征夫
「ボートを漕ぐおばさんの肖像」所収
1992
タダでゆける
ひとりになれる
ノゾミが果される、
トナリの人間に
負担をかけることはない
トナリの人間から
要求されることはない
私の主張は閉めた一枚のドア。
職場と
家庭と
どちらもが
与えることと
奪うことをする、
そういうヤマとヤマの間にはさまった
谷間のような
オアシスのような
広場のような
最上のような
最低のような
場所。
つとめの帰り
喫茶店で一杯のコーヒーを飲み終えると
その足でごく自然にゆく
とある新築駅の
比較的清潔な手洗所
持ち物のすべてを棚に上げ
私はいのちのあたたかさをむき出しにする。
三十年働いて
いつからかそこに安楽をみつけた。
石垣りん
「表札など」所収
1968
二段ベッドは重ねた柩
低いほうは地に潜り
高いほうは宙に浮き
あいだに軋む水の音
これはただしい比喩?
それともまちがった比喩?
六月の夕暮れというのに僕は
上段ベッドに浮いたまま
胸のうえで両手を組んで
背筋をのばして目を閉じていると
このまま眠ってしまうのがこわくって
冷たい手が置かれる
熱い頬のうえに
叫ぼうとして
声が出ない
ただ吐く息が
天井と口のあいだで膨らんで
膨らんで
鼻と口をふさぐから
息がくるしくて動けない
きょう僕が授業中
ノートに夢の続きを描いていたら
隣の女子に見られてしまって
ハッとして目が合ったそのときの
怯えた顔が忘れられない
だから明日にはもう
僕はここにはいない
きっと今夜のうちに死ぬだろう
死ぬときはせめて
頭の芯がじーんと痺れて
そのまますべてを忘れるくらい
新鮮な瓶づめオキシドールを
胸いっぱい吸いこみたい
それから僕はあの森へ行く
森でしか会えない姉がいる
木立のとだえた日だまりで二人
蝶にたずねて野花を数える
シロツメクサ、ツユクサ
シシウドを這うカイツムリ
ところで姉はいつもこんなに白いワンピースで
夜のあいだはどこでなにしているんだろう
草むらに並んで寝ころびながら
いつも聞けずに横顔をのぞき見てしまう
「眠れないの? 目の下が蒼いよ」
「さむいな、ちょっとどっかへ行ってたみたい」
まぶたを開けたらまっくらだった
ベッドから降りて
キッチンへ水を飲みにいく
窓をあけると雨の匂い
暗闇のなか音もたてずに
水のとばりがじっとりとけぶって
重たい空気が押しよせる
これでやっと眠れるとおもう
ここは三階建十八世帯の棲む官舎
いまも柩のなかで水につつまれている
僕より年下の子どもがいて
きっと明日は
南岸の海のほうから晴れてくる
濡れた坂を
見知らぬ父さんが上ってくる
浜田優
「生きる秘密」所収
2012
おおきなまなざしの下 まぼろしの天体をゆく
ひかり充ちる半球
みどりの水は幾重にも岸を囲み
石のうえ 風は表層のリズムを刻みつづける
水藻吹く天地の揺らぎ
もえさかるくさいきれ
息急き切っておさない眼のひかりは境界をいそぐ
先端という先端
ゆびさきというゆびさきに吹くオレンジの火
あらゆる眼のなか
一点の傷もない青のたかみで自転する金の惑星
置き去られた静寂の庭の
記憶の半球に立って 声は<わがはじまりの名>を呼ぶ
「木よ」と
水盤はふたたびその天体の中心に置かれ
水音はおさない眼と耳のぴちぴちした葉群を蒼空にあずける
知っているのだろうか
世界という完全な球体は
一つの果実のなかにくりかえし実現され
またたくまにうしなわれてゆき
生の裏側でのみ
オレンジの枝はなお腕をのばし
憧れの球体は高くかがやく
完全な球体
なんの疑いもなく信じられた世界のうつくしすぎるまぼろし
生地の庭で
耳はそのにぎやかな空歌を聴き
足はそのまばゆい空虚を跨ぐ
おおきなまなざしの下で
金と砂の土地はくまなくそのあかるさに耐えている
新井豊美
「夜のくだもの」所収
1992