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馬の胴体の中で考えていたい

おゝ私のふるさとの馬よ

お前の傍のゆりかごの中で

私は言葉を覚えた

すべての村民と同じだけの言葉を

村をでゝきて、私は詩人になつた

ところで言葉が、たくさん必要となつた

人民の言ひ現はせない

言葉をたくさん、たくさん知つて

人民の意志の代弁者たらんとした

のろのろとした戦車のやうな言葉から

すばらしい稲妻のやうな言葉まで

言葉の自由は私のものだ

誰の所有でもない

突然大泥棒奴に、

──静かにしろ

声を立てるな──

と私は鼻先に短刀をつきつけられた、

かつてあのやうに強く語つた私が

勇敢と力とを失つて

しだいに沈黙勝にならうとしてゐる

私は生れながらの唖でなかつたのを

むしろ不幸に思ひだした

もう人間の姿も嫌になつた

ふるさとの馬よ

お前の胴体の中で

じつと考へこんでゐたくなつたよ

『自由』といふたつた二語も

満足にしやべらして貰へない位なら

凍つた夜、

馬よ、お前のやうに

鼻から白い呼吸を吐きに

わたしは寒い郷里にかへりたくなつた

 

小熊秀雄

哀憐詩集」所収

1940

それでは計算いたしませう

それでは計算いたしませう

場所は湯口の上根子ですな

そこのところの

総反別はどれだけですか

五反八畝と

それは台帳面ですか

それとも百刈勘定ですか

いつでも乾田ですか湿田ですか

すると川から何段上になりますか

つまりあすこの栗の木のある観音堂と

同じ並びになりますか

あゝさうですか、あの下ですか

そしてやっぱり川からは

一段上になるでせう

畦やそこらに

しろつめくさは生えますか

上の方にはないでせう

そんならスカンコは生えますか

マルコやヽヽはどうですか

土はどういうふうですか

くろぼくのある砂がゝり

はあさうでせう

けれども砂といったって

指でかうしてサラサラするほどでもないでせう

掘り返すとき崖下の田と

どっちの方が楽ですか

上をあるくとはねあげるやうな気がしますか

水を二寸も掛けておいて、あとをとめても

半日ぐらゐはもちますか

げんげを播いてよくできますか

槍たて草が生えますか

村の中では上田ですか

はやく茂ってあとですがれる気味でせう

そこでこんどは苗代ですな

苗代はうちのそば 高台ですな

一日いっぱい日のあたるとこですか

北にはひばの垣ですな

西にも林がありますか

それはまばらなものですか

生籾でどれだけ播きますか

燐酸を使ったことがありますか

苗は大体とってから

その日のうちに植えますか

これで苗代もすみ まづ ご一服してください

そのうち勘定しますから

さてと今年はどういふ稲を植えますか

この種子は何年前の原種ですか

肥料はそこで反当いくらかけますか

安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは

三十年に一度のやうな悪天候の来たときは

藁だけとるといふ覚悟で大やまをかけて見ますか

 

宮沢賢治

「補遺詩篇」所収

1933

 

恋を恋する人

わたしはくちびるにべにをぬつて

あたらしい白樺の幹に接吻した。

よしんば私が美男であらうとも

わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない

わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいの匂ひがしない

わたしはしなびきつた薄命男だ

ああなんといふいぢらしい男だ

けふのかぐはしい初夏の野原で

きらきらする木立の中で

手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた

腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた

襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた

かうしてひつそりとしなをつくりながら

わたしは娘たちのするやうに

こころもちくびをかしげて

あたらしい白樺の幹に接吻した。

くちびるにばらいろのべにをぬつて

まつしろの高い樹木にすがりついた。

 

萩原朔太郎

月に吠える」所収

1917

人間に与える詩

そこに太い根がある

これをわすれているからいけないのだ

腕のような枝をひっ裂き

葉っぱをふきちらし

頑丈な樹幹をへし曲げるような大風の時ですら

まっ暗な地べたの下で

ぐっと踏張っている根があると思えば何でもないのだ

それでいいのだ

そこに此の壮麗がある

樹木をみろ

大木をみろ

このどっしりとしたところはどうだ

 

山村暮鳥

風は草木にささやいた」所収

1918

無題

み吉野の

耳我の嶺に

時なくぞ

雪は降りける

間無くぞ

雨は振りける

その雪の

時なきが如

その雨の

間なきが如

隈もおちず

思ひつつぞ来し

その山道を

 

天武天皇

万葉集」所収

759

 

無題

石見の海

角の浦廻を

浦なしと

人こそ見らめ

潟なしと

人こそ見らめ

よしゑやし

浦はなくとも

よしゑやし

潟はなくとも

鯨魚取り

海辺を指して

和田津の

荒礒の上に

か青なる

玉藻沖つ藻

朝羽振る

風こそ寄せめ

夕羽振る

波こそ来寄れ

波のむた

か寄りかく寄り

玉藻なす

寄り寝し妹を

露霜の

置きてし来れば

この道の

八十隈ごとに

万たび

かへり見すれど

いや遠に

里は離りぬ

いや高に

山も越え来ぬ

夏草の

思ひ萎へて

偲ふらむ

妹が門見む

靡けこの山

 

柿本人麻呂

万葉集」所収

759

無題

うつせみと

思ひし時に

取り持ちて

わが二人見し

走出の

堤に立てる

槻の木の

こちごちの枝の

春の葉の

茂きがごとく

思へりし

妹にはあれど

たのめりし

児らにはあれど

世間を

背きしえねば

かぎろひの

燃ゆる荒野に

白栲の

天領巾隠り

鳥じもの

朝立ちいまして

入日なす

隠りにしかば

我妹子が

形見に置ける

みどり子の

乞ひ泣くごとに

取り与ふる

物し無ければ

男じもの

脇はさみ持ち

我妹子と

ふたりわが宿し

枕付く

嬬屋のうちに

昼はも

うらさび暮らし

夜はも

息づき明かし

嘆けども

せむすべ知らに

恋ふれども

逢ふ因を無み

大鳥の

羽易の山に

わが恋ふる

妹は座すと

人の言へば

石根さくみて

なづみ来し

吉けくもそなき

うつせみと

思ひし妹が

玉かぎる

ほのかにだにも

見えなく思へば

 

柿本人麻呂

万葉集」所収

759

無題

天地の

分れし時ゆ

神さびて

高く貴き

駿河なる

富士の高嶺を

天の原

振り放け見れば

渡る日の

影も隠らひ

照る月の

光も見えず

白雲も

い行きはばかり

時じくぞ

雪は降りける

語り継ぎ

言ひ継ぎ行かむ

富士の高嶺は

 

山部赤人

万葉集」所収

759

 

湖水

この湖水で人が死んだのだ

それであんなにたくさん舟が出てゐるのだ

 

葦と藻草の どこに死骸はかくれてしまつたのか

それを見出した合図の笛はまだ鳴らない

 

風が吹いて 水を切る艪の音櫂の音

風が吹いて 草の根や蟹の匂ひがする

 

ああ誰かがそれを知つてゐるのか

この湖水で夜明けに人が死んだのだと

 

誰かがほんとに知つてゐるのか

もうこんなに夜が来てしまつたのに

 

三好達治

測量船」所収

1930

コップに一ぱいの海がある

コップに一ぱいの海がある

娘さんたちが 泳いでゐる

潮風だの 雲だの 扇子

驚くことは止ることである

 

立原道造

1932