Category archives: 1950 ─ 1959

眺望

屋根といふものがなければ
暮しはできないものなのか
もの哀しい習俗のぐるりの
屋根屋根を濡らして
遥かなる狐の嫁入りが行く
青い風は僕の隣から
眺望を撫でてはゐたけれど
僕はこのまんま
美しい空つぽになりたくて
ほそい山径に群れてゐる
花蝋燭のやうな野苺に
すくないけれど僕も
眺望も呉れてしまつた

淵上毛錢
1950

奈々子に

赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある。

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。

吉野弘
消息」所収
1957

I was born

確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

  或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。

──やっぱり I was born なんだね──
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
──I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね──
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
──蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね──
 僕は父を見た。父は続けた。
──友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。つめたい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは──。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
──ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体──

吉野弘
幻・方法」所収
1959

霜枯れの野に
バッタが飛び歩いている

あいつは宇宙を動かしていた奴だ
黒く錆びた舌で 凍土を食っている

月も太陽も 糞便にして
ヒリ出したのは彼奴だ

菜種の花に 灰が降った
バッタの額に 飛礫が飛んで来た

血潮に滴る眼を開くと
雀が飛んでいる
両足に 全時間をしばりつけて

一つ瞬きすると 全歴史が消える
バッタは 髯のような触覚を顫わしていたが
粉微塵に 放射能にやられた

無数の生涯を 刻々送っている
最も充実した内容で 全歴史が一瞬に経験される
雀は豊饒此の上ない身分である
瞬間々々に 無限の多彩を極めた浮生を囀っている

雀が動くと 大地が燃えはじめる
あいつが一足歩むと 宇宙は消えてゆく

高橋新吉
「高橋新吉詩集」所収
1957

遠い分身

海抜二千メートルの曠野の草から
 
鐘をつるした避難の塔が立っている。
 
人は一篇の詩を銅板に刻んで
 
安山岩のその表面に嵌めこんだ。
 
―私の詩だ。
 
あわれ、ほかの誰の詩でもなく、
 
或る年の秋に私がそこの夕日に書いた
 
私自身の「美ガ原」の詩だ。

今夜東京には寒々と冬の雨が降っている。
 
それならば北方の遠い信濃はおそらく雪だ。
 
雪は吼えたける風に巻かれて
 
あの高原のあの広大なひろがりを
 
悲しく暗く濠々と駆けめぐっていることだろう。

鐘は深夜の烈風におもたく揺れて
 
その青銅の舌で鳴りつづけているかも知れない。
 
そして私の詩碑が他郷の夜の吹雪のなかに
 
じっと堪えていることだろう。
  
いとおしいのは、しかし雪の夜も、
 
赤や黄に躑躅の燃える春の日も、  
 
芒、尾花や、松虫草の秋といえども同じことだ。  
 
なぜならばあの詩あの文宇はまさに私の一部であり、
 
その私がこの世ではまだ生きの身だからだ。
 
死んでの後は知るよしもない。
 
せめてなお生きて喜び悲しむかぎりは、
 
人々よ、
 
どうか私の詩を私とだけ在らせてくれ。

尾崎喜八
「歳月の歌」所収
1958

すずめ

雀は常に楽しい
きょうもスガスガしくよく晴れている
太陽の光りを羽一杯に浴びて飛んでいる 

雀には頭脳がない
雀には考えることが必要でないからだ 

雀の頭の中から
雲が消え 鳥が消え 大地も消えてしまった

カラカラと頭の中で鳴っている
深い井戸の中へ石が落ちてゆくように
コロコロと音を立てている

それは木枯しでもなく
雪が崩れる音でもない

考えることは物の変化ヒズミに対応することである
ところで物の変化ヒズミを一切無視するなら考えることは不要である

急ぐことはない
多分雀は笑うだろう
夕陽のように笑うだろう
何を見ても
何を聞いても
雀は笑う
笑い飛ばすだろう  

その笑い声は雀には聞こえない
もはや消えてしまって
どこにもないからだ

どこにも何もない
有るとすれば
それは鳥の悲しそうな顔だけだ
鳥は泣いている
泣くことしか知らぬのだろう
濡れた涙の顔だけが消えのこっている

それを雀は塗り潰す
雀の体で塗りつぶす

高橋新吉
「高橋新吉詩集」所収
1957

冬の日

或る荒れはてた季節
果てしない心の地平を
さまよい歩いて
さんざしの生垣をめぐらす村へ
迷いこんだ
乞食が犬を煮る焚火から
紫の雲がたなびいている
夏の終りに薔薇の歌を歌つた
男が心の破滅を歎いている
実をとるひよどりは語らない
この村でラムプをつけて勉強するのだ
「ミルトンのように勉強するんだ」と
大学総長らしい天使がささやく
だが梨のような花が藪に咲く頃まで
猟人や釣人と将棋をさしてしまつた
すべてを失つた今宵こそ
ささげたい
生垣をめぐり蝶とれる人のため
迷って来る魚狗と人間のため
はてしない女のため
この冬の日のため
高楼のような柄の長いコップに
さんざしの実と涙を入れて

西脇順三郎
「近代の寓話」所収
1953

だまして下さい言葉やさしく

だまして下さい言葉やさしく
よろこばせて下さいあたたかい声で。
世慣れぬ私の心いれをも
受けて下さい、ほめて下さい。
ああ貴方には誰よりも私が要ると
感謝のほほえみでだまして下さい。
 
その時私は
思いあがって傲慢になるでしょうか
いえいえ私は
やわらかい蔓草のようにそれを捕えて
それを力に立ちあがりましょう。
もっともっとやさしくなりましょう
もっともっと美しく
心ききたる女子になりましょう。
 
ああ私はあまりにも荒地にそだちました。
飢えた心にせめて一つほしいものは
私が貴方によろこばれると
そう考えるよろこびです。
あけがたの露やそよかぜほどにも
貴方にそれが判って下されば
私の瞳はいきいきと若くなりましょう。
うれしさに涙をいっぱいためながら
だまされだまされてゆたかになりましょう。
目かくしの鬼を導くように
ああ私をやさしい拍手で導いて下さい。

永瀬清子
焔について」所収
1950

鹿

鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして

村野四郎
亡羊記」所収
1959

子供の絵

赤いろにふちどられた
大きい青い十字花が
つぎつぎにいっぱい宙に咲く
きれいな花ね たくさんたくさん
ちがうよ おホシさんだよ おかあさん
まんなかをすっと線がよこぎって
遠く右のはしに棒が立つ
ああ野の電線
ひしゃげたようなあわれな家が
手まえの左のすみっこに
そして細長い窓ができ その下は草ぼうぼう
ぼうやのおうちね
うん これがお父さんの窓
性急に余白が一面くろく塗りたくられる
晩だ 晩だ
ウシドロボウだ ゴウトウだ
なるほど なるほど
目玉をむいたでくのぼうが
前のめりに両手をぶらさげ
電柱のかげからひとりフラフラやってくる
くらいくらい野の上を
星の花をくぐって

伊東静雄
伊東静雄詩集」所収
1953