Category archives: 1970 ― 1979

(川の名が私の住む町の名である、そのことを意識することもなく、わたしは、川のむこうがわへ出かけ、川のむこうがわから帰ってくる。)

ひとりの男が、厚ぼったい黒い布のようなものを、はげしくふりまわしている。対岸の堤防の上。もうひとりの男を殴りつけているらしい。空は低く垂れさがっていて、殴りつけている男も、殴りつけられている男も、はだかだ。いま、陽は没していくところだ。草のゆれている部分が左へ左へと移動する。上流の、葦のしげみのむこうに、ふいに馬の頭部があらわれる。空は低く垂れさがっていて、いま、鋭くひかるものがうちおろされるところだ。馬が、いかだにのった馬の全体が、みえてくる。二頭の馬は、流れに横むきになって、うごかず、水道の蛇口のような首をつきだしている。そのまなざしのさきで、ふくらむ水。なめるように、馬の腹の下を風が吹きぬける。馬の腹部から這いでた男が、ななめに、水を裂いて棹をつきいれる。すぐに棹はたぐられる。光のつぶつぶがはしる。いかだ師のひくいつぶやきが、ひくいつぶやきのまま、川の幅だけひろがる。空は低く垂れさがっていて、ねばりつく空気のなかを、はだかの男が泳ぐように、堤防から川っぷちの道にはしる。頭髪が草とともにそよぐ。ふたつの黒い影から、川づらへむけて、舌うちのように砂利がはねる。あそこには、おそろしいものが隠されているのだ。あの道はそのさきで曲り、坂につづき、坂をのぼりつめて、わたしの家までつづくのだ。空は低く垂れさがっていて、わたしは、馬の眼のなかにとらえられたまま、五寸釘となり、小さな黒点となる。川が大きくうねっていくところで、わたしは、消える。

山本哲也
冬の光」所収
1979

木のあいさつ

ある日 木があいさつをした
といっても
おじぎをしたのでは
ありません
ある日 木が立っていた
というのが
木のあいさつです
そして 木がついに
いっぽんの木であるとき
木はあいさつ
そのものです
ですから 木が
とっくに死んで
枯れてしまっても
木は
あいさつしている

ことになるのです

石原吉郎
日常への強制」所収
1970

落下

その人は 汀をさすらっていた と云うのですか?
いいえ 丁度そこを 通り合わせていたのでしょう。
ええ こんなふうに、、、。 あっち向きに、、、。
どこからですか?
どこからだか そんなことが わかりそうなら 訊いてみたんですけどね。
アテなしの 実にどうでもいいような 歩きざまで 
汀の崖の上を ヒョコ ヒョコ ヒョコ ヒョコ
千鳥の散らばってる方に向かって 歩いていったのです。
おや 崖? 汀じゃ なかったのですか?
ナギサなんて 云いましたかね? 
ガケですよ。 百米のガケですよ。
ガケの上に 砂の浜があるのですか?
砂じゃ なかったですかね。 でも 奴さん 砂の上を踏んでるみたいに
ヒョコ ヒョコ ヒョコ ヒョコ 歩いていったんですよ。
千鳥が そんなガケの上に いるのですか?
千鳥でなかったとしたら ピンタ・シルゴだね。
そう ピンタの奴が 実に沢山 その人のまわりを 
送り迎えでもするように 啼き交わしたり 翔び交わしたりして
ヒラヒラ と まるで もつれそうに
その人の足どりと にぎわい合ってる みたいなんですね、、、。
あなたは とめなかったの?
そっちは ガケだよ 行けないよ って 何度も云おうとしたんですけど
何しろ 先のことは チャンと心得ているような 足取りでしょう。
声をかける スキがありませんや。
そのまま 飛んだのかね?
いいえ まっすぐ 歩いていっちゃたって 云ってるでしょう。
抱きとめる ヒマは無かったの?
いいえ 南無 も 阿弥 も ありゃしませんや。
まるで 宇宙船みたいに フンワリ開いて 落ちていってさ
その落下が 無限を語るように 
実に 長い長い 軌跡を曳いていっただけですよ。
酔っていたのでしょうね?
いいえ 酔った気配なんか ミジンも 感じられませんでした。
それとも 自殺?
冗談じゃない あんな自殺ってあるもんですか。
見事な水シブキが 音もなく その男のまわりに 口をあけただけでした。
あなたは 見たわけね? その男の 落ちてゆく姿を?
咄嗟に 私は泣いちゃった。 何が 悲しいって 云うんですかね?
あんなに キレイな 軌跡と 水シブキを 見たって 云うのにさ。
だから あの男は 死んでなんぞ いませんよ。
おや どうして?
どうしてって お日様を呑みこむようにしながら
ヒョコ ヒョコ ヒョコ 歩いていっただけですもの。
どこへ ですか?
さあ どこへって どこへでもいいようにさ。 
あっち向きに さ。

檀一雄
「檀一雄詩集」所収
1975

春の庭

明るい昼の陽射しの中に
なにかとんでるものがある。
時々芝生を黒い影が掠める。
庭にはチューリップやぶらんこや
喜々として遊びたわむれる子供や美しい母親の笑い。お菓子の匂い。
しかしまだなにか足りないものがある。
この緑の風景にやがて其処へおちてくる。
飛んでるものは疲れて落ちる。
いつも不幸はこのような仕方で
突然あらわれる。

岡崎清一郎
「銀彩炎上」所収
1974

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子
自分の感受性くらい」所収
1977

ながい夜

眼を見ひらいたまま
暗い水の底から浮びあがるように
ゆめからさめる
ガラス窓に
木枯しが鳴っている
また眠り、べつのゆめを
みる ふたたび目ざめ
時計をのぞく

毎晩
おなじことだ
遠いゆめと
近いゆめの記憶が重なり
すこしたつて、闇のなかで
ぼくの来し方行く末が
散らばつた骨のように白々と見えてくる

もうだれも
ぼくのセーターの匂いを
かがないであろう
夜の台所にぶらさがっている
まないたや包丁のように
ぼくの未来はあるであろう
明るい朝のあいさつは
つぶやきのように消えてしまった
無を打ちくだくことばは
青いインクで書かれなかった
あしたもまた
ハンカチを忘れて家を出るであろう
力を入れて引き抜いた草が
泥のついた根ごと
机の上に置かれてあるであろう
ぼくは愛した
恐れた
ぼくは恐れるであろう
ぼくは机の上の草を見ているであろう

時計をのぞく
毛布をひきあげて
顔をかくす
腕を伸ばして両脇につけ
垂直に
暗い水の底に沈んでゆく姿勢をとる
目をつむる              

北村太郎
冬の当直」所収
1972