Category archives: 1920 ─ 1929

漂遊吟

退屈なので

累々たる人間の谷底を

けさの三時半から出てしまった

 

どうして私が

未来のことを考えよう

きれいな風が吹いてくるではないか

 

風よ日よ

どうか私と遊んでおくれ

この古風で独りぼっちな私と

 

こんなに私が

古風で独りぼっちな女なので

人は私を末摘花だといっていよう

 

だが雲は

火の花瓣をあげて進んでくるし

地平線は銀に輝く

 

人びとよ

人生が私に何だろう

いや何でもない

 

人生よ

光と音響とのデカダンスよ

私はいつもお前を打ち眺める

 

自由ということを

そしてもはや忘れてしまった

足はいま石竹いろの空気を踏む

 

岩壁も 王者の塔も

ここまでは透さない

かれらは空気の底に沈んでいる

 

お母さま

私に会いたいとおっしゃるなら

あの三日月の輪をご覧下さい

 

あの輪の上に

私は毎晩佇んで

東の空から昇るのです

 

真夜なかには

驚くばかり歴々と

あなたの町に迫ります

 

そして人びとの

愚かで下らない信条を

私の神話で鍍金して上げよう

 

こんなに私は

偉大な女詩人であるけれど

こんなに私は寂しい

 

高群逸枝

「放浪者の死」所収

1921

ぼくの帽子

── 母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?

ええ、夏碓井から霧積へ行くみちで、

渓谷へ落としたあの麦稈帽子ですよ。

── 母さん、あれは好きな帽子でしたよ。

僕はあのとき、ずいぶんくやしかった。

だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

── 母さん、あのとき、向うから若い薬売が来ましたっけね。

紺の脚絆に手甲をした─── 。

そして拾はうとしてずいぶん骨折ってくれましたっけね。

だけどとうとう駄目だった。

なにしろ深い渓谷で、それに草が

背丈ぐらい伸びていたんてすもの。

── 母さん、本当にあの帽子どうなったでせう?

そのとき傍に咲いていた車百合の花は、

もうとうに枯れちゃつたでせうね。そして、

秋には、灰色の霧があの丘をこめ、

あの帽子の下で毎晩きりぎりすが鳴いたかも知れませんよ。

── 母さん、そして、きっと今頃は、── 今夜あたりは、

あの渓間に、静かに雪が降りつもっているでせう。

昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、

その裏に僕が書いた

Y・Sという頭叉字を

埋めるように、静かに、寂しく── 。

 

西条八十

少年詩集」所収

1929

息を 殺せ

息を ころせ

いきを ころせ

あかんぼが 空を みる

ああ 空を みる

 

八木重吉

秋の瞳」所収

1927

親と子

太鼓は空をゴム鞠にする

でんでん と太鼓の音が路からあふれてきて眠つてゐた子をおこしてしまつた

 

飴売は

「今日はよい天気」とふれてゐる

私は

「あの飴はにがい」と子供におしへた

 

太鼓をたゝかれて

私は立つてゐられないほど心がはずむのであつたが

眼をさました子供が可哀いさうなので一緒に縁側に出て列らんだ

 

菊の枯れた庭に二月の空が光る

 

子供は私の袖につかまつてゐる

 

尾形亀之助

雨になる朝」所収

1929

停留所にてスヰトンを喫す

わざわざここまで追ひかけて

せっかく君がもって来てくれた

帆立貝入りのスヰトンではあるが

どうもぼくにはかなりな熱があるらしく

この玻璃製の停留所も

なんだか雲のなかのよう

そこでやっぱり雲でもたべてゐるやうなのだ

この田所の人たちが

苗代の前や田植の後や

からだをいためる仕事のときに

薬にたべる種類のもの

きみのおっかさんが

除草と桑の仕事のなかで

幾日も前から心掛けて拵へた

雲の形の膠朧体

それを両手に載せながら

ぼくはただもう青くくらく

かうもはかなくふるへてゐる

きみはぼくの隣に座って

ぼくがかうしてゐる間

じっと電車の発着表を仰いでゐる

あの組合の倉庫のうしろ

川岸の栗や楊も

雲があんまりひかるので

ほとんど黒く見えてゐるし

いままた稲を一株もって

その入口に来た人は

たしかこの前金矢の方でもいっしょになった

きみのいとこにあたる人かと思ふのだが

その顔も手もただ黒く見え

向ふもわらってゐる

ぼくもたしかにわらってゐるけれども

どうも何だかじぶんのことではないやうなのだ

ああ友だちよ

空の雲がたべきれないやうに

きみの好意もたべきれない

ぼくははっきりまなこをひらき

その稲を見てはっきりと云ひ

あとは電車が来る間

しづかにここに倒れよう

ぼくたちの

何人も何人もの先輩がみんなしたやうに

しづかにここへ倒れて待たう

 

宮沢賢治

春と修羅 第三集」所収

1928

 人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。

 そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。

 

 ふりかへつてみると、自分もたくさんの詩をかいてきた。よくかうして書きつづけてきたものだ。

 その詩が、よし、どんなものであらうと、この一すぢにつながる境涯をおもへば、まことに、まことに、それはいたづらごとではない。

 むかしより、ふでをもてあそぶ人多くは、花に耽りて實をそこなひ、實をこのみて風流をわする。

 これは芭蕉が感想の一つであるが、ほんとうにそのとほりだ。

 また言ふ。――花を愛すべし。實なほ喰ひつべし。

 なんといふ童心めいた慾張りの、だがまた、これほど深い實在自然の聲があらうか。

 自分にも此の頃になつて、やうやく、さうしたことが沁々と思ひあはされるやうになつた。齡の效かもしれない。

 

 藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない。藝術か生活か。徹底は、そのどつちかを撰ばせずにはおかない。而も自分にとつては二つながら、どちらも棄てることができない。

 これまでの自分には、そこに大きな惱みがあつた。

 それならなんぢのいまはと問はれたら、どうしよう、かの道元の谿聲山色はあまりにも幽遠である。

 かうしてそれを喰べるにあたつて、大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合掌禮拜するだけの自分である。

 

 詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。

 

 だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。

 

 詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。

 

 善い詩人は詩をかざらず。

 まことの農夫は田に溺れず。

 

 これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。

 なんといはう。實に、田の田である。詩の詩である。

 

 ──藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。

 藝術における氣禀の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る敍述、表現にをはつてゐるかゐないかは徹頭徹尾、その何かの上に關はる。

 その妖怪を逃がすな。

 それは、だが長い藝術道の體驗においてでなくては捕へられないものらしい。

 何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。

茨城縣イソハマにて

 

山村暮鳥

」序文より

1925

盥の中でぴしやりとはねる音がする。

夜が更けると小刀の刃が冴える。

木を削るのは冬の夜の北風の為事である。

煖炉に入れる石炭が無くなつても、

鯰よ、

お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。

檜の木片は私の眷族、

智恵子は貧におどろかない。

鯰よ、

お前の鰭に剣があり、

お前の尻尾に触角があり、

お前の鰓に黒金の覆輪があり、

さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、

何と面白い私の為事への挨拶であらう。

風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。

智恵子は寝た。

私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、

研水を新しくして

更に鋭い明日の小刀を瀏瀏と研ぐ。

 

高村光太郎

智恵子抄」所収

1925

善鬼呪禁

なんぼあしたは木炭を荷馬車に山に積み

くらいうちから町へ出かけて行くたって

こんな月夜の夜なかすぎ

稲をがさがさ高いところにかけたりなんかしてゐると

あんな遠くのうす墨いろの野原まで

葉擦れの音も聞えてゐたし

どこからどんな苦情が来ないもんでない

だいいち そうら

そうら あんなに

苗代の水がおはぐろみたいに黒くなり

畦に植はった大豆もどしどし行列するし

十三日のけぶった月のあかりには

十字になった白い暈さへあらはれて

空も魚の眼球に変り

いづれあんまり録でもないことが

いくらもいくらも起ってくる

おまへは底びかりする北ぞらの

天河石のところなんぞにうかびあがって

風をま喰ふ野原の慾とふたりづれ

威張って稲をかけてるけれど

おまへのだいじな女房は

地べたでつかれて酸乳みたいにやはくなり

口をすぼめてよろよろしながら

丸太のさきに稲束をつけては

もひとつもひとつおまへへ送り届けてゐる

どうせみんなの穫れない歳を

逆に旱魃でみのった稲だ

もういゝ加減区劃りをつけてはねおりて

鳥が渡りをはじめるまで

ぐっすり睡るとしたらどうだ

 

宮沢賢治

春と修羅 第二集」所収

1924

虫が鳴いてる

いま ないてをかなければ

もう駄目だといふふうに鳴いてる

しぜんと

涙をさそはれる

 

八木重吉

貧しき信徒」所収

1928

二月の街

春よ春、

街に来てゐる春よ春、

横顔さへもなぜ見せぬ。

 

春よ春、

うす衣すらもはおらずに

二月の肌を惜しむのか。

 

早く注せ、

あの大川に紫を、

其処の並木にうすべにを。

 

春よ春、

そなたの肌のぬくもりを

微風として軒に置け。

 

その手には

屹度、蜜の香、薔薇の夢、

乳のやうなる雨の糸。

 

想ふさへ

好しや、そなたの贈り物、

そして恋する赤い時。

 

春よ春、

おお、横顔をちらと見た。

緑の雪が散りかかる。

 

与謝野晶子

晶子詩篇全集」所収

1929