ぼくの帽子

── 母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?

ええ、夏碓井から霧積へ行くみちで、

渓谷へ落としたあの麦稈帽子ですよ。

── 母さん、あれは好きな帽子でしたよ。

僕はあのとき、ずいぶんくやしかった。

だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

── 母さん、あのとき、向うから若い薬売が来ましたっけね。

紺の脚絆に手甲をした─── 。

そして拾はうとしてずいぶん骨折ってくれましたっけね。

だけどとうとう駄目だった。

なにしろ深い渓谷で、それに草が

背丈ぐらい伸びていたんてすもの。

── 母さん、本当にあの帽子どうなったでせう?

そのとき傍に咲いていた車百合の花は、

もうとうに枯れちゃつたでせうね。そして、

秋には、灰色の霧があの丘をこめ、

あの帽子の下で毎晩きりぎりすが鳴いたかも知れませんよ。

── 母さん、そして、きっと今頃は、── 今夜あたりは、

あの渓間に、静かに雪が降りつもっているでせう。

昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、

その裏に僕が書いた

Y・Sという頭叉字を

埋めるように、静かに、寂しく── 。

 

西条八十

少年詩集」所収

1929

One comment on “ぼくの帽子

  1. 目がうるうるとしてしまう、角川映画の『人間の証明』のテレビ・コマーシャルに冒頭が使われていた詩ですね。なんとも言えない、哀愁のある詩ですね。こんな詩を、ぼくも書いたことがあったかなと思われました。いくつか書いたような気はしますが、自分では、この詩ほど優れているとは思えません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください