ただ歩く。手に何ももたない。急がない。気に入った
曲り角がきたら、すっと曲がる。曲り角を曲ると、道の
さきの風景がくるりと変わる。くねくねとつづいてゆく
細い道もあれば、おもいがけない下り坂で膝がわらいだ
すこともある。広い道にでると、空が遠くからゆっくり
とこちらにひろがってくる。どの道も、一つ一つの道が、
それぞれにちがう。
街にかくされた、みえないあみだ籤の折り目をするす
るとひろげてゆくように、曲り角をいくつも曲がって、
どこかへゆくためにでなく、歩くことをたのしむために
街を歩く。とても簡単なことだ。とても簡単なようなの
だが、そうだろうか。どこかへ何かをしにゆくことはで
きても、歩くことをたのしむために歩くこと。それがな
かなかにできない。この世でいちばん難しいのは、いち
ばん簡単なこと。
長田弘
「深呼吸の必要」所収
1984