Category archives: 2010 ─ 2018 (Current)

はじまりはひとつのことば

それは「ぼく」だったかもしれない
それは「そら」だったかもしれない
「あした」だったかもしれない
ひかりがはじけ あたりにとびちって

ひとつのことばのたねのなかには
きがもりがまちがひそんでいた
ひとつのことばのたねのなかで
ものがたりがはじまりをまっていた

どろだらけのしゃつ
ぬりえのかいじゅう
おとうさんのおさけくさいくしゃみ
おかあさんのおろおろ
あさやけとゆうやけをくりかえし
やがてぼくはおおきなふねをつくるだろう
さがしあてたいせきのかべをよじのぼるだろう

どんなげんじつもつくりおこせる
いつもはじまりはひとつのことばだから
しずかなゆきのはらにひびきわたる
おおかみのとおぼえのような

覚和歌子
はじまりはひとつのことば」所収
2014

未婚の妹

昨日
ペルシャが死んだ
そういった季節が近づいていると私には分かっていたが、ペルシャは気丈に振る舞っていた。ある日、天鵞絨の鱗が点々と落ちているのをみつけ追いかけてみると、大きな珊瑚礁の裏で、小指だけ腐らせて死んでいた。

焼けた骨の前でたくさんの女たちが列をつくり誰かの対岸であり続けた。砂浜のように広がった骨に無数の鱗が混ざっている。前に並んでいた、背の低い女はそれを一枚つまみあげ、舌で粉をぬぐうと、蛍光灯に透かしてみせた。
「彼の瞳の色と全く同じね」
「はあ」
「私、ペルシャの鱗がずっと欲しかったの。他人の鱗って、なかなか拾えるものじゃないでしょ。自分の鱗なんかはシャワー浴びると排水口にいやというほど溜まってくるけど。でもそれって、彼の瞳が欲しいだけだったのかもしれない」
女は、長い爪をジェルで磨きあげていた。
「あなたが一番はじめにペルシャの死体を見つけたんでしょ」
「そうです」
「私だったら、目玉をひとつ、持って帰る。いや、色のついたところだけ少し削って、あとはそのままにしておく。誰にも気づかれないように」
「目玉以外は、いらないんですか」
「うん。だって私、ペルシャの目玉が炎の熱でぞんざいに燃えてゆくことを思うとどきどきして嬉しくなる。瞳が好きだからって、ペルシャの全部を好きになる必要なんてないじゃない」
女たちは泣くこともなく
淡々と作業を進めていった
やがて、私の番になった
はしで小さな骨をつかみ、
妹がまたそれをつかむ
ペルシャの骨を運ぶ妹のことを
細い糸で絡め取るように女たちは眺めた
それをはねのけるように妹は、
「私がペルシャのかわりをしなきゃいけないってことでしょ」
と言う
大きい骨を納め終わると
どこからかぬるい女がやってきて
ホームセンターで売っているような
灰色のちりとりで粉まで壷に収めた
(シーシーシー)
(鱗が骨にぶつかる音)

妹はすべてわかっていたようだった
妹は私より二週間も遅く生まれたが、気がつけばペルシャの次に身体が大きかった。
それでも私は、妹は、ずっと、妹であるものと思い込んでいた。
「お姉ちゃん、不安なの」
「いや」
「わかるよ。ペルシャって、みんなからばかにされていたものね。みんなペルシャのこと、大好きだったのに。でも大好きだったからばかにするんだよ、怖いし悲しいから」
「おまえはばかにされないよ」
「いや。お姉ちゃんは私のこと、怖くなるんだわ」
妹は妙に疑り深いところがあった
そのくせすぐあきらめたような
哀しい受容のしかたをする
「ペルシャにね、一度だけ家に招待されたことがある。そこで、いろいろ話したの。今の身体になる前の話とか。帰り際、指で剥きたてのざくろをねじこまれた。唇がつぶれて、赤く腫れたよ。その時から、もうずっと、今日のことばっかり考えてた」
「知らなかった」
そう答えると
何かを思い出そうとして唇に触れた
「私たちのパパも、昔は女だったんだわ」

妹は私のとなりで初潮をむかえた
その訪れさえも
妹は知っているように思えた
「赤いかな」
「わからない、暗いから」
「ああ。朝が来るのがこわくなった」
妹の鱗が息するように蠢いた
「私、青い血が流れている生き物をしっている。みんな子どもを残さないの、闇から生まれて、闇に還るから。私もそうだったらいいのにってずっと願ってた。青いといいな」
妹は水浴びをしに布団を抜け出す
シーツを洗ってやる
(しかし
私のからだの
まっくらなところを流れているその血は
果たして
赤い色をしているのだろうか)

家に帰ると、妹は荷物の整理をはじめた
「無くなっちゃうんだね」
「何が」
「子宮とか」
「・・・・そうだね」
「とっておくことってできないかな」
「腹を切るってこと」
「そうじゃなくて」
もどかしそうな顔をする
「ペルシャはすっかり、子宮のことなんて忘れてしまっていた。だってペルシャが働かなければ私たちは殖えてゆかないから。でも私、きっと男になっても忘れないわ。なにもかも、全部忘れない。悲しいことも全部。それにペルシャの子宮、焼け残ってた。残ってたの」
「そう」
妹は葬式の後に何を言うか
ずっと前から考えていたのだろう
「私が燃えるまで、あなた死んだらだめだからね。見てよ、確かめて」
(だからそれまでお姉ちゃんの子宮二人で大事にしよう。私はずっとあなたの妹でいたいだけだから)

久しぶりに布団を並べて二人で寝た
妹は私の布団にもぐりこむと
私の腹に両腕をまわし
ぴったりと背中に額をつけて言った
「お姉ちゃん約束して」
「なに」
「朝が来るまで、振り向いちゃだめよ」
「うん」
「でもずっとそこにはいて」
「わかった」
ペルシャのこどもはペルシャの鱗の数よりも多く今も街中にあふれてゆき、私はどんどん小さくなる、瞼をおろせば私は橋の上に立っている、妹の名前を呼ぶ、私は妹がざくろを食べたことを知っていたような気がした。夢で見たのだ、その時は私が食べさせた、鶴が、琴を持った男が、思い出が、妹の子宮が、河を流れてゆく

私のとなりで
女がうまれて女が死んで
男がしんで男が産まれて
妹がうまれて妹が死んで
弟がしんで弟が産まれて
私がうまれて
私だけがうまれ続けて

水沢なお
現代詩手帖2016年1月号初出
2016

乳の流れる歌

「雌ラクダをなだめる習慣」、ユネスコ無形文化遺産に登録
11月30日~12月4日にかけて、ナミビアのウィントフックでユネスコ無形文化遺産保護条約第10回政府間委員会会議が行われた。会議でモンゴルの「雌ラクダをなだめる習慣」が賛成され、緊急に保護する必要がある無形文化遺産に登録された。「雌ラクダをなだめる習慣」とは。子ラクダを拒絶した雌ラクダは、草も食べず水も飲まなくなって、毛並みも悪くなり、群れから離れて一頭で遠くを見て、時々ふり返っては鳴くようになる。そんな時、遊牧民はラクダの母子の心を通わせるための知恵を働かせ、雌ラクダを子ラクダに慣らすため叙情歌を歌うのである。リンベ(横笛)やモリンホール(馬頭琴)の伴奏で特別な歌を歌うと、母子が感動し心を通わせるようになる。この歌の内容は、栄養たっぷりの乳を飲むために生まれてきた可愛い子ラクダを、どうして拒絶するのか。朝起きると唇をぴくぴくさせて待っている。どうか濃い乳を飲ませてやって「フース、フース、フース」、「フース、フース、フース」などと、3、4番まで歌うと、雌ラクダの目から涙がこぼれて子ラクダに乳をやるようになるのである。(FBモンゴル通信より)

「どうか濃い乳を飲ませてやって」「フース、フース、フース」と
3、4番まで歌うと

母ラクダの目から涙がこぼれ、子ラクダに乳をやるのである

育児放棄したラクダの母と子に
こころ通わせるために、歌われる叙情歌

ホー、ソーソー、ソーソーソー(わたしにはそのように聞こえる)
だがしかし・・・

はじめて
乳が出るときのズキンとした痛みをわたしの胸は
覚えている

あのラクダの母親の涙は
母と子のこころが通った、涙ではない。

あれは自分のからだの中の血が、乳に変わるときの
痛みに、こぼれた涙だ。

閉ざされた自分が
開こうとする自分の未知の力に、敗れたときに疾る・・・痛み
それは、

ちのみごがいて
ちのははがいる

ホー、ソー、ソー、ソーソーソー、
見よ。
わたしたちのからだもまた
血が流れる、
戦場なのだ。

怒りがあり、憎しみがあり
決壊を待つ、沸騰がある。
ちのみごがいて
ちのははがいる

ホー、ソー、ソー、ソーソーソー、
血を流すのではない
わたしを敵に明け渡すのではなく
わたしをわたしに明け渡す
つぎの命を育てる
乳を流す

赤い血が、赤味を漉して、白い乳に変容したときの
身の内にも戦いがある

血と血の、戦いを戦うな
血を流す人と人の、血を流す国と国の
こころ通わせるために、歌も言葉もあるのだと

ホー、ソー、ソー、ソーソーソー、
傷口から噴き出す
怒りの血を
傷口にあてがわれた唇に
ホー、ソー、ソー、ソーソーソー、
注いで憎しみを育てるわけにはいかないと
血はみずからに敗れて
血を乳に変えるために。

血は泣くのだ、赤いまま流れることをこらえて
父母が流した血と
赤い同じ血を、血は流れたくて

血は泣くのだ、まだ終わっていない、怒りを
まだ終わっていない、悲しみを

血は泣くのだ
こどものように、痛くてなくのだ
母になる前に

ちは
なみだをこぼして
ちちになる

険しい峠をこえるように
じぶんの赤さをこえて
母になるために

ゆるせないものを
ゆるすために

ちを
いのちにかえるために

血はいちど
あまりのいたみに
その目に
涙をこぼすのだ

白い
乳になるまえに

しを
いのちにかえるために

血の流れる歌から
乳の流れる歌になるために

ホー、ソー、ソー、ソーソーソー
ホー、ソー、ソー、ソーソーソー

宮尾節子
晴れときどき」宮尾節子ブログより転載
2016

夏の一日

眺めのいい喫茶店で本を読んでいたら
後ろからクリームあんみつって聞こえてきた
タバコを取りだし文庫をテーブルの上におく
アイスコーヒーは氷がとけてきて二つの層になっている
濃い色の時間の経過と透明なほうの時間の積み重ねと
葉っぱをくわえて白線の横断歩道を移動するオランウータン
歩行する杖がコツッコツッ 突けば魚にも化け獣にも変身する
夏の帽子はちくちくする草で編まれていて
水に浮かぶ これから飲む水の音とにおいと
店内の壁や棚はウロコで埋めつくされていた
クリームあんみつのテーブルにお待たせしましたと男がやってきて
大きな声でしゃべりませんので
聞こえなかったらいってくださいといった
とぎれとぎれの消失がおとずれる聞こえなかったらしい
浮遊する耳の溝の痕跡を徘徊する
時計の針がひっかかったまま
聞こえなかったらしい語尾から辿る ウロコの重なり
唇を通して出てくるのは
可愛さまさる猿を演じる顎のそばのよだれ
夏の夕暮れ
自転車にのった

駅の北口から南口は砂丘になっている
前を走る一輪車の体が揺れて笑い声がたちのぼる
追って笑う まねして笑う 顔を汗が滝のようにながれ落ちる
笑うから風紋ができて 足はのめって膝をおっていっぺんで腹這いになった
頂上でつぎつぎ消えていく人の体は
死に投げだされ帰ってくる下りの砂を
ステテコ姿のおじいさんが向こうからやってきて
手をあげなさい そうじゃないと行ってしまうからここらのバスは
笑いながらバスに乗っておじいさんに手をふった
眺めのいい分かちがたい白日のもとにまた
腕が折れるほど 礼を言いたかった
汗はここでも落ちる恥ずかしいほどに落ちて
自分の住所を書いているメモ用紙にも落ちた
醤油屋の店主は すまなそうに なにも飲むものがなくてといった
醤油が並んでいる ぽん酢も並んでいる
利き酒日本一になったときの記念の巨大なガラスの器
酒飲むか 酒飲むからうまい酒おしえろ
駅前の足湯で両足をぶらつかせ
展望風呂まで突っ走った
きのう飲んだ酒は強力
きょう飲む酒は李白
見えない音の梢
顔近く ぎゃっと
木の皮に噛みつく

筏丸けいこ
現代詩手帖2012年6月号初出
2012

ニセモノガエリ

ソラノオト
からかみつづりの夏至線を
たどるは はかなき相剋花

マダ トオカラズ タダ カゲナラズ
マダ ミエモセズ デモ ホカナラズ

にせもの カタリが 流行します
にせもの マイリが 通行します
にせものにもにたはかなきとしを
としととしとをかたむすびします

マダ ミツカラズ イマ ダケニミツ
シニ ユクモノハ タダ ココニアリ

ゆきさきつげぬはなみちを
びんらんしゃんとはこびます
こえをひそめてさけぶこどもら
あっさくきかいのながいかげから
とびだすひとかげ すぐさらいます

タダ タダチニテ デモ イマカギリ
ツキ ミチヅトモ イマ ダケニスム

ご先祖がえりのふりをした 偽物がえりがはやります
廃らぬものは いつまでも らんらん花を鳴らします
目的地に棲む円環草が ほとりほとりと落ちゆく地点

にせもの カタリが 連行します
にせもの マイリを 押収します
にせものにもにたひとがたりびとを
かるだけのひとも ひとではなくて

ゆきつくさきはタダココダケデ
かえるゆくさきタダココダケデ

偽物がえりの葬列が
はきだす通貨に たかるひとかた
むれるひとびと ゆびさすひとの
うしろのはんぶんあとかたもなく
ひとかたりびとが壊死するゆうべ
ひとひとでなく ときときでなく

カラノオト
にせものつづりの瑕疵線を
たどるは はかなき相剋の、途

水無田気流
現代詩手帖2012年6月号初出
2012

I CARE BECAUSE YOU DO

I――私は東京生まれ。相撲取りに囲まれて育つ。祖父の周りには何人もの男たちや女たちがいた。国技館には行ったことがない。――――私は九州生まれ。十八歳で家を出る。住みつづけるために働いた。電子部品のことならどんな質問にも答えられる。――――私は自分の生年月日を知らない。生まれ月を問われてはいつも右手を挙げた。――――私はいま、札幌に住んでいる。来年は、どこにいるかわからない。――――私の兄は私が生まれる前に死んだ。私の名前は兄の名前と同じ。――――私には十一歳の娘がいる。もう手をつないで歩くことはない。――――私はここまででだいたい四六〇メートル。一歳の誕生日を迎えた。――――――CARE――服や、本や、手紙や、アルバムや、食べかけのパンをゴミ袋に入れる。ときどきマンガを読む。風鈴を片付け忘れている。――――走っていって深夜バスに乗る。それからバスで帰る。新幹線を見たことはない。眠らないようにガムを噛む。――――名前を訊ねる。名前をノートに書く。その名前を覚えておく。――――積み上げた書籍、レコード、衣類、書類を分類する。決められた場所に置く。――――真夜中に開いている。明りがつき、電気ポットがうなる。ベランダの煙が風の中に消える。――――できるだけたくさん嘘をつく。新しい名前を常に用意しておく。――――昼休みには部屋に戻る。鍵は閉めずに、ドアを少しだけ開けておく。ちょうど猫が通れるくらいの隙間をつくる。――――――BECAUSE――雨が降り、電車が止まる。風が吹き、傘が壊れる。靴紐はほどけ、うずくまる人の肩を叩く。―――二〇〇九年の春。初めて会った。動物のような顔をして立っていた。――――マクドナルドは二十四時間営業を始めた。一〇〇円のホットコーヒーは値上がりした。――――二十七年間住んだ家は今月いっぱいで取り壊される。父は泣いている。騒ぎすぎると冷める。早くなくなってしまえばいい。――――二年前、母は手術をした。深夜に山道を歩き、地蔵巡りをした。両手に大きな荷物を抱え、階段を降りた。――――ガレージの中の図書室にこどもがいる。こどものための本を借りて帰る。ひざに手をあてて注意書きを読む。――――口約束をした。一方は三日後に忘れ、もう一方は三年間覚えていた。――――――YOU――あなたは千葉に住むだろう。ジャスコが好き。潮干狩りが好き。週末には新しいベッドを買う。――――あなたは笑っている。笑ってそれを差し出す。――――あなたは東京にいる。それから名古屋にいる。東の果てにいる。遠くへ行きたいとは思わないし、遠くへ行くことはできない。――――あなたはドアの前にいる。聞き耳を立ててラジオから流れる声を聴く。ゆっくり六十秒数えてノックする。――――あなたは歌う。どこかにいる誰か、顔を見たこともない、名前もよく知らない、その人の誕生日を祝う。おめでとう。おめでとう。おめでとう。ありがとう。――――あなたは眠っている。畳の上で眠っていて目覚めない。寝言をつぶやくが、その言葉がなんなのか聞き取れない。――――あなたは叩く。内側から手を振って、招き入れる。ノートパソコンの電源は落ちていて、指先は蛇口をひねり、水が流れる。――――――DO――ハッピーセットを一つ。小さなポテトを分け合う。ハンバーガー、コーラ。人形の腕を折って渡す。――――新しい電話を買った。これが新しいアドレスだ。これが新しい電話番号だ。――――装置が使用された形跡を確かめる。もう一度記録をとる。誤差を修正する。――――叩く。ジャンプする。天井から床までの距離を測る。ひざに手をあてて揺れているのを感じる。――――一九九八年。自分で書いた言葉だけを読む。――――シール紙に宛名を印刷する。黄色い封筒に貼る。束にして袋につめる。交差点を三度曲がる。――――呪いをかける。それから指の数を数える。――――――I CARE――私はからだを傾けずに硬いイスで眠る術を身につける。死角となる位置を確保し、夜が明けるのを待つ。――――私は実験室にガスとインターネットをひく。本棚を積み上げ、そこが仕切りになる。六畳のスペースは二つに区切られる。――――私は打ち込んだ文字を何度も消す。電池が切れ、充電器を探すのをあきらめる。――――私は私の言葉をすべて嘘にする。そうすることで少なくとも一つは本当のことを言っていることになると思う。そして契約書にサインする。――――私は慎重に約束の時間に遅れる。――――二〇〇一年。私は机の引き出しを開け、ガラスの破片を部屋から部屋へと運んだ。――――私はいつもここにいる。改札を出て左、突き当りを右、階段を上る、居酒屋の横の細い通路、線路沿いの道、果物畑、踏切を左、交差点を右、坂道に停車するクレーン車、左、ガレージの中の猫、階段を踏む音が響く、二〇五、二〇三、二〇二、二〇一。――――――YOU DO――あなたはダイヤルを右に回し、次に左に回し、郵便受けを開ける。水道代の明細を見つけ、振り込む。――――戦車。あなたはそれに乗って走る。外国へ行く。――――あなたはテーブルにコーヒーを置き、名前を覚えているかどうかを問いかける。試している。――――あなたはドアをノックし、世界に終わりがあればいいと思っている。――――あなたは交番の前に細長いからだで立っている。――――あなたは叩く。裁断する。ダンボールを組み立て、ガムテープで閉じる。画鋲を刺す。一九九七年のCDプレーヤー。音楽をかける。――――あなたは財布から一万円札を四枚取り出し、マグカップの下に挟んで置いていく。――――――I CARE BECAUSE――私は毎日二種類の鍵を回す。一度目は右に。二度目は左に。――――私は週に三日、一日につき六時間の労働をする。期限の日付に赤いボールペンで印をつける。――――私は舞台裏の覗き穴からオーディエンスのからだによってひとつひとつ客席が埋められていくのを見ている。――――私は十三時まで居室にいる。連絡を待っている。現れるのを待っている。――――私はカタカナで十七文字の名前の会社に就職する。実家までの距離を正確に調べる。――――私はエアコンの力で暖かくなる。煙探知機に吊るされた紙飛行機は細やかに揺れる。三つのハンドルが回転し、床が文字に覆われる。――――私は十桁の数字と名前とが大きな文字で書かれた紙を丁寧に折りたたみ、バッグの奥へそっとしまう。――――――BECAUSE YOU DO――二〇一〇年十二月十二日。あなたはコートを着て立ち上がり、荷物を抱え、マクドナルドの店内を走っていく。――――あなたはトランプの裏側につけた傷をすべて覚えている。絶対に負けないようにルールをつくりかえつづける。――――あなたは片道二時間、千五百十円の車内で三十通のメールを送受信する。――――あなたは誰にも言えないことをする。接着された部分を一枚一枚分離し、ハサミで細く切り裂く。一本の糸のようなものができあがる。――――あなたは片時もテレビ画面から目を離さない。点滅する砂粒が網膜から頭脳へと侵入する。――――あなたは家に帰る。何が間違っていて何が正しかったかを並べ立てて確認する。説明する。納得させる。――――あなたは家に帰る。自動ドアが開き、閉じる。後姿が小さくなる。――――――I CARE BECAUSE YOU DO――私はあなたに鍵を返せと何度も言いたかった。――――あなたは常に勝利するから、私は正しく負ける方法について考える。――――あなたのせいで私は理性的である。――――一九九五年。私の顔は笑っている。――――私はいつでもあなたを待っている。――――あなたが笑うので、私も笑う。――――私とあなたは再会する。――

山田亮太
「モーニング・ツー」初出
2011

星をさがして

 こころのこもったお見舞いの手紙をありがとう。とてもうれしく拝読しました。とつぜんの心因性難聴から耳が聴こえなくなってしまって五日が経ちます。外界の物音から肉体が切りはなされているときは、恐ろしさと、安らぎの、どちらにもほどけない感覚があります。五感が絹糸にくるまれてしまって、繭の内壁の白い記憶をいつまでも見ているよう。この音のない国にもすこしずつ慣れてきたところです。病室の窓ガラスから裏門に目をやると、ポプラの木が三本、風にそよいで気もちを鎮めてくれます。反対に、アオミドロで汚れている泉水にぼとっぼとっと重たく降りかかる音のない雨のしずくは、この古い渋谷K病院、街中の病院の一隅に隔離されている自分の境遇が思い知らされて、なんだか視界がぼんやりしてしまうのです。
 耳の病は「耳管水晶結石症」というのだそうです。この不可思議な響きの病名は、蝸牛よりも下側、耳の管に幻の石がつまる錯聴に由来するのだとか。とはいえ、若い担当医によれば、ほどなく退院できるとの由。治療は投薬が主でアデホスコーワを、間隔をおいて注射してもらいます。この薬が耳のなかで生まれた、こころの結晶体を溶かすというのだから、可笑しい。注射をうった日は、とりわけ誰かが廊下にじっとひそんでいるような、音ともつかない音が耳の奥底を谺しながら流れている。耳鳴りとまではいえないものの、奇妙な気配が頭の芯からはなれていかないのです。

 1 音のない国について

 音のない国、などど書いてしまいました。実際、一時的であれ、音をもたない者になったことで、ぼくは自分自身が外国人にでもなってしまった気分です。看護婦さんのさわやかな微笑もボードでの筆談も、なんだかとても遠い。そこにはいつも目に見えない架空の国の閾がある気がします。病室には、難聴を患うふたりの患者さんがいます。言葉をかわすこともできなければ、耳も聴こえない者同士が空間と暮らしをわかちあうのですから、なんとも奇妙なおつきあいです。それでも夜には隣のベッドから寝息が聴こえてくる錯覚があります。看護婦さんいわく皮膚が人間の気配を敏感に察知しているのだとか。そう、この国では幽し気配こそが国語です。ふと頬を撫ぜる風。カーテンの透き間から忍びこむ銀の月暈。夕方の電柱の五線譜に一列にならぶ鳥たちは音の実。窓際で、紙コップのしめった香りのする珈琲を鼻先にもってくると、雨に濡れたり、西日に照らされている家並みの底から、潮騒やら群青色に波打つ海原やらが炙りでてくる。この国でぼくは、自分の身辺にみちあふれているさまざまな声のない気配に気づきます。
 だから、きみの手書きの文字からは、きみの肉声が聴こえてくる、といったら嗤うでしょうか。お医者さんがいうには音は鼓膜における空気の振動、物質的な刺激だけでなく、人間の記憶に依存している部分がおおきいそうです。リーン、という音が聴こえると同時に、人間は無意識のうちに「ベル」を想起している、ということですね。ラヴェルではないですが、人間はなにかを聴く瞬間、なにかを思いだしている。よって記憶のストックがそれほどない生まれたての赤ちゃんは、耳もよく聴こえないそうです。ぼくの大人の耳は赤ちゃん以下というわけ。
 頭のなかにはいつも無音が響いているのかといえば、そうでもありません。人によってちがうそうですが、ぼくの耳のなかにはたえずシューッ、シューッ、パチ、パチという幻聴があります。ハイランド地方で聴いた、オーロラのたてる音に似ているかしら。耳のなかで夜が燃えているような。人間の脳と精神はまったくの無音には耐えられない、耳が記憶の力をかりて擬似的な音の世界をつくりだしているのだそうです。
 便宜的にオーロラの音と比較しましたが、ぼくにはこの音がどんな音か、正確にはわからない。否。いまの話でいうと、思いだせないのです。ぼくを狂気から守ってくれている記憶そのものの音。その純粋な記憶を、ぼくは思い出すことができない。自分自身の記憶の声をいつか聴くことができるでしょうか。ぼくの体内で、孤児のままでいる記憶を。

 2 星をさがして

 そういえば、昨日、同室のYさんのお孫さんが見舞いにきて、すばらしい影絵を披露してくれました。それは赤や黄や青のセロファンとボール紙、かぼそい竹棒とでつくった鳥や花や星や人間や魔物たち。ぼくらも子どものころに工作した、棒で嘴や手足を動かすあれです。物語は「シンドバッド」のようでした。ハトロン紙でスクリーンをつくり、うしろから電燈をあてて影絵を動かす。すると、ハトロン紙から色が透けて見えてすごくきれいです。3Dテレビの時代に、こんな単純な劇と仕掛けにあらためておどろかされて、その美しさに気づけたのは、健聴をくずしたせいもあるでしょう。声を発しない物静かな影たちは、ぼくの耳のなかの幼年からも踊りでて、音をなくしたこころにやさしく寄り添い、元気づけてくれたのです。
 その夜はひさしぶりにぐっすり眠れ、ふしぎな夢を見ました。音にはうえへと上昇する性質があるそうですね。夢のなかでは、ぼくには聴こえない街の物音がアスファルトから羽毛みたくどんどん沸きおこって、夜空にのぼってゆく。
 それからひとつひとつの音は、音楽の起源を、天の薄機にひろげたのでした。

石田瑞穂
耳の笹舟」所収
2015

一八〇秒

男/
男・シャツ/
男・白シャツ・革靴/
男・三五歳・白シャツ・皺・ネクタイ・革靴・艶のない/男・三五歳・前髪・白シャツ・皺・ネクタイ・細縞・革靴・艶のない・鞄/走る・男・三五歳・刺さる・前髪・ながく・まがる・襟・白シャツ・細かい・皺・ゆるむ・ネクタイ・細縞・革靴・艶のない・すりへった・踵・ゆれる・鞄/全速力で・走る・男・三五歳・しみる・汗・刺さる・前髪・眼に・ながく・まがる・黄ばんだ・襟・白シャツ・細かい・皺・ボタン・上から三番目・のびた・糸・先端・ゆるむ・ネクタイ・細縞・取り出す・箱・クロゼット・底で・舗道・蹴る・革靴・艶のない・すりへった・上がる・踵・小石・着地・ゆれる・黒鞄・ひらく/ふられる・腕・赤・点滅・踏み切り・横棒・全速力で・走る・男・三五歳・痛む・背中・しみる・汗・切らない・前髪・刺さる・眼に・ながく・歪んだ・まがる・黄ばんだ・かすかに・襟・白シャツ・細かい・皺・上から三番目・のびた・糸・先端・切れた・落ちる・砕ける・ボタン・ゆるむ・ネクタイ・細縞・取り出す・箱・クリスマスの・去年・クロゼット・底で・別れた・怒りの・舗道・蹴る・革靴・艶のない・すりへった・爪先・震え・ふくらはぎ・上がる・踵・小石・飛び散る・着地・飛び立つ・カラス・ゆれる・黒鞄・ひらく・ころがる・雨傘/食い込む・ストラップ・のばす・ふられる・腕・めくれる・袖・鳴る・点滅・警報・うなり・踏み切り・横棒・降りる・全速力で・走る・男・三五歳・痛む・背中・しみる・汗・切らない・前髪・刺さる・眼に・ながく・想起の・出勤登録・人事の課長・苦情・歪んだ・まがる・黄ばんだ・かすかに・襟・アイロン・所在不明の・押入れ・崩壊した・白シャツ・細かい・皺・上から三番目・のびた・糸・ほころぶ・先端・切れた・落ちる・砕ける・プラスチック・靴の底・ボタン・ふられる・首・息つぎ・ゆるむ・ネクタイ・細縞・取り出す・箱・リボン・青い・クリスマスの・去年・クロゼット・底で・別れた・後悔・怒りの・舗道・蹴る・革靴・艶のない・すりへった・だるい・つまさき・震え・ふくらはぎ・上がる・踵・小石・飛び散る・着地・飛び立つ・カラス・ゆれる・黒鞄・ひらく・ころがる・雨傘/めくれる・袖・点滅・警報・踏み切り・降りる・全速力で・走る・男・三五歳・階段・のぼる・痛む・汗・刺さる・ながく・想起の・苦情・崩壊した・白シャツ・ほころぶ・先端・砕ける・ふられる・息つぎ・ネクタイ・リボン・クリスマスの・別れた・後悔・怒りの・革靴・すりへった・つまさき・震え・ころがる・小石/改札・猫たちの・好奇心の/
一八〇秒/
ドアまでの・閉じていく・距離・朝の/発車する

河野聡子
ToltaのWebサイトより転載
2012

ペットボトル

ほら、ひたいにあてると まだ
すごくつめたい
片腕でからだをもちあげて
おきあがった
背の高い少年、ふみこむこちらを うかがう
まなざし
それならぼくもわかる
ペットボトルにすっと目がいって
ふきだす汗に目をつむる
その一瞬

ぼくらのなかのみずがゆれる
コロラドのモーテルの
あの青いプール
排水溝へとつづく砂のながれも
みずをほしがっていた

アスファルトに手をついて
にじんだ赤い血
それとおなじ赤い血によごれて まったく
べつのひとからうまれる
からだ
全身でみずをほしがるそのからだが
だれよりも腰をおとし
親指の骨で
スケートボードをふみあげる
その一瞬、はるかな
道路がみえる

ふいにぼくは
ここにいないやつのことを
ここにいないからこそ書かなくてはとおもう
さっきまで
肩をぶつけあってたやつらを
背のたかい少年は
ひかりのぐあいでみうしなって
つばをのむ
広大な駐車場をすべりきり
それでも まだ、ひとりなら
たぶん
股間をたしかめる
その一瞬の ふかい青空

ぼくはなにもいうことがない
ひろがりに
ひとはきえていくのに
ひろがるそれをまえにすると
なぜことばがうしなわれてしまうのか
砂ぼこりをしずめるのではない
ただ、むねをひく
雨のにおいがした

肩をうつ
一滴、二滴のことば
それではまったくいいたりぬものを
よけるまもなく、うまれてからこれまで
どしゃぶりにこぼされてしまって
それが、ずっと
過去のほうから
キングストリートをけとばしながら
この一帯を黒くぬらしていく
少年を、少年の母を、さきにかえったやつらを
ぼくのからだを はげしく
ぬらしていく
おもたくへばりつくズボン
なにかがとどく
ちいさな封筒のマーク 木下くん
そんなきがしてかるくふれる
と、おおきな彼の写真
パタゴニアのダイレクトメールだった
ばかみたいな青空
急になまいきに見えた 少年の目
おもいだす
ものごころがつくまえの
雨粒をかぞえることをやめないこころ
ことばの
雨はすがすがしい
そんなこころを、かるくふるって
のみほしたら
ゆっくりほてりが ひいていく

そしてまた、すごい汗だ

岡本啓
グラフィティ」所収
2014

「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」より(2)

記憶ノ海ノソノ底デ
アナタガドンナニ忘レテモ
アノ日ノアナタヲ照ラシテル
アナタヲココマデツレテキタ
クジラノ目ヲシテミマモッタ
クラゲノテトテデツナガッタ
ドンナニ遠ク離レテモ
カレガ消エ
イツカアナタガ潰エテモ
アノヒノアナタヲ照ラシテル
イマコノトキモ
照ラシツヅケル
見エナイ灯リ
消セナイ灯リ

カニエ・ナハ
「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」所収
2015