Category archives: Chronology

大脳は厨房である

眼球は日光を厭ふ故に

瞼の鎧戸をひたとおろし

頭蓋の中へ引き退く。

 

大脳の小区画を填めるものは

困憊したさまざまの食品である。

青かびに被はれたパンの缺け、

切り口の饐えたソオセエジ……

オリーヴ油はまださらさらと透明らしいが

瓶一面の埃のために

よくは見えない。

 

眼球は醜い料理女である。

厨房の中はうす暗い。

彼女は床のまん中で

少しばかりの獣脂を焚く。

背の低い焔が立つて

油煙がそつと 頭蓋の天井に附く。

 

彼女は大脳の棚の下をそゝくさとゆきゝして

幾品かの食品をとりおろす。

さて 片隅の大鍋をとつて

もの倦げに黄いろな焔の上にかける……

 

彼女はこの退屈な文火の上で

誰のためにあやしげな煮込みをつくらうといふのか。

彼女は知らない。

けれども、それが彼女の退屈な

しかし唯一の仕事である。

 

大脳はうす暗い。

頭蓋は燻つてゐる。

彼女は――眼球は愚かなのである。

 

富永太郎

富永太郎詩集」所収

1925

十五の春

十五の春は

昨日の夢

 

もう十六の

春が来た

 

十六の 春も

昨日の夢とすぎ

 

また十七の

春が来る

 

野口雨情

沙上の夢」所収

1923

青い吹雪がふかうとも

おまへのそばに あをい吹雪がふかうとも

おまへの足は ひかりのやうにきらめく。

わたしの眼にしみいるかげは

二月のかぜのなかに実をむすび、

生涯のをかのうへに いきながらのこゑをうつす。

そのこゑのさりゆくかたは

そのこゑのさりゆくかたは、

ただしろく いのりのなかにしづむ。

 

大手拓次

藍色の蟇」所収

1912

われらぞやがて泯ぶべき

われらぞやがて泯ぶべき

そは身うちやみ あるは身弱く

また 頑きことになれざりければなり

さあらば 友よ

誰か未来にこを償え

いまこをあざけりさげすむとも

われは泯ぶるその日まで

たゞその日まで

鳥のごとくに歌はん哉

鳥のごとくに歌はんかな

身弱きもの

意久地なきもの

あるひはすでに傷つけるもの

そのひとなべて

こゝに集へ

われらともに歌ひて泯びなんを

 

宮沢賢治

補遺詩篇」所収

1933

境界の向こう

あの丘の上に登れば

何かが見えてくるような気がしている

 

ただ思考を記録するのだった

いつかくる明日の為に

ああ ああ 拍動

 

そして雲は流れていった

飛ぶように風

 

私の時は未だ定かでない

エピジェネティックなスティグマ

我々の影

消えない悲しみを持った人は

冬の星座のようだ

 

(いつまで考え続けるの?)

(もちろん、死ぬまで)

 

時を辿る風の眼

その向こうに何かが見えるまで

足元のシロツメクサの緑が風にそよぎ

わたしはそれを詩だと思う

それは或いは数学かもしれないのだが

どうやら理論値という言葉にも

詩はあるようだ

 

我々は限りなく違いを有していて

それこそが希望で有り得るのだろう

 

ドアを開くのは

境界を越えてゆくのは

やはり君だから

真実について語ってくれないか

国境など人間が決めたものだからと

この世界には

図式化された二項対立など無いのだと

深く被った麦藁帽子の網目に透ける太陽の光

透明な風に木の葉がさらさらと鳴って

その音ばかり追いかけている

 

宮岡絵美

境界の向こう」所収

2015

夏の逝く日の風に乗り

さあ明日は出発だ

そこらあたりからしのび倚つて来る風よ

赤蜻蛉よ待つておくれ まつてくれ。

 

吾が部屋の 故郷のデッサンを 一枚 一枚 壁

からおろすのだから

旅立ちの日 心の重くならぬやう

小さなピンでもちくりとさせば痛いのだから。

 

一枚 一枚 ゆつくり眺めたいのと

つくつく法師のせはしい時と。

 

棕梠の木の繁りのなかから

蝉がしぐれて遠く近くに

日々の花火は鮮やかに散つた。

 

ふるさとのひとなつは 午睡のなかに

迷ひ込み

遊び道化てお芝居ばかり打つてゐた。

 

とある日の真昼時

白い窓から ほゝゑみかけて来たひとがある。

ハーモニカを吹いて呉れた。

花弁の静かな昼顔の花。

 

午睡のなかで

あれは……と尋ねるおまへに ひとゝきのまたと

ない真実を見せて 私よ にごつた笑ひ

のなかで おまへの喜びは悲しいばかり。

 

淡い日の照らす町の涼台で

私よ 遊び道化てお芝居ばかり打つてはゐたが

あのひとの 思ひをこめた心根の美しく

おまへは白銀の針をさゝれて

影のやうに泣いて軒場にきえた。

 

夏草のうたふ山を

鳴く虫も青い庭を

月は夜毎にのぞいて越えた。

 

白い窓に流れてくる青空も 花火の音はらんで

今日はお祭りなのだから

繭売つた百姓達もぞろぞろと来るのだから

少女達も浮かれてゐるのだから。

 

古い街もはずんで 遠い山

山あひの湖の夏草よ おまへは知つてゐる

ひとひ 桔梗夫人の湖に鏡した瞳の色を 岸づた

ひ白いミルはおまへのしとねにはづんでゐた。

昼顔の花よ 小向日葵よ 花々の少女達よ さよなら。

 

笠美波

「夏の逝く日の風に乗り」所収

1944

にわとり

――おかあさん  よう

またあのにわとりが鳴いている

どうききなおしてもやっぱりそうだ

おかあさん  よう  と鳴いているんだ

濁りある  そのくせ遠くひびくこえで  愬えるように鳴くんだ

小雨のふっているらしい真夜中

低い雨だれの音が時々するから

 

いったい  にわとりというものには

人間の魂が封じこまれているのではないか

不幸な  やぶれた翼のような魂が

方々の天の下にこの鳥がいて

応えられることのない愬えの声を張りあげているのだ

おとうさん

というのも方々にいる

いやだなあ

あの絶望的な声の呼び方は

それどころではない

たかはしさあん  というのがたしかにいる

たッかはしさん  という風にいやに「か」にアクセントをつけて呼ぶのだ

この夏一寸葉山へ行ったら葉山にもいるんだ

あの声に呼ばれると  僕はますます痩せこけて

細長くなるような気がする

 

高橋元吉

「耶律」所収

1931

公園の椅子

人氣なき公園の椅子にもたれて

われの思ふことはけふもまた烈しきなり。

いかなれば故郷のひとのわれに辛く

かなしきすももの核を噛まむとするぞ。

遠き越後の山に雪の光りて

麥もまたひとの怒りにふるへをののくか。

われを嘲けりわらふ聲は野山にみち

苦しみの叫びは心臟を破裂せり。

かくばかり

つれなきものへの執着をされ。

ああ生れたる故郷の土を蹈み去れよ。

われは指にするどく研げるナイフをもち

葉櫻のころ

さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。

 

萩原朔太郎

純情小曲集」所収

1925

日比谷

強烈な四角

   鎖と鉄火と術策

   軍隊と貴金と勲章と名誉

高く 高く 高く 高く 高く 高く聳える

 首都中央地点——日比谷

 

屈折した空間

   無限の陥穽と埋没

   新しい智識使役人夫の墓地

高く 高く 高く 高く 高く より高く より高く

 高い建築と建築の暗間

   殺戮と虐使と噛争

 

高く 高く 高く 高く 高く 高く 高く

  動く 動く 動く 動く 動く 動く 動く

日 比 谷

彼は行く——

彼は行く——

   凡てを前方に

彼の手には彼自身の鍵

   虚無な笑い

   刺戟的な貨幣の踊り

彼は行く——

黙々と——墓場——永劫の埋没へ

最後の舞踏と美酒

頂点と焦点

高く 高く 高く 高く 高く 高く 高く聳える尖塔

 

彼は行く 一人!

彼は行く 一人!

日 比 谷

 

萩原恭次郎

死刑宣告」所収

1925

友の家を訪ひたるに、

赤子の尿を漏せしとて、

ランプの火影のなか、

妻なる人は疊を拭くに忙し。

 

早や寝たかと思ひし友の、

起きて居し一室には、

食ふものも散らばりたり。

 

引く人もなき俥の

我れを乗せて何處ともなく、

右左搖れつゝ行けば、

廣き野の隅に出でたり。

 

枯草のなか二たところ

黑きものあると思ひし、

むくむくと動くを見れば、

それはみな數知れぬ鼠にして、

我れを見て逃げもせず……

此時に醒めし我が夢。

 

石井柏亭

1958