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心について

春の野に
かなしいこころを捨てた。
ふりかへると
そこが怪物のやうに
明るくなツてゐる。

岡崎清一郎
1986

少女

 かおをつぶされて死んだ少女に化粧してやると みょうに茫大な原っぱになってしまって おやたちもめがくらんでしまったのか ガランとつったったまま哭くのをやめてしまったのでそこだけつぼみのようにひらいたくちびるをのこして火をつけてみなといってやったのだ

岡安恒武
「湿原 岡安恒武詩集」所収
1971

あまだれのおとは・・・・

あまだれのおとは
とおく ちかく きれぎれな過去のおと
こどものころ
てるさんにつれられてみにいつた
しながわのドックのおと
てるさんがおしえてくれた
あさがほのつぼみを吹いてあそぶおと
ビーだまのおと
りんかのピアノ
らくてんちではじめておぼえた
コルクをぬいてあわをのむおと

いえをでたあの日のざいもくおきば
レインコートにあめのふるおと
それはまたかぎりないあしたを予想して
ひとりゆのみに湯をそそぐおと
あまだれのおと
かんおけにくぎをうつおと
とおく ちかく きれぎれにおちる
うんめいのあしおと

花田英三
「あまだれのおとは・・・・」所収
1954

風船

空に向かって
大きな欠伸をすると、
口の中から
風船がひとつ 飛び出した。
空へずんずん昇るにつれて、
それはしだいに大きく膨れあがっていった。

あの中には
毒瓦斯がいっぱい詰まっていて、
いつ爆発するかわからない。
――そんな噂が街中に拡がっていった

小さな街の
上空を覆う
巨大な風船。
それが朝から夜中まで、
幽霊のようにぶらぶらしている。

この街の人々は
生活に疲れきって、
空に
太陽のあることすら忘れていたのだが、
風船の出現に恐れおののいて
空ばかり見上げている。

何時、
どんな変事が起こるかわからぬので、
街中が
革命以上の大騒ぎとなった
警察は四方八方へ
刑事たちを走らせたが、
肝腎の犯人は何処にも見つからなかった。

――欠伸をした男をみたら 知らせてください。
――その男の人相もできるだけ詳しく。
そんな協力を街の人々に求めたが、
欠伸をしている男が
あまりに多過ぎるので、
どれが真犯人だかわからなかった。

流石の警察も
とうとう音をあげてしまった。

そして今でも
その小さな街の屋根の上を、
風船は
あいかわらずぶらぶらしている。
風の吹くままに、
西に
東に……

壺井繁治
風船」所収
1957

I CARE BECAUSE YOU DO

I――私は東京生まれ。相撲取りに囲まれて育つ。祖父の周りには何人もの男たちや女たちがいた。国技館には行ったことがない。――――私は九州生まれ。十八歳で家を出る。住みつづけるために働いた。電子部品のことならどんな質問にも答えられる。――――私は自分の生年月日を知らない。生まれ月を問われてはいつも右手を挙げた。――――私はいま、札幌に住んでいる。来年は、どこにいるかわからない。――――私の兄は私が生まれる前に死んだ。私の名前は兄の名前と同じ。――――私には十一歳の娘がいる。もう手をつないで歩くことはない。――――私はここまででだいたい四六〇メートル。一歳の誕生日を迎えた。――――――CARE――服や、本や、手紙や、アルバムや、食べかけのパンをゴミ袋に入れる。ときどきマンガを読む。風鈴を片付け忘れている。――――走っていって深夜バスに乗る。それからバスで帰る。新幹線を見たことはない。眠らないようにガムを噛む。――――名前を訊ねる。名前をノートに書く。その名前を覚えておく。――――積み上げた書籍、レコード、衣類、書類を分類する。決められた場所に置く。――――真夜中に開いている。明りがつき、電気ポットがうなる。ベランダの煙が風の中に消える。――――できるだけたくさん嘘をつく。新しい名前を常に用意しておく。――――昼休みには部屋に戻る。鍵は閉めずに、ドアを少しだけ開けておく。ちょうど猫が通れるくらいの隙間をつくる。――――――BECAUSE――雨が降り、電車が止まる。風が吹き、傘が壊れる。靴紐はほどけ、うずくまる人の肩を叩く。―――二〇〇九年の春。初めて会った。動物のような顔をして立っていた。――――マクドナルドは二十四時間営業を始めた。一〇〇円のホットコーヒーは値上がりした。――――二十七年間住んだ家は今月いっぱいで取り壊される。父は泣いている。騒ぎすぎると冷める。早くなくなってしまえばいい。――――二年前、母は手術をした。深夜に山道を歩き、地蔵巡りをした。両手に大きな荷物を抱え、階段を降りた。――――ガレージの中の図書室にこどもがいる。こどものための本を借りて帰る。ひざに手をあてて注意書きを読む。――――口約束をした。一方は三日後に忘れ、もう一方は三年間覚えていた。――――――YOU――あなたは千葉に住むだろう。ジャスコが好き。潮干狩りが好き。週末には新しいベッドを買う。――――あなたは笑っている。笑ってそれを差し出す。――――あなたは東京にいる。それから名古屋にいる。東の果てにいる。遠くへ行きたいとは思わないし、遠くへ行くことはできない。――――あなたはドアの前にいる。聞き耳を立ててラジオから流れる声を聴く。ゆっくり六十秒数えてノックする。――――あなたは歌う。どこかにいる誰か、顔を見たこともない、名前もよく知らない、その人の誕生日を祝う。おめでとう。おめでとう。おめでとう。ありがとう。――――あなたは眠っている。畳の上で眠っていて目覚めない。寝言をつぶやくが、その言葉がなんなのか聞き取れない。――――あなたは叩く。内側から手を振って、招き入れる。ノートパソコンの電源は落ちていて、指先は蛇口をひねり、水が流れる。――――――DO――ハッピーセットを一つ。小さなポテトを分け合う。ハンバーガー、コーラ。人形の腕を折って渡す。――――新しい電話を買った。これが新しいアドレスだ。これが新しい電話番号だ。――――装置が使用された形跡を確かめる。もう一度記録をとる。誤差を修正する。――――叩く。ジャンプする。天井から床までの距離を測る。ひざに手をあてて揺れているのを感じる。――――一九九八年。自分で書いた言葉だけを読む。――――シール紙に宛名を印刷する。黄色い封筒に貼る。束にして袋につめる。交差点を三度曲がる。――――呪いをかける。それから指の数を数える。――――――I CARE――私はからだを傾けずに硬いイスで眠る術を身につける。死角となる位置を確保し、夜が明けるのを待つ。――――私は実験室にガスとインターネットをひく。本棚を積み上げ、そこが仕切りになる。六畳のスペースは二つに区切られる。――――私は打ち込んだ文字を何度も消す。電池が切れ、充電器を探すのをあきらめる。――――私は私の言葉をすべて嘘にする。そうすることで少なくとも一つは本当のことを言っていることになると思う。そして契約書にサインする。――――私は慎重に約束の時間に遅れる。――――二〇〇一年。私は机の引き出しを開け、ガラスの破片を部屋から部屋へと運んだ。――――私はいつもここにいる。改札を出て左、突き当りを右、階段を上る、居酒屋の横の細い通路、線路沿いの道、果物畑、踏切を左、交差点を右、坂道に停車するクレーン車、左、ガレージの中の猫、階段を踏む音が響く、二〇五、二〇三、二〇二、二〇一。――――――YOU DO――あなたはダイヤルを右に回し、次に左に回し、郵便受けを開ける。水道代の明細を見つけ、振り込む。――――戦車。あなたはそれに乗って走る。外国へ行く。――――あなたはテーブルにコーヒーを置き、名前を覚えているかどうかを問いかける。試している。――――あなたはドアをノックし、世界に終わりがあればいいと思っている。――――あなたは交番の前に細長いからだで立っている。――――あなたは叩く。裁断する。ダンボールを組み立て、ガムテープで閉じる。画鋲を刺す。一九九七年のCDプレーヤー。音楽をかける。――――あなたは財布から一万円札を四枚取り出し、マグカップの下に挟んで置いていく。――――――I CARE BECAUSE――私は毎日二種類の鍵を回す。一度目は右に。二度目は左に。――――私は週に三日、一日につき六時間の労働をする。期限の日付に赤いボールペンで印をつける。――――私は舞台裏の覗き穴からオーディエンスのからだによってひとつひとつ客席が埋められていくのを見ている。――――私は十三時まで居室にいる。連絡を待っている。現れるのを待っている。――――私はカタカナで十七文字の名前の会社に就職する。実家までの距離を正確に調べる。――――私はエアコンの力で暖かくなる。煙探知機に吊るされた紙飛行機は細やかに揺れる。三つのハンドルが回転し、床が文字に覆われる。――――私は十桁の数字と名前とが大きな文字で書かれた紙を丁寧に折りたたみ、バッグの奥へそっとしまう。――――――BECAUSE YOU DO――二〇一〇年十二月十二日。あなたはコートを着て立ち上がり、荷物を抱え、マクドナルドの店内を走っていく。――――あなたはトランプの裏側につけた傷をすべて覚えている。絶対に負けないようにルールをつくりかえつづける。――――あなたは片道二時間、千五百十円の車内で三十通のメールを送受信する。――――あなたは誰にも言えないことをする。接着された部分を一枚一枚分離し、ハサミで細く切り裂く。一本の糸のようなものができあがる。――――あなたは片時もテレビ画面から目を離さない。点滅する砂粒が網膜から頭脳へと侵入する。――――あなたは家に帰る。何が間違っていて何が正しかったかを並べ立てて確認する。説明する。納得させる。――――あなたは家に帰る。自動ドアが開き、閉じる。後姿が小さくなる。――――――I CARE BECAUSE YOU DO――私はあなたに鍵を返せと何度も言いたかった。――――あなたは常に勝利するから、私は正しく負ける方法について考える。――――あなたのせいで私は理性的である。――――一九九五年。私の顔は笑っている。――――私はいつでもあなたを待っている。――――あなたが笑うので、私も笑う。――――私とあなたは再会する。――

山田亮太
「モーニング・ツー」初出
2011

星をさがして

 こころのこもったお見舞いの手紙をありがとう。とてもうれしく拝読しました。とつぜんの心因性難聴から耳が聴こえなくなってしまって五日が経ちます。外界の物音から肉体が切りはなされているときは、恐ろしさと、安らぎの、どちらにもほどけない感覚があります。五感が絹糸にくるまれてしまって、繭の内壁の白い記憶をいつまでも見ているよう。この音のない国にもすこしずつ慣れてきたところです。病室の窓ガラスから裏門に目をやると、ポプラの木が三本、風にそよいで気もちを鎮めてくれます。反対に、アオミドロで汚れている泉水にぼとっぼとっと重たく降りかかる音のない雨のしずくは、この古い渋谷K病院、街中の病院の一隅に隔離されている自分の境遇が思い知らされて、なんだか視界がぼんやりしてしまうのです。
 耳の病は「耳管水晶結石症」というのだそうです。この不可思議な響きの病名は、蝸牛よりも下側、耳の管に幻の石がつまる錯聴に由来するのだとか。とはいえ、若い担当医によれば、ほどなく退院できるとの由。治療は投薬が主でアデホスコーワを、間隔をおいて注射してもらいます。この薬が耳のなかで生まれた、こころの結晶体を溶かすというのだから、可笑しい。注射をうった日は、とりわけ誰かが廊下にじっとひそんでいるような、音ともつかない音が耳の奥底を谺しながら流れている。耳鳴りとまではいえないものの、奇妙な気配が頭の芯からはなれていかないのです。

 1 音のない国について

 音のない国、などど書いてしまいました。実際、一時的であれ、音をもたない者になったことで、ぼくは自分自身が外国人にでもなってしまった気分です。看護婦さんのさわやかな微笑もボードでの筆談も、なんだかとても遠い。そこにはいつも目に見えない架空の国の閾がある気がします。病室には、難聴を患うふたりの患者さんがいます。言葉をかわすこともできなければ、耳も聴こえない者同士が空間と暮らしをわかちあうのですから、なんとも奇妙なおつきあいです。それでも夜には隣のベッドから寝息が聴こえてくる錯覚があります。看護婦さんいわく皮膚が人間の気配を敏感に察知しているのだとか。そう、この国では幽し気配こそが国語です。ふと頬を撫ぜる風。カーテンの透き間から忍びこむ銀の月暈。夕方の電柱の五線譜に一列にならぶ鳥たちは音の実。窓際で、紙コップのしめった香りのする珈琲を鼻先にもってくると、雨に濡れたり、西日に照らされている家並みの底から、潮騒やら群青色に波打つ海原やらが炙りでてくる。この国でぼくは、自分の身辺にみちあふれているさまざまな声のない気配に気づきます。
 だから、きみの手書きの文字からは、きみの肉声が聴こえてくる、といったら嗤うでしょうか。お医者さんがいうには音は鼓膜における空気の振動、物質的な刺激だけでなく、人間の記憶に依存している部分がおおきいそうです。リーン、という音が聴こえると同時に、人間は無意識のうちに「ベル」を想起している、ということですね。ラヴェルではないですが、人間はなにかを聴く瞬間、なにかを思いだしている。よって記憶のストックがそれほどない生まれたての赤ちゃんは、耳もよく聴こえないそうです。ぼくの大人の耳は赤ちゃん以下というわけ。
 頭のなかにはいつも無音が響いているのかといえば、そうでもありません。人によってちがうそうですが、ぼくの耳のなかにはたえずシューッ、シューッ、パチ、パチという幻聴があります。ハイランド地方で聴いた、オーロラのたてる音に似ているかしら。耳のなかで夜が燃えているような。人間の脳と精神はまったくの無音には耐えられない、耳が記憶の力をかりて擬似的な音の世界をつくりだしているのだそうです。
 便宜的にオーロラの音と比較しましたが、ぼくにはこの音がどんな音か、正確にはわからない。否。いまの話でいうと、思いだせないのです。ぼくを狂気から守ってくれている記憶そのものの音。その純粋な記憶を、ぼくは思い出すことができない。自分自身の記憶の声をいつか聴くことができるでしょうか。ぼくの体内で、孤児のままでいる記憶を。

 2 星をさがして

 そういえば、昨日、同室のYさんのお孫さんが見舞いにきて、すばらしい影絵を披露してくれました。それは赤や黄や青のセロファンとボール紙、かぼそい竹棒とでつくった鳥や花や星や人間や魔物たち。ぼくらも子どものころに工作した、棒で嘴や手足を動かすあれです。物語は「シンドバッド」のようでした。ハトロン紙でスクリーンをつくり、うしろから電燈をあてて影絵を動かす。すると、ハトロン紙から色が透けて見えてすごくきれいです。3Dテレビの時代に、こんな単純な劇と仕掛けにあらためておどろかされて、その美しさに気づけたのは、健聴をくずしたせいもあるでしょう。声を発しない物静かな影たちは、ぼくの耳のなかの幼年からも踊りでて、音をなくしたこころにやさしく寄り添い、元気づけてくれたのです。
 その夜はひさしぶりにぐっすり眠れ、ふしぎな夢を見ました。音にはうえへと上昇する性質があるそうですね。夢のなかでは、ぼくには聴こえない街の物音がアスファルトから羽毛みたくどんどん沸きおこって、夜空にのぼってゆく。
 それからひとつひとつの音は、音楽の起源を、天の薄機にひろげたのでした。

石田瑞穂
耳の笹舟」所収
2015

過去

その男はまずほそいくびから料理衣を垂らす
その男には意志がないように過去もない
鋭利な刃物を片手にさげて歩き出す
その男のみひらかれた眼の隅へ走りすぎる蟻の一列
刃物の両面で照らされては床の塵の類はざわざわしはじめる
もし料理されるものが
一個の便器であっても恐らく
その物体は絶叫するだろう
ただちに窓から太陽へ血をながすだろう
いまその男をしずかに待受けるもの
その男に欠けた
過去を与えるもの
台のうえにうごかぬ赤えいが置かれて在る
班のある大きなぬるぬるの背中
尾は深く地階へまで垂れているようだ
その向うは冬の雨の屋根ばかり
その男はすばやく料理衣のうでをまくり
赤えいの生身の腹へ刃物を突き入れる
手応えがない
殺戮において
反応のないことは
手がよごれないということは恐ろしいことなのだ
だがその男は少しずつ力を入れて膜のような空間をひき裂いてゆく
吐きだされるもののない暗い深度
ときどき現れてはうすれてゆく星
仕事が終るとその男はかべから帽子をはずし
戸口から出る
今まで帽子でかくされた部分
恐怖からまもられた釘の個所
そこから充分な時の重さと円みをもった血がおもむろにながれだす

吉岡実
「静物」所収
1955

ごびらっふの独白

るてえる びる もれとりり がいく。
ぐう であとびん むはありんく るてえる。
けえる さみんだ げらげれんで。
くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。
なみかんた りんり。
なみかんたい りんり もろうふ ける げんけ しらすてえる。
けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。
きり ろうふ ぷりりん びる けんせりあ。
じゆろうで いろあ ぼらあむ でる あんぶりりよ。
ぷう せりを てる。
りりん てる。
ぼろびいろ てる。
ぐう しありる う ぐらびら とれも でる ぐりせりや ろとうる ける あり  たぶりあ。
ぷう かんせりて る りりかんだ う きんきたんげ。
ぐうら しありるだ けんた るてえる とれかんだ。
いい げるせいた。
でるけ ぷりむ かににん りんり。
おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。
びる さりを とうかんてりを。
いい びりやん げるせえた。
ばらあら ばらあ。

 日本語訳

幸福といふものはたわいなくっていいものだ。
おれはいま土のなかの靄のような幸福に包まれてゐる。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
みんなの孤独が通じあふたしかな存在をほのぼの意識し。
うつらうつらの日をすごすことは幸福である。
この設計は神に通ずるわれわれの。
侏羅紀の先祖がやってくれた。
考へることをしないこと。
素直なこと。
夢をみること。
地上の動物のなかで最も永い歴史をわれわれがもってゐるといふことは平凡ではあるが偉大である。
とおれは思ふ。
悲劇とか痛憤とかそんな道程のことではない。
われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。
ああ虹が。
おれの孤独に虹がみえる。
おれの単簡な脳の組織は。
言わば即ち天である。
美しい虹だ。
ばらあら ばらあ。

草野心平
定本 蛙」所収
1948

学校

ゆうべからおなかが痛くて
医者へ行くから今日は休むと電話をかけた
もちろんおなかは痛くないし医者にも行かない
わたしは教師だが教師だってときには
学校なんかに行きたくない日があるんだよ
だれも私を(ぼくを/おれを)わかってくれない?
あたりまえじゃないか
ひとの内部ってのは やわらかい 壊れやすい 暗闇だから
無闇にずかずか踏み込んではいけない
それが礼儀なんだよ
それくらいのこともわからないぼんくらに
(きみの気持ちはよくわかるけどね)
そんなことまでいうんだわたしは
あああなんだかほんとうにおなかが痛んできたよ
だんだんずるやすみではなくなってきたみたいだけど
とにかく今日は行かないよ
ぜったいに行かない 登校拒否だ
そう決めたんだわたしはって
こういうところは子供のときと同じだなあ
おさなごころって
こんなところに残っていたんだ
あとで女房に話してやろう
女房のおさなごころはなへんにあるか 臀部か
と考えていると娘の部屋で物音がした
とうに学校へ行っていなければいけない時間なのに
どうしたのだろう
なになに ゆうべ遅くまで勉強したので起きられなかった?
今日は行きたくないから電話をかけて?
やだなあ
やだよ

娘と二人で散歩に出かけた
ちょっと近所のつもりが電車に乗って
郊外の川原に来た
変な気持ちだがいい気持ち
ぼんやりしてたら娘が言った
おとうさん?

なあに?

あしたは学校へ行く?

どうしよう

行けば?

うん

辻征夫
萌えいづる若葉に対峙して」所収
1998

リンゴ

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

まど・みちお
まめつぶうた」所収
1973