Category archives: Chronology

「ポエタロ」より

天にむかい
天をささえ
地にしるし
地をさす
むすばれる星明かりと
土の匂い

冗談

言葉と言葉の間にある
空気の指が
君の細胞のすきまを
くすぐる

空を大地をめぐれ
からだをめぐれ
いつでも
動きつづけるものだけが
清らかだ

しお はるかな
    うみのあじがする
しお よあけのゆきと
     おなじいろ
しお いのちをささえ
     いのちをきよめる
小さじいっぱいの
ちきゅうのかたみ

覚和歌子
ポエタロ」所収
2016

必需品

屋根 壁 窓 ベッド
パン 水 トイレット

書物はいらない
世界は小さな窓から眺めるだけで充分

電話 ぼくの詩集 テレビ
そんなものはいらない いらない

いらないから備えている
銀行の口座番号は原稿用紙に印刷しておく

老人老婆 小児 妊婦 青年
見ただけで気持が悪くなる

鏡を見れば
あらゆる人間が登場する

それで
猫は鏡を見ない

鏡には星空と海と砂漠が写っていればいい
そんなことを思いうかべるのは森の中

裸体の若い女性には興味があるが
裸体の思想はワイセツだ

人が通りすぎる
人が街角で消える

そんな瞬間 ぼくは死んだ人間に出会う
ぼくは不定型の人間になる

今日の必需品
ヒゲ剃りとパジャマ それに
ワインの赤 一本

田村隆一
「ハミングバード」所収
1992

おけら

帰るつもりだった
この急な坂を上って右に曲れば
見なれた狭い通りに出る
ところが道はゆき止りで
よその家の庭のようなところに出てしまった
あきらめて坂を降りて左に曲った
裏をかくつもりだった
そこは広い辻で
人はいなかったが犬がなんとなく歩いていて
どこかで鉦を叩きながら経を誦む声がしていた
誰かが私を窺っているような感じがあった
どうもにんげんではないらしい
また引き返したが焦りはじめていた
僕にはまだすることがたくさんあるのに
いつまで経っても家に着けないのではないか
とても身近に題材をとった詩を書く気分ではなかった
それは僕が俗物だからだろうか
それとも才能の問題だろうか
あたりには明るさが残っていて
こんな夢をみたことがあったのを思い出した
その時 誰かが隠れた
こんどはにんげんだ
路地の入り口を素早く雀蛾のように横切って
かどの格子がはまった家の二三軒先に消えた
近寄ってみようとした時
何者かが僕より先にその後を追って駆けていった
辻にはざわめきが満ちているのに
はっきりした物音はひとつもない
こんなことになってしまった発端を一所懸命に考えた
僕はどこから来たのだろう
ほんとうに家に帰ろうとしていたのだろうか
そうだ と本人が考えるのだからそのはずだが
現実はそうはなっていない
こんな思いにたくさんの人が耐えてきたのだろうと
焦りから自暴自棄に傾く心を押えて
踏みとどまったのは理性と呼ばれる心の働きか
えらい人が恥し気もなく教えた人生訓の杖が
広場と呼んでもいい辻のあちこちに落ちていたが
僕は疲れていてからだを跼めるのも億劫だった
いつかは今の辛さもいい思い出になるだろうか
そう考え直した時 仄暗い空間に白い百合が見えた
花は地面から逆に地中に伸びた茎の先で咲いている
小さなもぐらに似た虫が土を掻き出して
けなげにも花を守っている
逆冨士というのは聞いたが
逆百合というのははじめてだ
そんな光景は狂った末の諦めが創り出したのか
想像力が大切と誰かが言っていたが
たしかに以前は辻にいつも人が群れていて
物売りの呼び声も男と女の愁歎場もあった
そこでは一日ずつ遅く五月六日には菖蒲
九月十日には菊が薫ったのだ
その前を帽子に手を当てた紳士
重い荷を背負った中年の男
それに顔役やチンピラ 子供も通っていて
バスを待つ勤め人は新聞を読み
そのうしろで理髪店のねじり棒が
どこまでも上昇を続けていた
幻の天へ 存在しない権威を探して
僕は何をしにここに来たのだろう
きっと何かを探しに
犬も歩けば棒に当るというから
あるいは恋人に会いに
でも本当はそれも不確かなことだ
とうとう帰るのは諦めて
そっと傍らの深い穴を覗いてみた
底の方には水が溜っていた
その時 僕の背中には短い翅が生えはじめ
ああなんていうことだろう
水に映る顔はいつのまにか螻蛄になっていたのだ

辻井喬
わたつみ・しあわせな日日」所収
1999

はじまりはひとつのことば

それは「ぼく」だったかもしれない
それは「そら」だったかもしれない
「あした」だったかもしれない
ひかりがはじけ あたりにとびちって

ひとつのことばのたねのなかには
きがもりがまちがひそんでいた
ひとつのことばのたねのなかで
ものがたりがはじまりをまっていた

どろだらけのしゃつ
ぬりえのかいじゅう
おとうさんのおさけくさいくしゃみ
おかあさんのおろおろ
あさやけとゆうやけをくりかえし
やがてぼくはおおきなふねをつくるだろう
さがしあてたいせきのかべをよじのぼるだろう

どんなげんじつもつくりおこせる
いつもはじまりはひとつのことばだから
しずかなゆきのはらにひびきわたる
おおかみのとおぼえのような

覚和歌子
はじまりはひとつのことば」所収
2014

古い詩集

僕は羽の汚れたペンで
少年のやうな詩を書いた
詩はいぢらしい詩集に編まれて
世の風の中にちらばつていつた
僕からも失くなつていつた

幾年――
僕は詩集をさがして歩いた
昨日 さびれた或る古本屋で
なつかしい彼に逅った
彼は十五銭
棚の埃にのってゐた

一円で僕は買はうと思つた
手にとってぺーヂをめくると
昔住んでゐた町角の夕陽が見えた
そこから黄ばんだ犬が一匹吠えて出て
僕の肩に跳びかかつた

丸山薫
「物象詩集」
1941

竹売りが竹売りに来る
妻が竹売りと大声で話している
まけろ、まけぬの問答がつづく
やがて竹売りが去り
新しい青竹が軒ばたにたてかかる
青竹がからりとした新緑の空に映える
私は青竹をつたって天にのぼる
じつに毎日天にのぼる
じつに毎日天からはきおとされる
ああ、病癒えず いまは毎日はきおとされているのである
はきおとされては
またかけのぼる日のことを考え
またはきおとされているのである
私は竹のような痩せ腕をさする
妻はせわしいせわしいと 新しい
青い生きものをふるように物干し顔をふりまわし
陽あたりのいい場所をみつけている

遠地輝武
「遠地輝武詩集」所収
1961

昼顔順列

昼顔は女だ
わたしは女だ
女は昼顔だ
昼顔はあなただ
あなたは女だ
わたしは昼顔だ
女はあなただ
あなたは昼顔だ
女はわたしだ
昼顔はわたしだ
わたしはあなただ
あなたはわたしだ

吉原幸子
「昼顔」所収
1973

奈々子に

赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある。

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。

吉野弘
消息」所収
1957

山鴫

谷間は暮れかかり
燐寸を擦ると その小さい焔は光の輪をゑがいた

やうやく獲た一羽の山鴫
まだぬくもりのある その山鴫の重量に
私はまた別の重いものを感じた

雑木林を とびたった二羽の山鴫
褪せかけた夕映が銃口にあった

田中冬二
「晩春の日に」所収
1961

樹下の二人

――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉へがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

高村光太郎
智恵子抄」所収
1923