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イノセント

為るたびに
ぴったりくる
いいと思う

合うのか
合わせるようになったのか
良さも解って
むしろ素朴な格好で
おつかいに行くように
慣れてゆく
一線を超えることに

とりあえず死ぬわけじゃなし
冷静に見上げればこの雲もまた
四季のひとつ
七十五日なんてすぐ
直におさまる
ジキ と頷けば
いい人 から降りてしまえば
雲を躱して
かるがると
月は昇る
ちょっと明るくなる

価値観は相似だし
深呼吸したら元気もでて
しみじみ今夜も二人して
月の下 まるまると
無罪である

佐藤正子
人間関係」所収
1994

詩が住んでいられる空間は、もっと広い。(詩と写真)

 少し意識をずらすだけで、別の見え方が現れることがある。例えば、雨の中、ビニール傘をさして歩いているとき、一瞬、透明なビニールを滑る水滴へまなざしを移せば、視界は、空を流れる雫の眺望に変わってしまう。少しのずれから生まれる微かな非日常は、些細でも、きらめきがある。私は日々の些細な裂け目を、詩を書くときに大切にしたい。それは写真でも変わらない。1999年1月からHP「北爪満喜の詩のページ(ただいま小休止中)を開設し、ブログのはしりの言葉と写真のコーナー「memories」を始めた。今も更新し続けていて、いつもコンパクトデジタルカメラを持ち歩いている。(注)  どこかへ行くとき立ち止まって撮ったり、部屋で光や何かに反応して撮ったりと、生活の一部のようになっている。ファインダーを覗かずに撮れるカメラは、撮ることを人の目の高さから解放し、固定した視野からも解き放った。だから私は、柔軟に周囲や対象と向き合って撮ることができる。

 これまで写真を撮ることは、銃を撃つイメージと重ねられてきた。今使っているファインダーがないコンパクトデジタルカメラでは、撮ることは対象を撃つよりも、探ることに近い。固定された視野からではなく多様に撮ることは、意図しない新鮮さを探ることでもある。そこに詩のまなざしが写真を見いだし、言葉を呼び、生きられる広がりがある。これまでこの違いについて何か語られた言葉を読んだことがない。けれど「人の目の高さから解放」されたことは、特別な出来事ではないか。

 人の目は、思ったほど自由に物を見ることができない、という事実はあまり意識されていないようだが、社会の中で人は習慣化した目で見ながら過ごしている。その習慣化した見方や、既成概念に捕らわれた枠から、外れる見え方を得る可能性が、コンパクトデジタルカメラで撮ることに隠れている。私は、腕が動き手首が回る範囲の体の動きに添って、コンパクトデジタルカメラで瞬間瞬間に反応しながら、できるだけ柔軟に撮りたい。光なのか、遠さなのか、質感なのか、色彩なのか、対象へのこだわりなのか、状況なのか、その瞬間瞬間に反応しているのは、はっきりとした一つの動機だけではないことが多い。あらかじめ分かって詩の言葉を書くことがないように、なぜ撮っているのかを意識してみると、それは発語の奥行きの深さや多様さを彷彿とさせる。だから柔軟に撮って、そこに詩のまなざしが呼吸できる光の切れ端をメモリーにたくさん記録する。

 そうして撮った無数の瞬間は、夜、パソコンに移し変えるのだが、それらはまだ写真以前の光の切れ端だと思っている。後で一枚一枚を選んでゆくときに、光の切れ端は、初めて写真になる。選んだ一枚の写真が起点になって、無意識の何かに背を押され、写真を背にして歩きだすように詩の言葉を進めてゆくことがある。また言葉も写真も並行して行き交いながら、詩と組写真になってゆくこともある。ただ、皮膚の外である外部を撮った写真と、言葉は別のものだから混じることはない。けれど、それはまるで、言葉と写真が少しずつ出会いながら、育ってゆくひとときのようだ。詩は詩で、写真は写真で、どちらかがどちらかの背景ではなく、自立して作品となることをこれからも目指したい。

 写真誌『アサヒ・カメラ』昭和14年10月号に萩原朔太郎が詩人としてエッセイを寄稿していて「記録写真のメモリイを作る為でもなく、また所謂芸術写真を写すためでもない」機械の光学的な作用を借り「郷愁」を写したい、と語っている。今になってとても響く。機械の光学的な作用を借り、私は、日常の習慣的な見方や既成概念の捕らわれを崩し「脱出」する一枚一枚を写したい。そして言葉と写真の両方で詩を求めてゆきたい。

 展示は何度やっても不慣れで分からないことばかりで不安もあるが、続けている。銀座3丁目のビルの通路での展示は常設で、HPに地図(北爪満喜・詩と写真展2016.10.7よりfile.15)を掲載している。また、今年2013年3月20日から24日、前橋市のミニギャラリー千代田で開催した詩と写真展『記憶の 窓は水色の枠』はYouTubeにアップロードした。詩への入口を増し、間口を広げて、街を行きながら、ネットを見ながら、ふと目を向けてくれた誰かに、詩が届くことを願う。

 ビルを訪れる様々な目的の人々が、ふと写真や言葉を目にし、日常の些細な裂け目にざわつくとしたらどうだろう。通路で広告の言葉ではない言葉を読むことで、気になってしまったらどうだろう。通路は見慣れない場所になり、人々の中に別の空間をつくる。そこは詩の住みはじめた空間なのだ。詩が住んでいられる空間は、出会う毎にうまれ、作品や文字を離れ、もっと広いのだと思う。

 先日の前橋の展示で印象的な出来事があった。見知らぬ若い女性が、トイレの男女の記号を写した写真を指差して「救われた気持ちになった」と言った。私には届かない、作品が完全に旅立った瞬間だった。詩と7枚の組写真の中の一枚だったが、彼女が展示した言葉を見て、どの部分かを強く受け止め、写真から何かの声を聞いて、新しい詩を作ったに違いない。彼女は、あまり詩が身近ではいな人のようだった。彼女に生まれた詩の空間を祝いたい。

北爪満喜
「現代詩手帖2013年8月号」初出
2013

注  HP「北爪満喜の詩のページ」・・ただいま小休止してます。
北爪満喜 詩と写真展 file.15
通路の詩と写真展常設(銀座3丁目のビル1階通路) 2016年10月7日から file.15 展示しております。  

(萩原朔太郎と写真 参考文献)
下記のLinkにステレオ写真愛好家氏による萩原朔太郎の「僕の写真機」の紹介があります。
http://midi-stereo.music.coocan.jp/irohastr/hagiwara.htm

渋谷で夜明けまで

夏の一日
ぼくは
渋谷で
ポリネシアの戦士の歌を聞きながら
魂をやすめていた
オルペウス神統記にもあきて
書物はすべて放棄してしまった
ぼくの時計は柔かく変形してゆく
中世の城のような旅館が見えてきた
ああ
素晴らしい徴候だ!
この絶対温度に
乳房をちかづけてくれるな!
貴女にも
きっと
ぼくの姿は見えないだろう
無能だ!という声に
振り返りもしないで
豪華なペルシャ猫のように世界を沈んでゆく
さあ
貴女とキスしよう
ぼくは動詞だけしか信用しない!
なんという
魂の不思議な膨張係数か!
グラマーな地下鉄の通過
新聞活字が陽光をさえぎる!
失業するぜ 失業するぜ
ふっと
まどろむと
欅並木が滑走路をかこむ
懐しい風景がよみがえる
ああ
巨大な横田基地よ!
ぼくの育った武蔵野の雑木林の俤と蜉蝣たつ金属的な滑走路が なんと調和していることだろう
ツルゲーネフ風に夢を素足で歩いてみよう
バッカード・ポニャック・クライスラー
と歌にして覚えた
あの夕暮をだれが忘れようものか
ラッキー・ストライクのように
鮮烈にやってきた
アメリカの青年たちにアイサツしよう
ぼくが愛した
あの兵士たちは
いまごろベトナムで戦っているのか
星条旗のように整列して
アッ
ボクハ日本刀ヲ握ッテイル!
ガム吐き出して
フレディーと一緒に歩いた砂川の風景を激しく憎悪する!
ああ もっと抱いてよ
優しく大きな乳房の輪郭線で、ゴシック体のように眼を見開かないように・・・・
オンリー、スーベニール
オンリー、スーベニール
魂に言葉の圧力がかかってくる
夏のシーツに、素肌に
都市全体が落雷となって集中する
貴女ノ家ニ帰リナサイ!
渋谷のホテルで
ぼくは
激しく乱れて
世界全体をゆるがしはじめる
貴女ノ家ニ帰リナサイ!
ああ純粋数学の復権だ!
ベッドの鉄わくにつかまれ
若駒が幾何学的な風にのって駆けてくる!
ああ心臓の戸口を銀色の手がたたく
全身、海のようなミドリだ!
貴女ハ帰レ!
大時計はとまり、空間がぐらっと傾斜する
うまれるぞ 船をこげ
日本ノ砂漠デ占星術ガ誕生スルノカ!
太極のマークが窓から乱入してくる
天上大風だ!
男根と男根の交叉!
見たこともない紋章が浮びあがってくる
影像人間は分裂して
火山へ!
火山へ!
おお エトナのエンペドクレースよ!
巻きあげられる感覚世界
なにが見えるか!
青い遊星
それとも
胎児の眼の破裂か!
街角を曲る
幸福という文字
美しい鈴ならす廃品回収の人影か!
ああ 魂が破壊される!
よだれたらして
犬のように
ただもう放置されるだけだ
ダレカガ呼ンデイル
扉が激しく叩かれる
魂が破壊の神を呼んでいるのか!
青い青い断片の
天国と地獄からの襲来!
立っていられない
言葉の橋が流出してしまう
しかし
筆は真青になって失速してはならない
昨日の夜
今日の夜
明日の夜
筆は真赤に輝いて進行する
それが
夜空を落下する流星の
筆のさだめだ!

太陽など問題外だ!
狂気を彫る精神の労働が、さまざまの記号の暗示を受けて決潰しただけだ!
おお 魂のリアリズム
三文判は会計係に返上しよう
菊の花を刺し通せ!
望みはなんだ
よし おれを陵辱するがよい!
B・Gよ
冒険家よ
欲望ははてしない霊魂の卑猥な一側面に
自らの肉を焼いて
祭壇に登る、神秘的な一筋を刻め!
食料を与えるって
なにお
風の末裔となって、桃色の五本の指を自ら食って生きのびてやろう
ああ 法華子よ!
焼身自殺とは、太極に存在する虹の絢爛たる同心円だ!
オ時間デス オ時間デス
去れ! ひからびた女よ!
ボクハ日本刀ヲ握ッテイル!
肉体の花弁をひらく、素肌のあらゆる陰唇をぼくは自分でひらく
海のむこうから
<ルイジアナで檞の木が茂っている>
という偉大な歌声が聞えてくる
ホテルでも
夢の中でも
世界全体を感情のもっとも鋭敏な個所に集中して
シンバルを叩け
もう朝だ
初発電車が動き出した
しかしまだ
まるでオデッサの階段のように説明のつかない熱病がおれの首を巻いて荒れ狂っている
外界へ出る
だった一人で
全身にワイパーをつけて透視する
アレワ人間カ
自動車だ!
機械的な冷気が頬をかすめて
やがて
太陽が東の空に昇ってくるころ
魂の熱気はさめはじめる
廃人のように
没落貴族のように
新しい朝の狂気へ姿を消してゆく
カッカッと
ハイヒールの音が鳴り
一人通りすぎてゆく
ああ
ぼくは
朝鮮人みたいに泣きたいなあ
振り返ってはいけない
曲れ! 直角に、鋭く、覚悟をきめて

新しいイメージの狩人よ
沈黙の歌人よ
風よ
風よ
ある夏の一日
これらは
渋谷で真実おこった事なのだ

吉増剛造
頭脳の塔」所収
1971

襤褸(ぼろ)

悲しい叫びが起つた
仰天して窓は地上に砕けた
頭髪を乱した洋燈が街路を駆けてゐた

私の喉に
泥沼のごとく狼の咬傷は開いた
そこから赤い夜は始まつた

私の眼は地上に落ちた
それは孤独の星であつた
私はもはや石灰の中に私を探さない
私はもはや私に出遇はない
私の行くところ
到るところ襤褸は立ち上がる

 ★

かつて唇に庭園はあつた
かつて石に涙の秩序はあつた
笑ひは空井戸の底に
倦怠は屋根にあつた
呼吸しない広場で
風の歌が鳴つてゐた
私のゐるとき
それはいつでも夜であつた
睡眠は壁の中に
星は卓子の上にゐた

富士原清一
「富士原清一詩集 魔法書或は我が祖先の宇宙学」所収
1944

鳥についての短い情報

小学館の図鑑NEO(ネオ) POCKET(ぽけっと)『鳥(とり)』(二〇一二)の、ページの下の部分に、一行で書かれた鳥についての情報の文章があるので、今回はそれを引用して、思ったことを書く
「春(はる)になると、鳥(とり)が繁殖(はんしょく)のために北(きた)へと旅立(たびだ)つのは、北方(ほっぽう)で食(た)べ物(もの)が多(おお)く発生(はっせい)するからです。」
多く発生するものはキノコで、キノコのようなフクロウがキノコを食べて中華料理の材料になる。北には白いシロフクロウがいて、とても丸かった、丸かった
「スズガモは貝(かい)をからごと飲(の)みこみます。からは胃(い)のなかで粉々(こなごな)にされ、はいせつされます。」
カモを見ると、ああ、あのカモの中で、貝殻は粉々になっているのだな、ということを思うことにする。サザエこなごなになる。カルシウムざらざらである、飛んでいる
「ミコアイサのオスは、顔(かお)のもようから、パンダガモの愛称(あいしょう)でよばれることがあります。」
白い部分が多いカモで、目のまわりが黒い、カモ科の鳥である。竹を、食べるのかもしれない。竹は貝殻のように粉々になるだろう。パンダは森で竹をバキッと折る
「鵜(う)飼(か)いは、ウに魚(さかな)を飲(の)みこませてとる漁(りょう)の方法(ほうほう)です。日本(にっぽん)ではウミウを使(つか)います。」
ウが飲み込んだ魚は缶詰の中身になって、金属の色で輝いて、店に暗く並んでいるだろう。店の看板や、缶詰のまわりには、〈新鮮な魚〉と書かれていて、水煮!水煮
「日本(にっぽん)のサギのなかまで、最(もっと)も小(ちい)さいのは、ヨシゴイです。」
アオサギはとても大きな動物であると思いながら、私は自分の上を飛んでいくバッサバッサのアオサギを見ていた。アオサギよりも人間よりも小さな指のような よしごい
「体(からだ)の大(おお)きな種(しゅ)をワシ、中型(ちゅうがた)以下(いか)をタカとよびますが、はっきりした区別(くべつ)はありません。」
イルカとシャチにあまり区別がないので、海岸でキノコを食べているウミウシのような生きものがバサバサ飛んだらシャチのようなタカだったりワシだったりする、みさご
「漢字(かんじ)で水鶏(すいけい)と書(か)いて、クイナと読(よ)みます。水辺(みずべ)にすむ鶏(にわとり)に似(に)た鳥(とり)、という意味(いみ)です。」
ヤンバルクイナがニワトリのようにたくさんいる風景が夢で、ヤンバルクイナの暗い顔が木に並んでいる版画。カラーの、着色された、版画で、めずらしい鳥の美術館
「ウミネコは、鳴(な)き声(ごえ)がネコに似(に)ていることから名(な)づけられました。」
ウミウシは鳴き声が牛に似ていたのかもしれないし、チョウザメは飛んでいた。チョウザメを見て、長いUFOであると思っていた。ミミズクはネコのような動物だった
「海(うみ)鳥(どり)の減少(げんしょう)は、漁(りょう)のあみにかかるものが多(おお)くいることも原因(げんいん)の1つといわれています。」
そのようにしてサメも減少している写真を見た記憶がある。鳥の肉も缶詰になって、私は缶詰が苦手で、缶詰が犬のように鳴くので、滑走する缶詰から逃げる私わたし
「ピジョンミルクは、全体(ぜんたい)の約(やく)74%が水分(すいぶん)です。ウシのミルク(牛乳(ぎゅうにゅう))は、約(やく)89%が水分(すいぶん)です。」
ハトはピジョンミルクを出してヒナを育てるのだ、という。ウミウシもナマコもドロドロになって、水分が牛乳よりも少ないのだろう。絵の具で海底に色を付けたのである
「フクロウ類(るい)の羽角(うかく)は、角(つの)や耳(みみ)ではありません。羽毛(うもう)です。」
ミミズクは鬼のような形相でネズミや地獄の人間を食べてしまうのだろうと思う。それから壁に貝殻を飾っていた。貝殻は虹の色にキラキラ光る熱帯の羽毛のような熱帯魚
「ブッポウソウのひなは貝(かい)がらや金属(きんぞく)を飲(の)みこみ、かたい甲虫(こうちゅう)を消化(しょうか)する助(たす)けにしています。」
めずらしい金属を飲み込むのかもしれなかった。テルルは貝殻のようなものである。甲虫も金属で、貝殻が羽で、壁に貼り付けて、壁を壁画にしてロココにしていた
「キツツキが木(き)にあけたあなは、小鳥(ことり)や小動物(しょうどうぶつ)が巣(す)あなとして利用(りよう)します。」
むささびは木の丸い穴から顔を出していた。穴は闇であった……むささびの顔の後ろに、闇が、広がっている。その穴はキツツキが彫刻したもので、リスの彫刻である
「カケスは鳴(な)きまねがうまく、ほかの鳥(とり)の声(こえ)だけでなく、救急車(きゅうきゅうしゃ)の音(おと)などもまねて鳴(な)きます。」
私が倒れた時、カケスの背中の上にいて、テーブルの上で名前や住所を紙に書いたり、話していたような記憶がある夜。カケスは乾いたゴジラのようなものだっただろうか
「トラツグミの気味(きみ)の悪(わる)い声(こえ)は、想像上(そうぞうじょう)の動物(どうぶつ)「ぬえ」の声(こえ)ではないか、といわれていました。」
わたしトラツグミの鳴き声を聞いた記憶がありますが、ヌエであるとは思わず、何であるのか全くわからないと思って眠っていた。ヨタカの声のようなものであると思った
「鳥(とり)の羽毛(うもう)には、ダニがついていることがあるので、さわったら手(て)洗(あら)いをしましょう。」
たくさんの小さな細かい虫が集まって宇宙を作るように鳥を作っているのであるのだな。羽毛はやがて腐ってバラバラになるだろうし、緑色になるだろうと思った
「フラミンゴミルクは、食道(しょくどう)の一部(いちぶ)である素(そ)のうから出(で)る、栄養(えいよう)ほうふな液体(えきたい)です。」
ハトがピジョンミルクを出すように、フラミンゴからはフラミンゴミルクが出るんだな。ドロドロな液体が多い地球なので演奏して歌ってしまうよ。なまこも歌うだろう
「シロハラウミワシのえものの90~95%が、魚(さかな)とウミヘビだったという研究(けんきゅう)があります。」
ウミヘビは、たくさん、いるんだな。私はウミヘビをあまり見たことがないような記憶がある。水族館でウミヘビがたくさん泳いでいると、水族館の屋根を破って鳥が来る!

小笠原鳥類
夢と幻想と出鱈目の生物学評論集」所収
2015

林中乱思

火を燃したり
風のあひだにきれぎれ考へたりしてゐても
さっぱりじぶんのやうでない
塩汁をいくら呑んでも
やっぱりからだはがたがた云ふ
白菜をまいて
金もうけの方はどうですかなどと云ってゐた
普藤なんぞをつれて来て
この塩汁をぶっかけてやりたい
誰がのろのろ農学校の教師などして
一人前の仕事をしたと云はれるか
それがつらいと云ふのなら
ぜんたいじぶんが低能なのだ
ところが怒って見たものの
何とこの焔の美しさ
柏の枝と杉と
まぜて燃すので
こんなに赤のあらゆる phase を示し
もっともやはらかな曲線を
次々須臾に描くのだ
それにうしろのかまどの壁で
煤かなにかゞ
星よりひかって明滅する
むしろこっちを
東京中の
知人にみんな見せてやって
大いに羨ませたいと思ふ
じぶんはいちばん条件が悪いのに
いちばん立派なことをすると
さう考へてゐたいためだ
要約すれば
これも結局 distinction の慾望の
その一態にほかならない
林はもうくらく
雲もぼんやり黄いろにひかって
風のたんびに
栗や何かの葉も降れば
萱の葉っぱもざらざら云ふ
もう火を消してしまはう
汗を出したあとはどうしてもあぶない
 
宮沢賢治
「春と修羅」補遺所収
1933

シジミ

夜中に目をさました。
ゆうべ買つたシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。

「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクツテヤル」

鬼ババの笑いを
私は笑つた。
それから先は
うつすら口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかつた。

石垣りん
表札など」所収
1968

大みそかに映画をみる

年末になると、毎年子狸たちが家(うち)に疎開しに訪れる。
賭け事を好む天狗たちが、来年に振る賽子(さいころ)の中に入れる命を山に探しにくるためである。

床に落ちていた一本の白糸をすくい、指でつまんで、すとそれを引き抜いたときにある狸が言ったのは、
「あ これは線路に似ている。」
それで、皆で大笑いをしている。
疎開しているために、彼等の身長は私の握りこぶし程だが、
それでもたくさんの子狸たちが一斉に笑い転げると騒がしい。
廊下の奥で、今年の四月に亡くなった祖母が心配そうに顔をのぞかせている。
大みそかの日になって、夜、紅白歌合戦の決着もつかぬうちに、初詣をしに家を出た。
しばらく平坦の道を歩いた後、コンクリートの坂をずんずんと上がっていった。
酔っぱらったように、狸たちはアジア音楽の節回しの歌を歌っている。
向かいから子どもが母親と並んで歩いて来たが、疎開の狸たちに気がつかず行ってしまった。
「小さなものの横を通り過ぎるとき、自分がまるで化け物のように思える。」
親子にとって、蟻のように群れる狸の集団は、単に生臭い風に過ぎなかっただろう。

公園までたどり着くと、木々の葉が電灯に照らされ緑色に発光していた。
奥へは登山口が続いている。
我々は石造りの鳥居の建つ山の道を進み歩いた。

よく見れば、電灯の蛍光灯が葉を通り抜け山の中まで照らしているのではなく、木と木の間に、明るい映像の膜が張ってそれが光っているのだ。
木の葉の色が移り、映像はやや緑がかっている。
映像の中に私自身の姿はない。
これは、今年に私自身が体験したものであるからだ。
覚えのある声が、通り過ぎる木々の映像からざあざあと流れる。
「・・・・どんなことをするにしても、これは自分にしかできないことだと誇りを持つこと。些細なことでも、他の人にはできないことだと信じ誇ること・・・・」
あれは、今年の十月に定年退職をした業務監査室長の映像だ。
彼の横顔と、職場に向かって語りかけていた様子が上映されている。
カメラの前の白いキャビネットが、映像を少し塞いでいる。

あちらこちらで、映像の膜が張っている。
横目で確認しつつ、ひたすらに暗い夜坂を上る。
映画だろうかとも思う。

私は十一月に部屋を訪れていた男の服を捨てた。
電話がかかってきた時、もらった手紙を粉々に引き裂いてしまった。
荷物は全部捨ててほしいと言われた。
私は送り返したいと思ったが、住所を知る術もなく、また、戸棚にしまって眠ろうとすると、夜に扉を内から叩いてうるさい。
仕方なく透明の袋に包んで、所定の場所に置いていたら、住みかの決まり通りに業者に持っていかれてしまった。

山を上がるごとに、狸はもとの大きさを取り戻して駆け上がっていく。
面白がって人間に化ける者もいるが、その中に、覚えのある背の形がうつった。

夜は刻々と更けていく。
決して、浅くなっていくというものではない・・・・
そうして映像はいっそう濃く、鮮明になっていく。

(東京タワーが小さく見える、
東京スカイツリーも、もはや米粒以下だ・・・・)

明けろ明けろ!
毒をもって毒を制すが如くに、夜が一層に更けて、
一気に透明になる瞬間が訪れる!

霧に包まれているかと思った。
我々は無我夢中で山道を上がっているが、今年の思い出が、やがて不鮮明になっていくのを肌で感じている。
同時に、狸たちの姿も薄れていくだろう。
重なり合う音声が、徐々に遠くなっていく。
前を歩く狸は天狗を警戒しつつ、前につんのめりそうになりながら、さらに茂みの奥へと入っていった。

マーサ・ナカムラ
「現代詩手帖2016年1月号」掲載
2016

地面の底の病気の顔

地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらがってゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。

萩原朔太郎
月に吠える」所収
1917

洗面器

( 僕は長いあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが爪硅(ジャワ)人たちはそれに羊(カンピン) や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木陰でお客を待ってゐるし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。 )

  洗面器のなかの
さびしい音よ。

くれてゆく岬の
雨の碇泊。

ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。

人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。

洗面器のなかの
音のさびしさを。

金子光晴
女たちへのエレジー」所収
1949