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長い廊下

長い廊下を一人で
どしんどしんどしんと
大股で力を入れて歩いて見たい。
そうして時々、大声で怒鳴って見たい。
お──い

反響のない所で
力を入れて歩くのは、
損な気がする。
反響のない所で、どなって見るのも
消えてゆくのが淋しい。

どしんどしんどしん
あたりにそれが響く。
お──い
あたりにそれが響く。
その内を一人で、子供らしく歩いて見たい。

馬鹿な願いだ
むだな望みだ
しかし都会にすむ自分は、十年余り、
どしんどしんとやったこともない。
お──いと怒鳴ったこともない。

子供のように束縛されずに、
世間を顧みず、他人を顧みず、
ふるいまいたいのだ、怒鳴りたいのだ。
反響のある所で。
どしんどしんどしん、お──い。

武者小路実篤
武者小路実篤詩集」所収
1953

夢のなかでだけわたしは
叫ぶことができた
目尻に涙をひきながら

衿をたてて
停車場の角をまがる
するといつも 列車はうしろ姿なのだった

世界がわたしを包んでいるのに
わたしののばす腕は
いつも そのふちにとどかない

世界が あまりうつくしいので
目ざめて わたしは 名を呼べない

もどかしい自転車 だけが
枯れた桑畑の道をはしる

吉原幸子
「魚たち・犬たち・少女たち」所収
1975

「空っぽ」こそ役に立つ

粘土をこねくって
ひとつの器をつくるんだが、
器は、かならず
中がくられて空になっている。
この空の部分があってはじめて
器は役に立つ。
中がつまっていたら
何の役にも立ちやしない。

同じように、
どの家にも部屋があって
その部屋は、うつろな空間だ。
もし部屋が空でなくて
ぎっしりつまっていたら
まるっきり使いものにならん。
うつろで空いていること、
それが家の有用性なのだ。

これで分かるように
私たちは物が役立つと思うけれど
じつは物の内側の、
何もない虚のスペースこそ、
本当に役に立っているのだ。

加島祥造
タオ──老子」所収
2000

ああちゃん!

ああちゃん!
むやみと
はらっぱをあるきながら
ああちゃん と
よんでみた
こいびとの名でもない
ははの名でもない
だれのでもない

八木重吉
八木重吉詩集」所収
1942

世界がほろびる日に

世界がほろびる日に
かぜをひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ

石原吉郎
禮節」所収
1974

永遠にやって来ない女性

秋らしい風の吹く日
柿の木のかげのする庭にむかひ
水のやうに澄んだそらを眺め
わたしは机にむかふ
そして時時たのしく庭を眺め
しをれたあさがほを眺め
立派な芙蓉の花を讃めたたへ
しづかに君を待つ気がする
うつくしい微笑をたたへて
鳩のやうな君を待つのだ
柿の木のかげは移つて
しつとりした日ぐれになる
自分は灯をつけて また机に向ふ
夜はいく晩となく
まことにかうかうたる月夜である
おれはこの庭を玉のやうに掃ききよめ
玉のやうな花を愛し
ちひさな笛のやうなむしをたたへ
歩いては考へ
考へてはそらを眺め
そしてまた一つの塵をも残さず
おお 掃ききよめ
きよい孤独の中に住んで
永遠にやつて来ない君を待つ
うれしさうに
姿は寂しく
身と心とにしみこんで
けふも君をまちまうけてゐるのだ
ああ それをくりかへす終生に
いつかはしらず祝福あれ
いつかはしらずまことの恵あれ
まことの人のおとづれのあれ

室生犀星
愛の詩集」所収
1918

二月の雪

陣痛三十三時間をこえしとき
かのよき看護婦は腕まくりして入り来たり
そのくくり顎の一ふりもてわれを室外に追いだせり
何が起るものなりや
ドアの握りをうしろ手にしめつつ
われは祈りのごとくうすき泪の湧くを感ず

廊下は長からず
つきあたりの窓より見おろせば
小学校校庭の雪は煤煙によごれたり
ここらあたりにてまわれ右をするは許されむ
思いきりてふりむけば
金属の道具を入れし容器をささげて
──そは消毒の湯気のひまに
うろこのごとくきらめきつつ──
べつの看護婦廊下を横ぎるところなり

何が起るものなりや

やがてして丈高き瀬戸教授はあらわれたり
彼は昇汞にて手をあらい
特徴ある耳たぶのうしろを見せてドアのなかにかくる

かくて──われは思う──すべての手はずはととのえられたるなり
あとはただ汝の力による
問題はただ汝なり
何ごとが起るとも
汝一人してそれを通り行かねばならず
そははたの者のまつたく手出しできざる
大いなる隔絶せられたる仕事なり
汝を激励するいかなる言葉もなく
汝のすがりうるいかなる柱もなしとわれは知る
われは
息子を法廷に送れる父のごとく
時が秒の目盛りもて過ぎ行くを感じつつ廊下を動く

中野重治
中野重治詩集」所収
1931

無題

夢の中の自分の顔と言ふものを始めて見た
発熱がいく日もつゞいた夜
私はキリストを念じてねむつた
一つの顔があらわれた
それはもちろん
現在私の顔でもなく
幼ないときの自分の顔でもなく
いつも心にゑがいてゐる
最も気高い天使の顔でもなかつた
それよりももつとすぐれた顔であつた
その顔が自分の顔であるといふことはおのづから分つた
顔のまわりは金色をおびた暗黒であつた
翌朝眼がさめたとき
別段熱は下つてゐなかつた
しかし不思議に私の心は平らかだつた

八木重吉
貧しき信徒」所収
1927

夏休み

少年チェホフは川で
水浴びをして風邪をひいた
風邪をひいたチェホフは医者へ通った

勉強して自分も医者になろう
医者になりたい
チェホフは夏じゅう
そう 思い続けた

──彼を一生苦しめた
胸の病気も
その夏休みの風邪からはじまった

大木実
「蝉」所収
1981

上り列車

これがかうなるとかうならねばならぬとか
これがかうなればかうなるわけになるんだから かうならねばこれはうそなんだとか
兄は相も變らず理窟つぽいが
まるでむかしがそこにゐるやうに
なつかしい理窟つぽいの兄だつた
理窟つぽいはしきりに呼んでゐた
さぶろう
さぶろう と呼んでゐた
僕は自分がさぶろうであることをなんねんもなんねんも忘れてゐた
どうにかすると理窟つぽいはまた
ばく
ばく と呼んでゐた
僕はまるでふたりの僕がゐるやうに
ばくと呼ばれては詩人になり
さぶろうと呼ばれては弟になつたりした

旅はそこらに郷愁を脱ぎ棄てゝ
雪の斑點模樣を身にまとひ
やがてもと來た道を搖られてゐた

山之口貘
山之口貘詩集」所収
1958