Category archives: Chronology

フェルナンデス

フェルナンデスと
呼ぶのはただしい
寺院の壁の しずかな
くぼみをそう名づけた
ひとりの男が壁にもたれ
あたたかなくぼみを
のこして去った
  〈フェルナンデス〉
しかられたこどもが
目を伏せて立つほどの
しずかなくぼみは
いまもそう呼ばれる
ある日やさしく壁にもたれ
男は口を 閉じて去った
  〈フェルナンデス〉
しかられたこどもよ
空をめぐり
墓標をめぐり終えたとき
私をそう呼べ
私はそこに立ったのだ

石原吉郎
斧の思想」所収
1970

薔薇のゆくえ

ばらは さだめ しり
かぜと でかけ た
まちも むらも ない
いしの あれの で
ばらは かたち とけ
うたに なった よ

うたは かおり すい
つばさ ひろげ た
ほしも みずも ない
いわの はざま で
うたは くだけ ちり
ゆきに なった よ

谷川雁
「白いうた青いうた」より
1995

ぐりまの死

ぐりまは子供に釣られてたたきつけられて死んだ。
取りのこされたるりだは。
菫の花をとつて。
ぐりまの口にさした。

半日もそばにいたので苦しくなつて水にはいつた。
顔を泥にうづめていると。
くわんらくの声々が腹にしびれる。
泪が噴上のやうに喉にこたへる。

菫をくはへたまんま。
菫もぐりまも。
カンカン夏の陽にひからびていつた。

草野心平
「第百階級」所収
1928

黙つてゐる蝉

手の掌にのせても
ひっくりかへしても
黙ってゐる蝉
強かった羽根の力も今は失せたが
苦しくても
さびしくても
じっとこらへてゐるやうに
何事も語らない
強い引きしまった鋼鉄色の
ぐわんけんな身体も今は弱ったが
時々なにをか思ふ羽ばたきして
黙って
短い一生を送らんとする

中川一政
「見なれざる人」所収
1921

意味

いかなる言葉にも どんな内容でも持たせることが出来る
一般と通用しない反対の意味を持たせることも詩人の勝手だ
そして一人でホクソ笑んでゐる事も詩人には出来る     

高橋新吉
「高橋新吉詩集」所収
1952

真夜中の洗濯

闇と寒さと夜ふけの寂寞とにつつまれた風呂場にそっと下りて
ていねいに戸をたてきって
桃いろの湯気にきものを脱ぎすて
わたしが果てしない洗濯をするのはその時です。

すり硝子の窓の外は窒息した痺れたやうな大気に満ち
ものの凍てる極寒が万物に麻酔をかけてゐます。
その中でこの一坪の風呂場だけが
人知れぬ小さな心臓のやうに起きてゐます。

湯気のうづまきに溺れて肉体は溶け果てます。
その時わたしの魂は遠い心の地平を見つめながら
盥の中の洗濯がひとりでに出来るのです。
氷らうとして氷よりも冷たい水道の水の仕業です。

心の地平にわき起るさまざまの物のかたちは
入りみだれて限りなくかがやきます。
かうして一日の心の営みを
わたしは更け渡る夜に果てしなく洗ひます。

息を吹きかへしたやうな鶏の声が何処からか響いて来て
屋根の上の空のまんなかに微かな生気のよみがへる頃
わたしはひとり黙って平和にみたされ
この桃いろの湯気の中でからだをていねいに拭くのです。

高村光太郎
高村光太郎詩集」所収
1950

睡魔

ランプの中の噴水、噴水の中の仔牛、仔牛の中の蝋燭、蝋燭の中の噴水、噴水の中のランプ
私は寝床の中で奇妙な昆虫の軌跡を追っていた
そして瞼の近くで深い記憶の淵に落ちこんだ
忘れ難い顔のような
真珠母の地獄の中へ
私は手をかざしさえすればいい
小鳥は歌い出しさえすればいい
地下には澄んだ水が流れている

卵形の車輪は
遠い森の紫の小筐に眠っていた
夢は小石の中に隠れた

瀧口修造
「妖精の距離」所収
1937

るす

留守と言へ
ここには誰も居らぬと言え
五億年経ったら帰って来る

高橋新吉
「高橋新吉詩集」所収
1952

朝、床屋で

春めいてきた朝。
理髪店の椅子に仰向けになり、
顔を剃ってもらってゐる。
ラジオは電話による身の上相談の時刻。
どこにもありさうな家庭のいざこざ。
だが、どこにも逃げ場がない、と
思ひこんで迷ってゐる、涙声の女。

つい貰ひ涙がこぼれさうになるのを、
唾をのみこんでこらへてゐるが、駄目だ。
こめかみを伝って、耳の孔に
流れこまうとするのを、自分では拭へない。
すると、剃刀を休めたあるじが、
タオルの端でそっと拭いてくれた。
何だか失禁の始末でもしてもらった気分だ。
椅子ごと起されると、鏡の中から
つるんとした陶器製の顔が、
わたしを見つめてゐる。
───いいんだ、それでいいんだ。
さう言ってゐるやうな澄まし顔だ。
何がいいのか、よく分らない。

安西均
「指を洗ふ」所収
1993

ちいさな遺書

わが子よ
わたしが死んだときには 思い出しておくれ
酔いしれて なにもかもわからなくなりながら
涙を浮かべて お前の名を高く呼んだことを
また思い出しておくれ
恥辱と悔恨の三十年に
堪えてきたのは おまえのためだったことを

わが子よ
わたしが死んだときには 忘れないでおくれ
二人の恐怖も希望も 慰めも目的も
みなひとつ 二人でそれをわけあってきたことを
胸にはおなじアザをもち
またおなじ薄い眉をしていたことを 忘れないでおくれ

わが子よ
わたしが死んだときには 泣かないでおくれ
わたしの死はちいさな死であり
四千年も昔から ずっと
死んでいた人がいるのだから
泣かないで考えておくれ 引き出しの中に
忘れられた一個の古いボタンの意味を

わが子よ
わたしが死んだときには 微笑んでおくれ
わたしの肉体は 夢のなかでしか眠れなかった
わたしは死ぬまでは 存在しなかったのだから
わたしの屍体は 影の短い土地に運んで天日にさらし
飢えて死んだ兵士のように 骨だけを光らせておくれ

中桐雅夫
「中桐雅夫詩集」所収
1964