闇と寒さと夜ふけの寂寞とにつつまれた風呂場にそっと下りて
ていねいに戸をたてきって
桃いろの湯気にきものを脱ぎすて
わたしが果てしない洗濯をするのはその時です。
すり硝子の窓の外は窒息した痺れたやうな大気に満ち
ものの凍てる極寒が万物に麻酔をかけてゐます。
その中でこの一坪の風呂場だけが
人知れぬ小さな心臓のやうに起きてゐます。
湯気のうづまきに溺れて肉体は溶け果てます。
その時わたしの魂は遠い心の地平を見つめながら
盥の中の洗濯がひとりでに出来るのです。
氷らうとして氷よりも冷たい水道の水の仕業です。
心の地平にわき起るさまざまの物のかたちは
入りみだれて限りなくかがやきます。
かうして一日の心の営みを
わたしは更け渡る夜に果てしなく洗ひます。
息を吹きかへしたやうな鶏の声が何処からか響いて来て
屋根の上の空のまんなかに微かな生気のよみがへる頃
わたしはひとり黙って平和にみたされ
この桃いろの湯気の中でからだをていねいに拭くのです。
高村光太郎
「高村光太郎詩集」所収
1950
凍てつくような環境で
ありありと、ガラス細工のように 心情の変遷が
生々しく綴られている、美しい作品ですね。