朝、床屋で

春めいてきた朝。
理髪店の椅子に仰向けになり、
顔を剃ってもらってゐる。
ラジオは電話による身の上相談の時刻。
どこにもありさうな家庭のいざこざ。
だが、どこにも逃げ場がない、と
思ひこんで迷ってゐる、涙声の女。

つい貰ひ涙がこぼれさうになるのを、
唾をのみこんでこらへてゐるが、駄目だ。
こめかみを伝って、耳の孔に
流れこまうとするのを、自分では拭へない。
すると、剃刀を休めたあるじが、
タオルの端でそっと拭いてくれた。
何だか失禁の始末でもしてもらった気分だ。
椅子ごと起されると、鏡の中から
つるんとした陶器製の顔が、
わたしを見つめてゐる。
───いいんだ、それでいいんだ。
さう言ってゐるやうな澄まし顔だ。
何がいいのか、よく分らない。

安西均
「指を洗ふ」所収
1993

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