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蜜蜂のようなものが

蜜蜂のようなものが しきりと
私のなかを 出たり入ったりする
何かを持ち込んだり
何かを持ち出したりしている
それらを私は黙って見ている
それらは私の小さな思考のようである

智慧のように草の葉の光るなかに
歩きくたびれて腰をおろした私は
そしてまた見る 大きな翼を
みるみる空遠く飛翔して行く翼を
翼だけ大きく 胴が小さいが
小さい筈だ それはさっき私が投げすてた
携帯用の人生案内書なのだ

高見順
わが埋葬」所収
1965

下降

仲良しと、いま別れたらしい
娘さんが笑みを頬にのこしたまま
六階からエレベーターに入つてきた
四階で微笑んだ口がしまり
三階で頬がかたくなり
二階で目がつめたくなり
一階で、すべては消えた
エレベーターの扉があくと
死んだ顔は
黒い雑踏のなかに入つていつた

杉山平一
声を限りに」所収
1967

letters

寝室の床、木目をうえへうえへと辿っていくと
色萎えたすみれの花びらへと突き当たる
これは紗代ちゃんのおめかしなの、と
あや子が摘んできたものだ
その花びらに刻み込まれた皺の一つを辿り
幾重にも錯綜する筋に多くのまちがいを繰り返して
やがて最初の皺がすみれの一枚の花びらを横断したころ
昇ってきたのが朝陽だった

紗代ちゃん、とは春にあや子が拾ってきた石であり
紗代ちゃん、とは僕らが迎え入れようとした
新しい家族に与えられるはずの名でもあった
まだ朝が多くを語ろうとしないうちに
それを一瞥し、居間のソファーに腰掛ける
カーテンの隙間から細い光が食卓へ伸びているのを眺めながら
昨晩義母からあった電話のことを考えていた
 呼吸をするときにね
 できるだけ吸う息と吐く息を同じくらいにするの
 そうしたらもう勝手にお腹が膨らんだりしないのよ
あや子の言葉を深刻そうに繰り返す義母を宥めて
細い、ひらすらに細い糸を両腕で抱くような
夜はいつの間にか明けていたのだ

空気清浄機のにおい、とほこり、が
一度も点灯せぬ間に太陽は高くに昇り
鋭く差し込んでいた陽光がちょうど
居間と食卓の境目で戸惑っている
何かを思い出したかのように
湯沸かし器の中の湯が沸騰をはじめたとき
玄関が開いた音がした
一晩見なかっただけのあや子は
拍子抜けするほど明るく
僕にただいま、と言い
紗代ちゃんも、とわらった
その明るさの意味を知ってしまうのが怖かった
そういえば爪を一か月ほど切っていないことに気が付いた

伸びきった陽光をカーテンで遮り
振りむきざまに目に入った寝台のランプ
薄暗い光に照らされたあや子の華奢なからだ
それは封筒にいれられていない便箋のようだった
暴力的なほどに剥き出しであるのに
厳しい戒めのもとに秘匿されている
宛てられたものだけに明かされるはずの秘密は
読まなければ誰に宛てられたものか分からないという矛盾に
頑なに隠されていた
夜も更けていくころ
あや子を抱いているのに
もがいているようだった
無数の糸にからだ中絡めとられて
それを振りほどくために

寝室に置かれた
もう何も泳いでいないはずの水槽に
何かが着水したような音とともに目が覚めた
あや子は居間のソファーに寝転んでいた
何か食べるかい、と聞くと
食べたら紗代ちゃんを返しにいかないとね、と言った
それは奇妙な驚きであり
僕はそれをうまく隠し果せたはずだ
近くの河原まで二人きりで歩く道中
あや子はちらちらと僕の方を覗き見ているようだった
ここね、という合図で立ち止まった先の風景は
見知った河原であったがもう緑に乏しく
それ故に僕は痛ましい気持ちを抱いたのかもしれない
水辺まで降りていくと
朝陽に煌かされた水が
無数のたくらみを蜂起させると同時に
それを悉く無に帰する運動のもとに
無限に流れていくのであった
あや子が隣で手を合わせていることに気が付き
僕も同じように手を合わせて目を瞑った
しばらくの時間が経って
急にあや子の手が僕の手に触れたのを感じ目を開いた
 ねえ
その声の響きはどこか新鮮で驚きに満ちていた
 あなたの手ってまるですみれみたいなのね
意味などなかったのかもしれないが
僕がその意味をわかりかねて
ふとあや子のわらっている顔に目をやると
ひとすじの涙が頬をつたった痕がある
すみれ、でなくともいい
す、と み、と れ、と
その全部で君に咲いていたいと
そう思ったのだ

芦野夕狩
現代詩投稿サイト「B-REVIEW」より転載
2018

焼けない心臓

この心は棄てられない。
いくら夢だときめていても
頑としてそこに居る。
自分のものか誰かのものか、
何しろからだの中に自活してゐて、
何処か見えない無数の天体と
あけくれ幾千年の合図をしてゐる。
ルウアンで焚き殺されたあの少女の
心臓だけが生でゐたとはほんとらしい。
己のからだも君のからだも彼のからだも、
この心にはかなはない。
いくら夢だときめてみても、
頑としてそこに居る。
手におへない。

高村光太郎
高村光太郎詩集」所収
1928

おおきな木

 おおきな木をみると、立ちどまりたくなる。芽ぶきの
ころのおおきな木の下が、きみは好きだ。目をあげると、
日の光りが淡い葉の一枚一枚にとびちってひろがって、
やがて雫のようにしたたってくるようにおもえる。夏に
は、おおきな木はおおきな影をつくる。影のなかにはい
ってみあげると、周囲がふいに、カーンと静まりかえる
ような気配にとらえられる。
 おおきな木の冬もいい。頬は冷たいが、空気は澄んで
いる。黙って、みあげる。黒く細い枝々が、懸命になっ
て、空を摑もうとしている。けれども、灰色の空は、ゆ
っくりと旋るようにうごいている。冷たい風がくるくる
と、こころのへりをまわって、駆けだしてゆく。おおき
な木の下に、何があるだろう。何もないのだ。何もない
けれど、木のおおきさとおなじだけの沈黙がある。

長田弘
深呼吸の必要」所収
1984

山之口貘君に

二人がのんだコーヒ茶碗が
小さな卓のうへにのせきれない。
友と、僕とは
その卓にむかひあふ。

友も、僕も、しやべらない。
人生について、詩について
もうさんざん話したあとだ。
しやべることのつきせぬたのしさ。

夕だらうと夜更けだらうと
僕らは、一向かまはない。
友は壁の絵ビラをながめ
僕は旅のおもひにふける。

人が幸福とよべる時間は
こんなかんばしい空虚のことだ。
コーヒが肌から、シャツに
黄ろくしみでるといふ友は
『もう一杯づつ
熱いのをください』と
こつちをみてゐる娘さんに
二本の指を立ててみせた。

金子光晴
人間の悲劇」所収
1952

墓地への石段は・・・

墓地への石段はひどく古び そしてすりへっている
そこへわたしは きょうも生きることを教わりにゆく
もしも静寂と十字路がそこになく
わたしが自らの墓地から 耳傾けることをしなかったなら
ふたたびあたらしい愛にあやされて 帰路につくことは出来なかったろう

おお このすりへらされた親しい石の傾斜!
なんと多くのおびえた魂がうつむきながら行っただろう
あるいは涙を 嘆きを 小さな木箱にかたみして
だれもがそれを踏みしめていった そして
悲しみがいつも人々には重すぎたから
石はやさしく歪まなければならなかった
ここにくちづけるおおきな慈愛をもつものは
おそらくあの ありなしの風だけだろう

昇天をむしろ拒み 忘れられて土のなかにと拡がった
ついにひとりでしかなかった魂たちの表情をふかぶかと刻んで
いま 石段は明るい陽すじに影をつくり
ひろびろと樹脂の匂いを漂わせている墓地にむかって
あの はじめての子守唄のように静かだ

伊藤海彦
黒い微笑」所収
1960

忠告

白い小さな花がいつぱい咲きこぼれている
掃き溜めのところで
(背のびをすれば曙の海の見える)
あの胴長女が言つたことを思い出すがいい
そして急いで自分の家に帰つてみることだ
もうまる三週間も汐かぜに吹かれていたのだから
罵りさわいだ腹の虫もすつかりおさまつているだろう
それ以上 本当にそれ以上遠いところのない心のはてに来たのだから
その深い悲しみを話してみるがいい
誰にというのか
誰もいなければやつぱりきみ自身に話すことだ
もしきみがいなかつたら
もしきみがいなかつたらと言うのか
それから先きはぼくにはなにも分らない

嵯峨信之
「愛と死の数え唄」所収
1957

不出来な絵

この絵を貴方にさしあげます

下手ですが
心をこめて描きました

向こうに見える一本の道
あそこに
私の思いが通っております

その向こうに展けた空
うす紫とバラ色の
あれは私の見た空、美しい空

それらをささえる湖と
湖につき出た青い岬
すべて私が見、心に抱き
そして愛した風景

あまりにも不出来なこの絵を
はずかしいと思えばとても上げられない
けれど貴方は欲しい、と言われる

下手だからいやですと
言い張ってみたものの
そんな依怙地さを通してきたのが
いま迄の私であったように
ふと、思われ
それでさしあげる気になりました

そうです
下手だからみっともないという
それは世間体
遠慮や見得のまじり合い
そのかげで
私はひそかに
でも愛している
自分が描いた
その対象になったものを
ことごとく愛している
と、きっぱり思っているのです

これもどうやら
私の過去を思わせる
この絵の風景に日暮れがやってきても
この絵の風景に冬がきて
木々が裸になったとしても
ああ、愛している
まだ愛している
と、思うのです
それだけ、それっきり

不出来な私の過去のように
下手ですが精一ぱい
心をこめて描きました。

石垣りん
私の前にある鍋とお釜と燃える火と」所収
1959

くものある日
くもは かなしい
くものない日
そらは さびしい

八木重吉
秋の瞳」所収
1925