おおきな木をみると、立ちどまりたくなる。芽ぶきの
ころのおおきな木の下が、きみは好きだ。目をあげると、
日の光りが淡い葉の一枚一枚にとびちってひろがって、
やがて雫のようにしたたってくるようにおもえる。夏に
は、おおきな木はおおきな影をつくる。影のなかにはい
ってみあげると、周囲がふいに、カーンと静まりかえる
ような気配にとらえられる。
おおきな木の冬もいい。頬は冷たいが、空気は澄んで
いる。黙って、みあげる。黒く細い枝々が、懸命になっ
て、空を摑もうとしている。けれども、灰色の空は、ゆ
っくりと旋るようにうごいている。冷たい風がくるくる
と、こころのへりをまわって、駆けだしてゆく。おおき
な木の下に、何があるだろう。何もないのだ。何もない
けれど、木のおおきさとおなじだけの沈黙がある。
長田弘
「深呼吸の必要」所収
1984