昭和十一年八月二十一日。あなたは従兄の病気見舞いのため大阪八尾の萩原家を訪れたところだ。栄次さんは重篤。少 年期から青年期にかけて心の支えであり文学上の師でもあったこの従兄がいなければ今の自分はなかった、とあなたは思う。医学の道を断念し、熊本、岡山、大 阪、東京での六年もの浪人生活の末、失意のうちに帰郷した青春時の残像が次々と脳裏を走る(竹、竹、竹……)。あの頃、ドストエフスキーを教えてくれたの も栄次さんだった(一粒の麦もし死なずば……)。詩作の苦悩を訴えたのも、成功の予感を告げたのも、処女詩集の献辞を捧げたのも、すべて栄次さんに対して だった。彼は今もあなたを「朔ちゃん」と呼ぶ。
この時あなたは、すでに七冊の詩集をもつ堂々たる詩壇の人物。一昨年に出した詩集は、自他ともに一番弟子と認める 詩人から手厳しい批評を受けたが、一方では新しい理解者をもたらした。昨年は初の小説を、この春には念願の定本詩集も出した。若い詩人たちに敬われ大手雑 誌の「詩壇時評」の担当者でもある。最近、ある詩人があなたの「抒情精神」の脆さ危うさを批判する辛辣な評論を発表したが、なんら反論もせず見過ごすくら いの余裕はすでに生れている(数年後その詩人の不安は的中することになるのだが)。
先ほどあいさつに出た小学生は栄次さんの長男で八尾萩原医院の後継者。この少年が六十年以上も後に、あなたのマン ドリン演奏のことや、親族皆でくり出した温泉旅行のことを書くことになる(*)とは、あなたは夢にも思わない。「たいそう情感を籠めた弾きかた」と、少年 が感じた楽曲は何? 酒が入ると時折弾いた古賀メロディの一節?(まぼろしの影を慕いて……)少年が目撃しそこねたという宴席で、あなたは従兄の病をしば し忘れることができたでしょうか。著名人としての自意識が少しは働いたのでしょうか。色紙などしたためて(広瀬川白く流れたり……)。つい先日、父の墓を 訪れて「過失を父も許せかし」と歌ったあなたは、たしかに半世紀を生きてきた。「父よ わが不幸を許せかし」とは「不孝」の誤り? それとも本気で「わが 不幸」を悔いていた? 「父は永遠に悲壮である」と書いたあなたは、亡父に自らを重ねていたのでしょうか。
朔太郎さん。あなたが従兄を亡くし「文学界賞」を受け「詩歌懇話会」の役員となり「日本浪漫派」同人となるこの年 のことを、ぼくはいずれ詳しく書きたいと思っています。残り少ない歳月の中であなたが最後にたどり着いた詩境(それは昭和十四年刊行の詩集『宿命』に示さ れることになるのですが)の出発点が、大阪八尾のこの夏にあるのではという、さして根拠のない直感にこだわってみたいと思うのです。この頃のあなたに特別 な興味を抱くのはぼくだけではない、と思われてしかたがないのです。五十路のあなたはすでに(栄次さんと共に)冥府をさまよっていたのかもしれません。
(*)萩原隆『朔太郎の背中』深夜叢書社
山田兼士
「微光と煙」所収
2009