理髪店

土用に入る
散髪屋が欅の木の下で仕事をする
サアボンの匂ひが村一杯に流れる
真桑瓜のやうな頭にニッケルの鋏がトンボのやうにとまる

北園克衛
夏の手紙」所収
1937

たゞ一人

この本はごく少数者むきの書物である
ひょっとすると この少数者のうち
たゞ一人さえ まだ生れていないかもしれない
そう書いて フリードリヒ・ニーチェは
一九〇〇年に その姿を没した

沈みゆく夕陽にこたえて
樹にかくれた山の家の窓が
キラリと 光を放つこともあるのだ

杉山平一
ぜぴゅろす」所収
1977

忘れた秋

持つことを秋の道でおぼえたとき
風は一つ一つの草の実に吹き
野は一日一日の夕焼を蔵った
私はそうして秋を数えていた

昔は何を語り何を聞いたのか
昔は何を待ち何をのぞんだのか
川は知っているらしかった
そうして昔の川は私の傍を流れた

昔いくつかの物語は木の下で眠り
昔いくつかの恋は木の下で別れたと
嘘をつかない楡の木は云った

けれども忘れっぽい蝶は
木の向うに足音がすることや
木の中にかくれているひとを教えてくれた

岸田衿子
「忘れた秋」所収
1955

私の欠点

あなたに手紙を書かなかつたのは私の欠点です
帆は風まかせ 私は私の手まかせ
遂に私自身にもかゝはりのない手をぶら下げて あなたに旅行鞄をお預けしなかつたのも私の欠点です。

高橋新吉
高橋新吉詩集」所収
1923

流星

マッチを擦っても
新年の雪みちには犬の影もない
ひと足ごとに
夜の音が消えてゆく
冷気を炎と感じられるほど
ひとを憎むことも
許すことも できなかった
せめて
てのひらで雪を受ければ
いつまでも溶けない冬が
ふたたび訪れることはない病室へ流れていった
それを流星と呼んでいらい
わたしの願いはどこにも届かない
それでも星は
清潔な包帯のように流れつづけた

峯澤典子
あのとき冬の子どもたち」所収
2017

その声はいまも

あの女(ひと)は ひとり
わたしに立ち向かってきた
南三陸町役場の 防災マイクから
その声はいまも響いている
わたしはあの女を町ごと呑みこんでしまったが
その声を消すことはできない

 ”ただいま津波が襲来しています
 高台へ避難してください
 海岸付近には
 絶対に近づかないでください”

わたしに意志はない
時がくれば 大地は動き
海は襲いかかる
ひとつの岩盤が沈みこみ
もうひとつの岩盤を跳ね上げたのだ
人間はわたしをみくびっていた

わたしはあの女の声を聞いている
その声のなかから
いのちが甦るのを感じている
わたしはあの女の身体を呑みこんでしまったが
いまもその声は
わたしの底に響いている

高良留美子
その声はいまも」所収
2017

陸橋

陸橋を渡つて行かう
黑くうづまく下水のやうに
もつれる軌道の高架をふんで
はるかな落日の部落へ出よう。
かしこを高く
天路を翔けさる鳥のやうに
ひとつの架橋を越えて跳躍しよう。

萩原朔太郎
蝶を夢む」所収
1923

梨の花の揺れた時

隣の小さな男の子は
藁のはみ出た人形を紐で背負い
梨の木をのぼっていったのでした

いちばん綺麗な空の色のリボンを結んで
白い花の揺れるのを
不思議な思いで眺めながら
私は葉ずれに答えました

その小枝に腰かけて
隣の小さな男の子は
私に笑いかけました

藁のはみ出た人形を紐で背負い
梨の木をのぼっていったのでした

隣の小さな男の子は
死ぬつもりだったのでしょう

吉行理恵
幻影」所収
1971

泣いている

水仙のまだぬれている茎を組んで
霜のように渡ってきていながら
架けたりないはなの茎の短さのように
架けたりない短さを
ああもこうもしてやれなかったと言って
泣いている。

三井葉子
まいまい」所収
1972

悲しき自伝

裏町にひとりの餓鬼あり、飢ゑ渇くことかぎりなければ、パンのみにては充たされがたし。胃の底にマンホールのごとき異形の穴ありて、ひたすら飢ゑくるしむ。こころみに、綿、砂などもて底ふたがむとせしが、穴あくまでひろし。おに、穴充たさむため百冊の詩書、工学事典、その他ありとあらゆる書物をくらひ、家具または「家」をのみこむも穴ますます深し。おに、電線をくらひ、土地をくらひ、街をくらひて影のごとく立ちあがるも空腹感、ますます限りなし。おに、みづからの胃の穴に首さしいれて深さはからむとすれば、はるか天に銀河見え、ただ縹渺とさびしき風吹けるばかり。もはや、くらふべきものなきほど、はてしなき穴なり。

寺山修司
田園に死す」所収
1965