手おくれの男

おでんやでは隅でよろけている椅子にすわる
するとにわかにそれはぼくだけの椅子になる
小さな所有から腰をあげると
ぼくにはいつも居住の不安定さがはっきりする

ものごとがおわってからはじめてぼくは気づくらしい
たとえば一日を吐瀉してしまった貨車のように
ぼくは夜のなかに夜よりもくろくうずくまりながら
かすかにのこる牛や陶器のにおいをさぐりあてている

あやまっておとした鏡には
みじんにくぎられた空がうつる
そこでようやくひとつらなりの天を見上げるしまつだ

―─愛と健康もうしなってはじめて切ないが

死をすら
ぼくは迎えてしまっているのではなかろうか
つねにおそってくる予感がぼくには記憶とまぎらわしい
盃をしずかに乾す
するとゆらゆらういている模様がすっとさだまる
そんなふうに死が見えているのは
これはたしかにぼくには手おくれの出来事ではあるまいか

大野新
「階段」所収
1958

詩集の美「野のひかり」

詩集の美シリーズ。今回は小網恵子さんの「野のひかり」を紹介いたします。
白いシンプルな表紙に金箔でおされた野の花と印象的な緑色のタイトルが刻印されています。

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発行は水仁舎。北見俊一さんが一人で運営してらっしゃる出版社で、編集から製本までを手がけておられます。一冊一冊を手で製本されているそうで、実際に手に取ると丁寧に作られた本であることが伝わってきます。北見さんはもともと詩学社で多くの詩集の出版に携わっておられたとのこと。

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この通り、フォントも独特の味わいがありますね。恐らく活版印刷で刷られているのではないかと推測しています。あまりくっきりしすぎていない優しい感じの書体です。

「お皿に値段が印刷されていては、おいしく食事が出来ない」という理由から本には定価やバーコード、ISBNコードが印刷されていません。ご覧のように裏側は真っ白です。

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その代わりにこのような栞がはさまっております。

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また、作者による小文も金色の箔押しで挟み込まれています。

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持っているだけで嬉しくなる「野のひかり」。もちろん装丁だけでなく、内容も素晴らしいです。さりげない日常の風景から丁寧につづられた優しい言葉に、心が癒されます。20篇の詩および散文詩が掲載されています。当サイトでは「野のひかり」から一篇「五月」を紹介させていただいております。

さて、この「野のひかり」ISBNが無いので、当然Amazonでは購入できません。置いている書店さんも恐らくめったに無いと思われます。直接水仁舎さんにお問い合わせいただくか、書店さん経由で注文ください。定価は税別1700円です。

水仁舎さまの連絡先はこちらです。

東京都東村山市久米川町2-36-41
電話 042-308-8324

五月

流れていく緑
あの中をゆっくり歩きたいと
窓の外を見ている

赤ん坊を抱いた人が乗ってきて
隣りに座る
ふっくらした赤ん坊が
澄んだ眼でこちらをしきりに見る
口元がほころぶ
赤ん坊も笑う
肩がほぐれる

あやそうとすると
赤ん坊の視線はそのままわたしに注がれて
わたしの面に真っ直ぐに注がれて
貼りつく

わたしの中で
葉がわずかにゆれ
枝々が震える
光を通さない葉の重なり

わたしの木を
赤ん坊がじっと見ている

小網恵子
「野のひかり」所収
2016

なんでも一番

凄い!
こいつはまったくたまらない
せっかくきたのに
摩天楼もみえぬ
なにがなんだか五里霧中
その筈!
アメリカはなんでも一番
霧もロンドンより深い
嘘だと思う?
職業安定所へ
行って
試してみろ!
紐育では
霧を
シャベルで
運んでいる!

関根弘
「絵の宿題」所収
1953

水のこころ

水は つかめません
水は すくうのです
指をぴったりつけて
そおっと 大切に──

水は つかめません
水は つつむのです
二つの手の中に
そおっと 大切に──

水のこころ も
人のこころ も

高田敏子
1989

パン

パンをつれて、愛犬のパンザをつれて
私は曇り日の海へ行く

パン、脚の短い私のサンチョパンザよ
どうしたんだ、どうしてそんなに嚏をするんだ

パン、これが海だ
海がお前に楽しいか、それとも情けないのか

パン、海と私とは肖てゐるか
肖てゐると思ふなら、もう一度嚏をしてみろ

パンはあちらへ行つた、そして首をふつて嚏をした
木立の中の扶養院から、ラディオの喘息持ちのお談議が聞える

私は崖に立つて、候兵のやうにぼんやりしてゐた
海、古い小さな海よ、人はお前に身を投げる、私はお前を眺めてゐる

追憶は帰つてくるか、雲と雲との間から
恐らくは万事休矣、かうして歌も種切れだ

汽船が滑つてゆく、汽船が流れてゆく
艫を見せて、それは私の帽子のやうだ

私は帽子をま深にする
さあ帰らう、パン

私のサンチョパンザよ、お前のその短い脚で、もつと貴族的に歩くのだ
さうだ首をあげて、さう尻尾もあげて

あわてものの蟹が、運河の水門から滑つて落ちた
その水音が気に入つた、――腹をたてるな、パン、あれが批評だよ

三好達治
測量船」所収
1930

青春の健在

電車が川崎駅にとまる
さわやかな朝の光のふりそそぐホームに
電車からどっと客が降りる
十月の
朝のラッシュアワー
ほかのホームも
ここで降りて学校へ行く中学生や
職場へ出勤する人々でいっぱいだ
むんむんと活気にあふれている
私はこのまま乗って行って病院にはいるのだ
ホームを急ぐ中学生たちはかつての私のように
昔ながらのかばんを肩からかけている
私の中学時代を見るおもいだ
私はこの川崎のコロムビア工場に
学校を出たてに一時つとめたことがある
私の若い日の姿がなつかしくよみがえる
ホームを行く眠そうな青年たちよ
君らはかつての私だ
私の青春そのままの若者たちよ
私の青春がいまホームにあふれているのだ
私は君らに手をさしのべて握手したくなった
なつかしさだけではない
遅刻すまいとブリッジを駆けのぼって行く
若い労働者たちよ
さようなら
君たちともう二度と会えないだろう
私は病院へガンの手術を受けに行くのだ
こうした朝 君たちに会えたことはうれしい
見知らぬ君たちだが
君たちが元気なのがとてもうれしい
青春はいつも健在なのだ
さようなら
もう発車だ 死へともう出発だ
さようなら
青春よ
青春はいつも元気だ
さようなら
私の青春よ

高見順
死の淵より」所収
1964

凝視

郊外を歩いてゐるとき
ふと私は 小川の中に立つ異様の女を見た
ぼろぼろに裂けた着物をきて
裾を露はにかかげ
浅い流れの中にぢつと立つてゐた
彼の女の足許の何かを凝視めてゐるやうに深く首を垂れてゐた

私は更に近づいた時
彼の女の微かな啜り泣の声を聴いた
彼の女は明かに狂人であつたが
しかもその例へやうのない淋しい凝視と嗚咽は
すつかり私の心を暗く囚へてしまつた
私は全ての過去を暴かれた様に狼狽した
彼の女の浅ましく衰へた愛慾の残影は
己に滅えようとしてゐた私の悔恨を
支へ様のない大きな溝の中に流し込んだ

彼の女は恐らく白紙の様な現在の心の面に
その美しい悲しい幻影を描いてゐるのではあるまいか
彼の女は唯 あるが儘の人生を其の薄い網膜の上に写して楽しんでゐるのではなからうか
私は限りなく我意な自分を思つた

自らがそのひとの罪人である様に羞恥を感じた

久しい後に彼の女が首を擡げた時
私はその鈍い雪灯のやうな瞳が
私の過去の悪戯を責めてゐるやうに思つた
彼の女は魅せられた様に 信じられない様に
なじる様に 訴へる様に 私の方を見てゐた
罪を有たないものの到底知ることの出来ない苦痛は私の心を重く圧へつけた
私は堪へ切れずに其処を去つた
併しながら私は未だにそのうるんだ女らしい声音と
おどおどしたその力無い眼の色を忘れることが出来ない

多田不二
「夜の一部」所収
1926

航海を祈る

それだけ言えば分ってくる
船について知っているひとつの言葉
安全なる航海を祈る

その言葉で分ってくる
その船が何処から来たのか分らなくても
何処へ行くのか分ってくる

寄辺のない不安な大洋の中に
誰もが去り果てた暗いくらがりの中に
船と船とが交しあうひとつの言葉
安全なる航海を祈る

それを呪文のように唱えていると
するとあなたが分ってくる
あなたが何処から来たのか分らなくても
何処へ行くのか分ってくる
あなたを醜く憎んでいた人は分らなくても
あなたを朝焼けのくれないの極みのように愛している
ひとりの人が分ってくる

あるいは荒れた茨の茂みの中の
一羽のつぐみが分ってくる
削られたこげ茶色の山肌の
巨熊のかなしみが分ってくる

白い一抹の航跡を残して
船と船とが消えてゆく時
遠くひとすじに知らせ合う
たったひとつの言葉
安全なる航海を祈る

村上昭夫
動物哀歌」所収
1967

殺戮の殿堂

人人よ心して歩み入れよ、
静かに湛へられた悲痛な魂の
夢を光を
かき擾すことなく魚のように歩めよ。
この遊就館のなかの砲弾の破片や
世界各國と日本とのあらゆる大砲や小銃、
鈍重にして残忍な微笑は
何物の手でも温めることも柔げることも出来ずに
その天性を時代より時代へ
場面より場面へ転転として血みどろに転び果てて、
さながら運命の洞窟に止まったやうに
疑然と動かずに居る。
私は又、古くからの名匠の鍛へた刀剣の数数や
見事な甲冑や敵の分捕品の他に、
明治の戦史が生んだ数多い将軍の肖像が
壁間に列んでいるのを見る。
遠い死の圏外から
彩色された美美しい軍服と厳しい顔は、
蛇のぬけ殻のやうに力なく飾られて光る。
私は又手足を失って皇后陛下から義手義足を賜はったといふ士卒の
小形の写真が無数に並んでいるのを見る、
その人人は今どうしている?
そして戦争はどんな影響をその家族に与へたらう?
ただ御國の為に戦へよ
命を鵠毛よりも軽しとせよ、と
ああ出征より戦場へ困苦へ・・・・・
そして故郷からの手紙、陣中の無聊、罪悪、
戦友の最後、敵陣の奪取、泥のやうな疲労・・・・・
それらの血と涙と歓喜との限りない経験の展開よ、埋没よ、
温かい家庭の団欒の、若い妻、老いた親、なつかしい兄弟姉妹と幼児、
私は此の士卒達の背景としてそれらを思ふ。
そして見ざる溜散弾も
轟きつつ空に吼えつつ何物をも弾ね飛ばした、
止みがたい人類の欲求の
永遠に血みどろに聞こえくる世界の勝ち鬨よ、硝煙の匂ひよ、
進軍喇叭よ、
おお殺戮の殿堂に
あらゆる傷つける魂は折りかさなりて、
静かな冬の日の空気は死のやうに澄んでいる
そして何事もない。

白鳥省吾
「大地の愛」所収
1919