凝視

郊外を歩いてゐるとき
ふと私は 小川の中に立つ異様の女を見た
ぼろぼろに裂けた着物をきて
裾を露はにかかげ
浅い流れの中にぢつと立つてゐた
彼の女の足許の何かを凝視めてゐるやうに深く首を垂れてゐた

私は更に近づいた時
彼の女の微かな啜り泣の声を聴いた
彼の女は明かに狂人であつたが
しかもその例へやうのない淋しい凝視と嗚咽は
すつかり私の心を暗く囚へてしまつた
私は全ての過去を暴かれた様に狼狽した
彼の女の浅ましく衰へた愛慾の残影は
己に滅えようとしてゐた私の悔恨を
支へ様のない大きな溝の中に流し込んだ

彼の女は恐らく白紙の様な現在の心の面に
その美しい悲しい幻影を描いてゐるのではあるまいか
彼の女は唯 あるが儘の人生を其の薄い網膜の上に写して楽しんでゐるのではなからうか
私は限りなく我意な自分を思つた

自らがそのひとの罪人である様に羞恥を感じた

久しい後に彼の女が首を擡げた時
私はその鈍い雪灯のやうな瞳が
私の過去の悪戯を責めてゐるやうに思つた
彼の女は魅せられた様に 信じられない様に
なじる様に 訴へる様に 私の方を見てゐた
罪を有たないものの到底知ることの出来ない苦痛は私の心を重く圧へつけた
私は堪へ切れずに其処を去つた
併しながら私は未だにそのうるんだ女らしい声音と
おどおどしたその力無い眼の色を忘れることが出来ない

多田不二
「夜の一部」所収
1926

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