智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
高村光太郎
「智恵子抄」所収
1941
むろん理由はあるにはあつたがそれはとにかくとして
人々が僕を嫌ひ出したやうなので僕は温しく嫌はれてやるのである
嫌はれてやりながらもいくぶんははづかしいので
つい、僕は生きようかと思ひたつたのである
暖房屋になつたのである
万力台がある鐡管がある
吹鼓もあるチェントンもあるネヂ切り機械もある
重量ばかりの重なり合つた仕事場である
いよいよ僕は生きるのであらうか!
鐡管をかつぐと僕の中にはぷちぷち鳴る背骨がある
力を絞ると涙が出るのである
ヴィバーで鐡管にネヂを切るからであらうか
僕の心理のなかには慣性の法則がひそんでゐるかのやうに
なにもかもにネヂを切つてやりたくなるのである
目につく物はなんでも一度はかついでみたくなるのである
ついに僕は僕の軆重までもかついでしまつたのであらうか
夜を摑んで引つ張り寄せたいのである
そのねむりのなかへ軆重を放り出したいのである。
山之口貘
「思辨の苑」所収
1938
なんといふ妹なんだらう
──兄さんはきつと成功なさると信じてゐます。とか
──兄さんはいま東京のどこにゐるのでせう。とか
ひとづてによこしたその音信のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた、六、七年振りに手紙を書かうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思ふのです
そんなことは書けないのです
東京にゐて兄さんは犬のやうにものほしげな顔してゐます
そんなことも書かないのです
兄さんは、住所不定なのです
とはますます書けないのです
如実的な一切を書けなくなつて
とひつめられてゐるかのやうに身動きも出来なくなつてしまひ
満身の力をこめて やつとのおもひで書いたのです
ミナゲンキカ
と、書いたのです。
山之口貘
「思辨の苑」所収
1938