あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、

ほんとの空が見たいといふ。

私は驚いて空を見る。

桜若葉の間に在るのは、

切つても切れない

むかしなじみのきれいな空だ。

どんよりけむる地平のぼかしは

うすもも色の朝のしめりだ。

智恵子は遠くを見ながら言ふ。

阿多多羅山の山の上に

毎日出てゐる青い空が

智恵子のほんとの空だといふ。

あどけない空の話である。

 

高村光太郎

智恵子抄」所収

1941

 

おとなしくして居ると

花花が咲くのねって 桃子がいう

 

八木重吉

貧しき信徒」所収

1928

人形

ねころんでいたらば

うまのりになっていた桃子が

そっとせなかへ人形をのせていってしまった

うたをうたいながらあっちへいってしまった

そのささやかな人形のおもみがうれしくて

はらばいになったまま

胸をふくらませてみたりつぼめたりしていた

 

八木重吉

貧しき信徒」所収

1928

潮音

わきてながるゝ

やおじおの

そこにいざよう

うみの琴

しらべもふかし

もゝかわの

よろずのなみを

よびあつめ

ときみちくれば

うらゝかに

とおくきこゆる

はるのしおのね

 

島崎藤村

若菜集」所収

1897

白壁

たれかしるらん花ちかき

高楼われはのぼりゆき

みだれて熱きくるしみを

うつしいでけり白壁に

 

唾にしるせし文字なれば

ひとしれずこそ乾きけれ

あゝあゝ白き白壁に

わがうれいありなみだあり

 

島崎藤村

若菜集」所収

1897

千曲川旅情の歌

昨日またかくてありけり

今日もまたかくてありなん

この命なにを齷齪

明日をのみ思いわずらう

 

いくたびか栄枯の夢の

消え去る谷に下りて

河波のいざよう見れば

砂まじり水巻き帰る

 

嗚呼古城なにをか語り

岸の波なにをか答う

過し世を静かに思え

百年もきのうのごとし

 

千曲川柳霞みて

春浅く水流れたり

ただひとり岩をめぐりて

この岸に愁を繋ぐ

 

島崎藤村

落梅集」所収

1901

影絵

半欠けの日本の月の下を、

一寸法師の夫婦が急ぐ。

 

二人ながらに思ひつめたる前かがみ、

さてもくどくどしい二つの鼻のシルエツト。

 

生白い河岸をまだらに染め抜いた、

柳並木の影を踏んで

せかせかと──何に追はれる、

揃はぬがちのその足どりは?

 

手をひきあつた影の道化は

あれもうそこな遠見の橋の

黒い擬宝珠の下を通る。

冷飯草履の地を掃く音は

もはや聞こえぬ。

 

半欠の月は、今宵、柳との

逢引の時刻を忘れてゐる。

 

富永太郎

富永太郎詩集」所収

1922

 

マンネリズムの原因

子の親らが

産むならちやんと産むつもりで

産むぞ、といふやうに一言の意思を伝へる仕掛の機械

親の子らが生まれるのが嫌なら

嫌です、といふやうに一言の意見を伝える仕掛の機械

そんな機械が地球の上には欠けてゐる

うちみたところ

飛行機やマルキシズムの配置のあるあたり

 たしかに華やかではあるんだが

人類くさい文化なのである

遠慮のないところ

交接が、親子の間にものを言はせる仕掛になつてはゐないんだから

地球の上ではマンネリズムがもんどりうつてゐる

それみろ

生まれるんだから生きたり

生きるんだから産んだり

 

山之口貘

思辨の苑」所収

1938

無題

むろん理由はあるにはあつたがそれはとにかくとして

人々が僕を嫌ひ出したやうなので僕は温しく嫌はれてやるのである

嫌はれてやりながらもいくぶんははづかしいので

つい、僕は生きようかと思ひたつたのである

暖房屋になつたのである

万力台がある鐡管がある

吹鼓もあるチェントンもあるネヂ切り機械もある

重量ばかりの重なり合つた仕事場である

いよいよ僕は生きるのであらうか!

鐡管をかつぐと僕の中にはぷちぷち鳴る背骨がある

力を絞ると涙が出るのである

ヴィバーで鐡管にネヂを切るからであらうか

僕の心理のなかには慣性の法則がひそんでゐるかのやうに

なにもかもにネヂを切つてやりたくなるのである

目につく物はなんでも一度はかついでみたくなるのである

ついに僕は僕の軆重までもかついでしまつたのであらうか

夜を摑んで引つ張り寄せたいのである

そのねむりのなかへ軆重を放り出したいのである。

 

山之口貘

思辨の苑」所収

1938

妹へおくる手紙

なんといふ妹なんだらう

──兄さんはきつと成功なさると信じてゐます。とか

──兄さんはいま東京のどこにゐるのでせう。とか

ひとづてによこしたその音信のなかに

妹の眼をかんじながら

僕もまた、六、七年振りに手紙を書かうとはするのです

この兄さんは

成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思ふのです

そんなことは書けないのです

東京にゐて兄さんは犬のやうにものほしげな顔してゐます

そんなことも書かないのです

兄さんは、住所不定なのです

とはますます書けないのです

如実的な一切を書けなくなつて

とひつめられてゐるかのやうに身動きも出来なくなつてしまひ

 満身の力をこめて やつとのおもひで書いたのです

ミナゲンキカ

と、書いたのです。

 

山之口貘

思辨の苑」所収

1938