原始への浪費

私はこのむづがゆさに耐えられない。

羽虫の群れる太陽の下で、

暖かい牧場を眺めてゐる。

牛は尻尾を振りながら、

しきりに虫を追つてゐる。

 

宮中に楽しく揺すれはねかえる

尾はなんと不思議な機能であらう。

世紀の昔に失くしてしまつた長い尾を、

弾力ある紐のやうなものを、

この日向で一心に振りたい、振りたい。

あの尾を私に恵んで下さい。

 

私は臀部に力を入れて、

肉塊の神経のむづかゆい

背部を歪め、感覚を散らし、

尾閭骨に私は焦心する。

こんな明るい日中にゐて、

官能の秘密に耐えられない。

 

古化草原よ。

旧世界。

退化の感覚を抱く母は、

この感情の帰る郷土は、

どこの地平にあるのだらう。

過去は尾を奪ひ毛皮を奪ひ、

石器を、神話を、奪つてしまつた。

精胚のやうに衝動する

名づけやうもない遺伝の影を、

胸に悲しく感ずるばかりだ。

 

地峡の明るい風を浴び、

懶怠も日光に乾いてしまひ、

私の夢は昇天する。

 

獣のやうに草に腹匍ひ、

はかない獣の感情を入れて、

野生の、本能の匂ひをかぐ。

あの空に遠く高く、

荒誕祖先の楽園を呼ぶ。

歴史のむかうに沈んでしまつた

朧ろな原始へ帰らう、帰らう。

 

私はこのむづかゆさに耐えられない。

 

石川善助

亜寒帯」所収

1936

 

或る話

(辞書を引く男が疲れてゐる)

 

「サ」の字が沢山列らんでゐた

サ・サ・サ・サ・サ・・・・・・と

 

そこへ

黄色の服を着た男が

路を尋ねに来たのです

 

でも

どの「サ」も知つてゐません

黄色の服はいつまでも立つてゐました

 

ああ──

どうしたことか

黄色い服には一つもボタンがついてゐないのです

 

尾形亀之助

色ガラスの街」所収

1925

今日は針の気げんがわるい

今日は針の気げんがわるい

 

三度も指をつついてしまつたし

なかなか 糸もとほらなかつた

プッツ プッツ プッツ プッツ ──

針は布をくぐつては気げんのわるい顔を出しました

 

「お婆さん お茶にしませう」と針が

だが

お婆さんは耳が遠いので聞えません

 

尾形亀之助

色ガラスの街」所収

1925

猫の眼月

嵐がやんで

大きくくぼんだ空に

低く 猫の眼のような月が出てゐる

私の静物をぬすんでいつたのはお前にちがひない──

嵐のあとを

お前がいくら猫の眼に化けても

お前に眼鏡をとられるようなことのないやうにさつきから用心してゐる

 

尾形亀之助

色ガラスの街」所収

1925

 

病気

ヤサシイ娘ニイダカレテヰル トコロカラ私ノ病気ガ始マリマシタ

 

私ハ バイキンノカタマリニナツテ

娘ノ頬ノトコロニ飛ビツキマシタ

娘ハ私ヲ ホクロトマチガヘテ

丁度ヨイトコロニイル私ヲ中心ニシテ化粧ヲシマス

 

尾形亀之助

色ガラスの街」所収

1925

散歩

とつぴな

そして空想家な育ちの心は

女に挨拶をしてしまつた

たしかに二人は何処かで愛しあつたことがあつた筈だと言ふのですが

そのつれの男と言ふのが口髭などをはやして

子供だと思つて油断をしてゐたカフヱーのボーイにそつくりなのです

 

尾形亀之助

色ガラスの街」所収

1925

ある来訪者への接待

どてどてとてたてててたてた

たてとて

てれてれたとことこと

ららんぴぴぴぴ ぴ

とつてんととのぷ

んんんん ん

てつれんぽんととぽれ

 

みみみ

ららら

らからからから

ごんとろとろろ

 

ぺろぺんとたるるて

 

尾形亀之助

色ガラスの街」所収

1925

野茨に鳩

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

春はふけ、春はほうけて、

古ぼけた、草家の屋根で、よ。

日がな啼く、白い野鳩が、

啼いても、けふ日は逝つて了ふ。

 

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

庭も荒れ、荒るるばかしか、

人も来ぬ葎が蔭に、よ。

茨が咲く、白い野茨が、

咲いても、知られず、散つて了ふ。

 

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

何を見ても、何を為てもよ、

ああいやだ、寂しいばかりよ。

椅子が揺れる、白い寝椅子が、

寝椅子もゆさぶりや折れて了ふ。

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

日は永い、真昼は深い。

そよ風は吹いても尽きず、よ。

ただだるい、だるい、ばかり、よ、

どうにもかうにも倦んで了ふ。

 

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

空は、空は、いつも蒼い、が、

わしや元の嬰児ぢやなし、よ。

世は夢だ、野茨の夢だ、

夢なら、醒めたら消えて了ふ。

 

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

気はふさぐ、身体は重い、

おおままよ、ねんねが小椅子、よ。

子供げて、揺れば揺れよが、

溜息ばかりが揺れて了ふ。

 

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

昨日まで、堪へても来たが、

明日ゆゑに、今日は暗し、よ。

人もいや、聞くもいやなり、

それでも独ぢや泣けて了ふ。

 

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

心から、ようも笑へず。

さればとて、泣くに泣けず、よ。

煙草でも、それぢや、ふかそか、

煙草も煙になつて了ふ。

 

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

春だ、春だ、それでも春だ。

白い鳩が啼いてほけて、よ、

白い茨が咲いて散つて、よ、

かうしてけふ日も暮れて了ふ。

 

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

日は暮れた、昔は遠い、

世も末だ、傾ぶきかけた、よ。

わしや寂びる、いのちは腐る、

腐れていつかと死んで了ふ。

 

おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、

おお、ほろほろ。

ほろほろ、ほろろん、

おお、ほろほろ……

 

北原白秋

水墨集」所収

1923

春望詞

風花日將老

佳期尚渺渺

不結同心人

空結同心草

 

薜濤

831

 

春のをとめ

 

しづ心なく散る花に

なげきぞ長きわが袂

情をつくす君をなみ

つむや愁ひのつくづくし

 

佐藤春夫

車塵集」所収

1929

秋刀魚の歌

あはれ

秋風よ

情あらば伝へてよ

──男ありて

今日の夕餉に ひとり

さんまを食ひて

思ひにふける と。

 

さんま、さんま

そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて

さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。

そのならひをあやしみてなつかしみて女は

いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。

あはれ、人に捨てられんとする人妻と

妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、

愛うすき父を持ちし女の児は

小さき箸をあやつりなやみつつ

父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。

 

あはれ

秋風よ

汝こそは見つらめ

世のつねならぬかの団欒を。

いかに

秋風よ

いとせめて

証せよ かの一ときの団欒ゆめに非ずと。

あはれ

秋風よ

情あらば伝へてよ、

夫を失はざりし妻と

父を失はざりし幼児とに伝へてよ

──男ありて

今日の夕餉に ひとり

さんまを食ひて

涙をながす と。

 

さんま、さんま

さんま苦いか塩つぱいか。

そが上に熱き涙をしたたらせて

さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。

あはれ

げにそは問はまほしくをかし

 

佐藤春夫

我が一九二二年」所収

1923