Category archives: 1970 ― 1979

野生の童話

どんなに哀切にあける朝でも
一房の葡萄のようなかがやきがある
どんなにむざんに昏れる夜でも
ひっそりと開眼してゆく怒りがある
それを信じて
ぼくはどこでもない場所に坐り込んでは
ひとりふるい器に新しい酒を注ぎ
傾く日のふかさについて
考える
踏みはずしてきた故郷の
ぬかるみで湯気をたてていた馬糞
杉の家に悪口のように吹き込む風の音や
おそろしい静寂を運んでくる
初雪の足音を告げる猟銃の遠い音・・・・
あの地はぼくの野生の童話だ
いつも凶悪な無意味さに目覚めていて
ことばの床を踏みぬいて
放心した若い両親が
にくしみさえも失って立ちつくしていたりした
つらくひえ込む雪の朝など
ぼくは洗面器のひかりに小さな両手をつきながら
錐のように考え込んだものだった
でも欲しかったものはただひとつ
書いてもつきぬノートの一束
そのたましいの余白
日々はただ
夢破れた父を眠らす山河の上で
ごうごうたる吹雪のように鳴ったのか
あゝ無数の紙片が闇の中に散ってゆく
教室の余白に描かれたさみしい漫画や
野火のような前線を走る記憶も
そしていまはあっけなく死にゆくひとびとの片がわで
咳をしたり
笑いあったり
うらぎりうらぎられる
意識の地下道ばかりを這っている
だから野の水をのみながら
勇気や狂気にちかいきよらかな脚韻に耳をすまし
<時>の奈落で浮沈しているのだが
それでなくてもときどきぼくは
底のないまっさおな目で
異様にあかるく
酔っぱらっているらしいんだ

清水昶
「夜の椅子」所収
1976

白いシクラメン

いま
ちょうどななつめのしくらめんのはなが
ひらいたところです
はくちょうよりもしろく
うなじをたかくもたげて
いま ちょうど
ななつめのしくらめんのはなが
さいたばかりです
しはすのしろいひかりのなかで
はねをこころもちうしろにひいて
いまにもとびたとうとするちょうのような
ななつめのしろいしくらめんのはなを
ただひたすらみつづけていると
せかいはひどくしずまりかえり
すきとおり
なにもかもがまるで
えいがのらすと・しいんのように
うつくしくとおざかっていくのがわかります
なぜあれほど
たったひとつのらちもないことばに
こだわりつづけていたのだろう
なぜにくむのかなぜかなしむのか
わたしのなかで
ほぐしようもなくむすぼれていたおもいが
しろいしくらめんのはなびらのうえを いま
やわらかくほどけながらとおくとおく
とおざかっていくのがみえます

征矢泰子
「綱引き」所収
1977

私の夜

別れるとき もう次の約束をしなくなった
〝さようなら〟 のあと
〝ではまたいつか〟 の言葉をそえるだけで
地下鉄の階段を 右と左に別れて降りていく
振り返る ということも もうないことを思って
私も振りむくことをやめている

夜になると この夏 日和佐の砂浜で見た
海亀の産卵の姿を思っている
四肢を砂に埋めて 見開いた目を空にむけて
長い苦しみの時間をかけて産み落とす卵は
いままで私の見たものの中で もっとも美しいものとして目に残り
薄紅色の 真珠色の
あたたかく やわらかく
私のてのひらの中に ちょうど包めそうな
光の珠は
ひとの姿を形づくる前の
宿ったばかりの ひとのいのちそのものと
同じに違いない

亀はその淡々しい 美しいいのちを砂に埋めて
自然の手にまかせたまま 星明かりの海に帰っていった

重く疲れた体を引きずり
波打ちぎわにたどりつくまでの長い時間も
亀は 振りむくことをしなかった
振りむくことを期待して 波間にかくれるまでを見送った私の感傷を
灯を消した床の中で 私は笑ってみる

動物も植物も 愛などという面倒な感情は不要なのだ
犬や猫 猿の生態に愛を認めるのも
人の感傷に過ぎないのではないか
彼らは 愛よりも生そのものを 見事に行動しているのだ

愛を断ち切ったり 紡いだり
それも至極個人的な感情の中での操作をくり返している日々に
何がある?

亀は 産卵の傷ましい疲労からとうに回復しているだろう
生み落とした卵のどれほどが生を全うして
海に帰って来るかを 思うこともなく
すべて自然のまま
海底に 心静かに 忠実に
生を呼吸しているだろう

〝またいつか〟 の言葉の意味の重さ 軽さ
そのどちらとも計りかねて 胸に手を置くと
私の生が忠実に 生を鼓動していることに気づく
私も 星明かりの海の 深みへと降りてゆく
私の夜

高田敏子
むらさきの花」所収
1976

フェルナンデス

フェルナンデスと
呼ぶのはただしい
寺院の壁の しずかな
くぼみをそう名づけた
ひとりの男が壁にもたれ
あたたかなくぼみを
のこして去った
  〈フェルナンデス〉
しかられたこどもが
目を伏せて立つほどの
しずかなくぼみは
いまもそう呼ばれる
ある日やさしく壁にもたれ
男は口を 閉じて去った
  〈フェルナンデス〉
しかられたこどもよ
空をめぐり
墓標をめぐり終えたとき
私をそう呼べ
私はそこに立ったのだ

石原吉郎
斧の思想」所収
1970

鬼わたり

死んでいこうとするのと ひきとめようとするのと ふたりきりの病室になると まるで恋人たちのように春めいてきて うす青い草っぱのように 風になびいてしまうのだ 鬼がわたっているためだろうか

岡安恒武
「湿原 岡安恒武詩集」所収
1971

争う ─ 静

青空を仰いでごらん。
青が争っている。
あのひしめきが
静かさというもの。

吉野弘
北入曽」所収
1977

うたを うたうとき

うたを うたう とき
わたしは からだを ぬぎすてます

からだを ぬぎすてて
こころ ひとつに なります

こころ ひとつに なって
かるがる とんでいくのです

うたが いきたい ところへ
うたよりも はやく

そして
あとから たどりつく うたを
やさしく むかえてあげるのです

まど・みちお
まめつぶうた」所収
1973

鳥よ
おまえは
羽があるために
そのことで戸惑うことは
ないか?
ないだろうな
だから
羽があるのだろうな

川崎洋
海を思わないとき」所収
1978

鋼鉄の板の小さく円い穴

 駅のプラットフォームに通じる階段か、大学の教室に向かう階段か、あるいは、音楽会の会場の入口に達する階段か。それはよくわからない。とにかく、眼の前にあるこの長い階段を、自分なりに全速力で駈け昇って行かなければ、間に合わない。自分の腕時計も、壁にかかっている大きな時計も、ある切迫した同じ時刻を指している。
 家に帰る終電車にか、一年間いっしんに勉強して準備した入学試験にか、それとも、二度と聴けない名人ヴァイオリニストの演奏会にか。それはよくわからない。とにかく、のんびりしていると、決定的に間に合わないのである。
 それで私は、じつに勢よく階段を駈け昇った。二十二段ぐらいはあっただろうか。そこで踊り場となっていた。このあとは、左のほうへ直角に曲って十歩ほど走り、そこでまた左のほうへ直角に曲れば、つぎに昇る階段が待っているはずである・・・・・。はじめての階段について、私はなぜかそんなふうに心得ていた。
 ところが、そうではなかった!
 踊り場を、まず左の方へ直角に曲って、五、六歩なお勢よく走りつづけたとき、私の体は、不意に宙に浮いた。なんという驚愕。踊り場は途中で切れていて、その先はなにもなかったのだ。
 空中の高いところに投げだされ、まったく度を失った私の心は、それでもとっさに、右手の中指を踊り場の端にひっかけさせていた。そこのところをよく見ると、床は敷石でもコンクリートでもなく、部厚い鋼鉄の板で、その端にあいている小さな円い穴に、指を一本ひっかけた恰好になっている。
 その矩形の鋼鉄の板は、地下工事が行われている上などに、たくさん整然と並べて張られ、その上を人間や自動車が通れるようにするところの、あの蓋いである。膨張する都会に住んでいる人間にとっては、おなじみのものだろう。
 ずいぶん前のことであるが、女のひとのハイヒールの踵の先がほっそりと小さかった頃、町を颯爽と歩いていた若い女のその踵が、この鋼鉄の板の小さく円い穴にスッポリ入って、彼女がたいへん困っているのを、私は見たことがある。そのとき、ゴーストップの信号の色が変っても、靴がなかなか抜けず、何人かの通行人は立ちどまって、心配そうに彼女のしぐさを眺めていた。それ以来、あの小さく円い穴をなんとなく危険なもの、しかしまた、そこから地下を覗く好奇心をそそったりする、なんとなくユーモラスなもの、というふうに私は感じてきていた。
 踊り場から墜落する寸前に、その穴と、かくも親しく面と面をつきあわせてめぐり逢おうとは!人生とはまったく奇妙なものだ。見おろすと、遥か下は、不気味にひろがる海である。青黒い波。ところどころ、白く波頭がくだけている。もう、絶体絶命だ。泣くひまもない。
 私は、人生最後の縁であったその穴にかけた中指一本で海の上にぶらさがっている。その指が鋼鉄の板から離れるのは、あるいは、その指がちぎれるのは、あと一、二分の問題だろう。私は肥りすぎた。それで、ひどい罰があたったのだ。指一本の力をきっかけにして、鋼鉄の板の上に這いあがることは、もともと機械体操などが下手であった私にとっては、もはやどのようにしても不可能だろう。
 私ははげしく後悔していた。
 家内が私の肥りすぎを心配して数箇月やってくれたなんとか式痩せる食事法で、私は一時ほんとうに十二キロも痩せていたのである。その頃はバンドの端も七センチほど切りつめたし、自分の靴の紐もわりに楽に結べたものである。それだのに、夜中に一人でそっと起きては饅頭や、海苔で包んでぎゅっと握った飯や、ソーセージや、りんごなどを食べ、また、たまには、ナチュラル・チーズでコニャックをちょっぴり飲んだりして、いつのまにか、元の体重に戻ってしまったのだ。

清岡卓行
「夢を植える」所収
1976

鍋一つ

わが家のフライパン
すんなりと伸びた柄の先に
指の強さを確かめて
輪になる鍋の底
この日ごろ油乏しく
色艶はなけれども
熱き湯をジュッと鳴らし
心ゆくまで拭きこみて
太古のの赭鏡の如く
重き光に充ち足り
きょうひと日この鍋に頼りて
雑雑の糧を創意に温む
明日のマナを信じ
つつましくもあるか
鉄うすき鍋一つ

港野喜代子
「港野喜代子選集」所収
1976