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私の墓は

私の墓は
なに気ない一つの石であるように
昼の陽ざしのぬくもりが
夕べもほのかに残っているような
なつかしい小さな石くれであるように

私の墓は
うつくしい四季にめぐまれるように
どこよりも先に雪の消える山のなぞえの
多感な雑木林のほとりにあって
あけくれを雲のながれに耳かたむけているように

私の墓は
つつましい野生の花に色彩られるように
そして夏もすぎ秋もすぎ
小さな墓には訪う人もたえ
やがてきびしい風化もはじまるように

私の墓は
なに気ない一つの思出であるように
恋人の記憶に愛の証しをするだけの
ささやかな場所をあたえられたなら
しずかな悲哀のなかに古びてゆくように

私の墓は
雪さえやわらかく積るように
うすら明るい冬の光に照らされて
眠りもつめたくひっそりと雪に埋れて
しずかな忘却のなかに古びてゆくように

日塔貞子
「私の墓は」所収
1949

二元論

夕方戸を閉る、戸の内にも夕暮れがある。
明け方戸を開ける。戸の内にも夜明けがある。

菱山修三
「盛夏」所収
1946

松の針

  さつきのみぞれをとつてきた
  あのきれいな松のえだだよ
おお おまへはまるでとびつくやうに
そのみどりの葉にあつい頬をあてる
そんな植物性の青い針のなかに
はげしく頬を刺させることは
むさぼるやうにさへすることは
どんなにわたくしたちをおどろかすことか
そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ
おまへがあんなにねつに燃され
あせやいたみでもだえてゐるとき
わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり
ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた
      
(ああいい さつぱりした
まるで林のながさ来たよだ)

鳥のやうに栗鼠のやうに
おまへは林をしたつてゐた
どんなにわたくしがうらやましかつたらう
ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ
   
おまへの頬の けれども
   なんといふけふのうつくしさよ
   わたくしは緑のかやのうへにも
   この新鮮な松のえだをおかう
   いまに雫もおちるだらうし
   そら
   さわやかな  
   terpentineの匂もするだらう

宮沢賢治
春と修羅」所収
1922

田舎のモーツァルト

中学の音楽室でピアノが鳴っている。
生徒たちは、男も女も
両手を膝に、目をすえて、
きらめくような、流れるような、
音の造形に聴き入っている。
そとは秋晴れの安曇平、
青い常念と黄ばんだアカシア。
自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
新任の若い女の先生が孜々として
モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。

尾崎喜八
「田舎のモーツァルト」所収
1966

私のSkelton(骸骨)

骸骨が歩く 宙づりになって
空洞の目にはスクリーン
映りはするが感じはしない

骸骨に恋をしかけ 未来を語る
そのおかしさに
骸骨は誰にも見えない涙を流す

血はもう流した 好きなだけ
骨はからから乾いていく
埋められるのも もう諦めた

粉々に崩れゆくのを 待つばかり
その気楽さに
骸骨は痙攣して笑う

廣津里香
「廣津里香詩集」所収
1967

ふらふらと

たつた一つしかない猿股を
洗つてほしておいたら
ぬすまれた。
仕方はない!
なんにもはかないで
ふらふらと
職をさがしてあるいた。
十月ももう末の頃
秋風が股からひやひやと
ひとへものでは寒かつた。

木山捷平
」所収
1927

(川の名が私の住む町の名である、そのことを意識することもなく、わたしは、川のむこうがわへ出かけ、川のむこうがわから帰ってくる。)

ひとりの男が、厚ぼったい黒い布のようなものを、はげしくふりまわしている。対岸の堤防の上。もうひとりの男を殴りつけているらしい。空は低く垂れさがっていて、殴りつけている男も、殴りつけられている男も、はだかだ。いま、陽は没していくところだ。草のゆれている部分が左へ左へと移動する。上流の、葦のしげみのむこうに、ふいに馬の頭部があらわれる。空は低く垂れさがっていて、いま、鋭くひかるものがうちおろされるところだ。馬が、いかだにのった馬の全体が、みえてくる。二頭の馬は、流れに横むきになって、うごかず、水道の蛇口のような首をつきだしている。そのまなざしのさきで、ふくらむ水。なめるように、馬の腹の下を風が吹きぬける。馬の腹部から這いでた男が、ななめに、水を裂いて棹をつきいれる。すぐに棹はたぐられる。光のつぶつぶがはしる。いかだ師のひくいつぶやきが、ひくいつぶやきのまま、川の幅だけひろがる。空は低く垂れさがっていて、ねばりつく空気のなかを、はだかの男が泳ぐように、堤防から川っぷちの道にはしる。頭髪が草とともにそよぐ。ふたつの黒い影から、川づらへむけて、舌うちのように砂利がはねる。あそこには、おそろしいものが隠されているのだ。あの道はそのさきで曲り、坂につづき、坂をのぼりつめて、わたしの家までつづくのだ。空は低く垂れさがっていて、わたしは、馬の眼のなかにとらえられたまま、五寸釘となり、小さな黒点となる。川が大きくうねっていくところで、わたしは、消える。

山本哲也
冬の光」所収
1979

「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」より(2)

記憶ノ海ノソノ底デ
アナタガドンナニ忘レテモ
アノ日ノアナタヲ照ラシテル
アナタヲココマデツレテキタ
クジラノ目ヲシテミマモッタ
クラゲノテトテデツナガッタ
ドンナニ遠ク離レテモ
カレガ消エ
イツカアナタガ潰エテモ
アノヒノアナタヲ照ラシテル
イマコノトキモ
照ラシツヅケル
見エナイ灯リ
消セナイ灯リ

カニエ・ナハ
「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」所収
2015

木のあいさつ

ある日 木があいさつをした
といっても
おじぎをしたのでは
ありません
ある日 木が立っていた
というのが
木のあいさつです
そして 木がついに
いっぽんの木であるとき
木はあいさつ
そのものです
ですから 木が
とっくに死んで
枯れてしまっても
木は
あいさつしている

ことになるのです

石原吉郎
日常への強制」所収
1970