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憂鬱なる花見

憂鬱なる櫻が遠くからにほひはじめた
櫻の枝はいちめんにひろがつてゐる
日光はきらきらとしてはなはだまぶしい
私は密閉した家の内部に住み
日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる
その卵や肉はくさりはじめた
遠く櫻のはなは酢え
櫻のはなの酢えた匂ひはうつたうしい
いまひとびとは帽子をかぶつて外光の下を歩きにでる
さうして日光が遠くにかがやいてゐる
けれども私はこの暗い室内にひとりで坐つて
思ひをはるかなる櫻のはなの下によせ
野山にたはむれる青春の男女によせる
ああいかに幸福なる人生がそこにあるか
なんといふよろこびが輝やいてゐることか
いちめんに枝をひろげた櫻の花の下で
わかい娘たちは踊ををどる
娘たちの白くみがいた踊の手足
しなやかにおよげる衣裝
ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあつてゐることか
花見のうたごゑは横笛のやうにのどかで
かぎりなき憂鬱のひびきをもつてきこえる。
いま私の心は涙をもてぬぐはれ
閉ぢこめたる窓のほとりに力なくすすりなく
ああこのひとつのまづしき心はなにものの生命をもとめ
なにものの影をみつめて泣いてゐるのか
ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで
遠く花見の憂鬱なる横笛のひびきをきく。

萩原朔太郎
青猫」所収
1923

繭とお墓

蚕は繭に
はいります、
きゅうくつそうな
あの繭に。

けれど蚕は
うれしかろ、
蝶々になって
飛べるのよ。

人はお墓へ
はいります、
暗いさみしい
あの墓へ。

そしていい子は
翅が生え、
天使になって
飛べるのよ。

金子みすゞ
空のかあさま」所収
1924

月の出

今東の空をみたら山火事かと驚いた。一めんにあかく彩られていた。何事かと思ってみていると月の出るところ。
電力時計がカチリと長針をすすめるように、ほとばしるような力をこめて月がのし上る。又出た。又出た。もう半分くらい出た。
その色は赤銅色のかがやきだ。
全部あらわれた時煤色のヴェールがその表面をすーっとかすめた。
すっかり出た時かがやきは失われ、ただ赤爛色の円盤になった。

永瀬清子
「薔薇詩集」所収
1958

空想と願望

噴火口のあとともいふべき、山のいただきの、さまで大きからぬ湖。
あたり圍む鬱蒼たる森。
森と湖との間ほぼ一町あまり、ゆるやかなる傾斜となり、青篠密生す。
青篠の盡くるところ、幅三四間、白くこまかき砂地となり、渚に及ぶ。
その砂地に一人寢の天幕を立てて暫く暮し度い。
ペンとノートと、
愛好する書籍。
堅牢なる釣洋燈、
精良なる飮料、食料。
石楠木咲き、
郭公、啼く。

誰一人知人に會はないで
ふところの心配なしに、
東京中の街から街を歩き、
うまいといふものを飮み、且つ食つて廻り度い。

遠く望む噴火山のいただきのかすかな煙のやうに、
腹這つて覗く噴火口の底のうなりの樣に、
そして、千年も萬年も呼吸を續ける歌が詠み度い。

遠く、遠く突き出た岬のはな、
右も、左も、まん前もすべて浪、浪、
僅かに自分のしりへに陸が續く。
そんなところに、いつまでも、いつまでも立つてゐたい。

いつでも立ち上つて手を洗へるやう、
手近なところに清水を引いた、
書齋が造り度い。

咲き、散り、
咲き、散る
とりどりの花のすがたを、
まばたきもせずに見てゐたい。
萌えては枯れ、
枯れては落つる、
落葉樹の葉のすがたをも、
また。

山と山とが相迫り、
迫り迫つて
其處にかすかな水が生れる。
岩には苔、
苔には花、
花から花の下を、
傳ひ、滴り、
やがては相寄つて
岩のはなから落つる
一すぢの絲のやうな
まつしろな瀧を、
ひねもす見て暮し度い。

いつでも、
ほほゑみを、
眼に、
こころに、
やどしてゐたい。

自分のうしろ姿が、
いつでも見えてるやうに
生き度い。

窓といふ
窓をあけ放つても、
蚊や
蟲の
入つて來ない、
夏はないかなア。

日本國中の
港といふ港に、
泊まつて歩き度い。

死火山、
活火山、
火山から
火山の、
裾野から、
裾野を
天幕を擔いで、
寢て歩きたい。

日本國中にある
樹のすがたと、
その名を、
知りたい。

おもふ時に、
おもふものが、
飮みたい。

欲しい時に、
燐寸よ、
あつて呉れ。

煙草の味が、
いつでも
うまくて呉れ。

或る時に
可愛いいやうに、
妻と
子が、
可愛いいと
いい。

おもふ時に
降り
おもふ時に
晴れて呉れ。

眼が覺めたら
枕もとに、
かならず
新聞が
來てるといい。

庭の畑の
野菜に、
どうか、
蟲よ、
附かんで呉れ。

麥酒が
いつも、
冷えてると、
いい。

若山牧水
樹木とその葉」所収
1924

夕方の田園調布

僕が石柱の門札をのぞきこんでゐると
パトカーが止まつて 一人の警官が下りて来た
「どちらかお探しですか」
「いや別にさういふわけではない」
僕はそつぽを向きながらさう言つて歩みをつづけた

行きながらしばらくたつて
(あれは親切だつたのかもしれないな)
僕はそんな反省もした
ふと振り向くと
坂を下りて来るさつきの警官の姿が見えた
「あなたはオオタカオルさんですか」
さう言はれて僕は「ちがひます」とは言はなかつた
「その人はどういふ人ですか」
「家出人です」
「そのオオタといふ人は僕のやうに黒い帽子をかぶり大きいカバンを持つてゐるのですか」
「本署からの手配によるとさうなのです」
「あなたは黒い帽子をかぶり大きなカバンを持つてゐる人はみんなオオタカオルだといふのですか」
「冗談ぢやない」
警官と僕は長い時間睨みあつて立つてゐた
「尾行は勝手にしたらいいのだ
無線で連絡しあつたらいい
白線の外を歩いたら道路交通法でひつかけたらいい
僕のやうな年頃の老人はやたらに警官なんかに語しかけられたくないんだ
予供の頃悪いことをするとお巡りさんが来るよと言つて育てられてゐる
青年の時代は 人間として当然の思想を持つただけでブタ箱に入れられるといふおそろしい思ひもした
日本特高警察史をひもといてみたまへ」
僕は「ひもとく」といふ古語を使つた
桜の大木は枝を路上まで伸ばしてゐた
傷んで変色した葉を路上に降らしてゐた
「君はコーヒーをのみに行く一人の老人の散歩を滅茶滅茶にした」
ああ 夕方の田園調布
若い警官とは握手して別れた
グローブのやうな大きな手をしてゐた

しかし考へてみれば
ああ タ方の田園調布
曲り角の小さな旅館で僕は二時間の情事を持つたことがある
心の中の警官がいまも僕を追跡してゐるやうな気もする

桜の大木は枝を路上まで伸ばしてゐる
傷んで変色した葉を路上に降らしてゐる

小山正孝
「山居乱信」所収
1986

蜜はなぜ黄色なのか

蜜はなぜ黄色なのか?
永遠に
瞑想的でなく
愛することもなく
虎のように
フォルムを所有する
秋の青空はあくまで疾走し
眼と眼は暗く
向きあった男と女の立体感覚!
内臓へまでとどく
四つの腕の様式美
求めている森の
紅葉の錦
いま近づけば発火する?
格子を出てゆく金蠅
かくてモノトーンの夜を
なまめかしい水槽で
恋する幽霊
水の回転する泡の苦界の
男声・女声
ながながと哭く老婆
ながながと鳴くウグイス
白地に赤く
燃えるランジェリー
燃えるフロア
コカコーラの壜のうしろの沖を
走るあらゆる船は静止し
蜜のような物質で
徐々に包まれる

吉岡実
神秘的な時代の詩」所収
1974

泣かないで

母よ母よ
たうとうあなたは間違へてしまった
毎日みてゐる娘の顔を

<この子は早く母親に死に別れて
 わたしが子供のやうに育てたのよ・・・>
死んだ末の妹と間違へたのか
嫁に行った孫と間違へたのか
それから台所のすみにうづくまって
オイオイ泣いた
<何もわからなくなっちゃった
 何もわからなくなっちゃった>

わたしよ
鏡ののなかに 一本づつふえてゆくシラガを
そんなにもやすやすと じぶんにゆるすのなら
(まして)
老いてゆく母をゆるさねばならない
母が老いてゆくこと を―

あなたにはじめて腕相撲で勝ったむかし
わたしは笑ひながら
たくさん泣いた
けふはあなたが泣いたので
わたしは笑はうと必死だったのだ
<まあ奥さま 冗談ばかりおっしゃって・・・>

追ひこされることは ちっともつらくない
甥っ子と 海で 石投げをすると
はじめはわたしのほうがとんだ
それからだんだん
キャッチボールのとき わたしの手がいたくなって
ある日 彼のボールがとれなくなった
丁度あのころ
わたしはあなたを追ひこしたのだ
腕相撲に勝ったのは ほんとにつらかった

けれど今
あなたはわたしを もう一度追ひこして
ずっと先の方へ 行ってしまった
あなたが三分で忘れることを
わたしだって三日で忘れるのだから
永遠のなかでは たいしてちがいはない

母よ
時間が夢のやうに流れて
いとしいものがごちゃまぜになって
うらやましいわ

泣かないで

ほら わたしのシラガを ぬいてください
いつものやうに

吉原幸子
「夢 あるひは・・・」所収
1976

枯野の旅

乾きたる
落葉のなかに栗の實を
濕りたる
朽葉がしたに橡の實を
とりどりに
拾ふともなく拾ひもちて
今日の山路を越えて來ぬ

長かりしけふの山路
樂しかりしけふの山路
殘りたる紅葉は照りて
餌に餓うる鷹もぞ啼きし

上野の草津の湯より
澤渡の湯に越ゆる路
名も寂し暮坂峠

   ○

朝ごとに
つまみとりて
いただきつ

ひとつづつ食ふ
くれなゐの
酸ぱき梅干

これ食へば
水にあたらず
濃き露に卷かれずといふ

朝ごとの
ひとつ梅干
ひとつ梅干

   ○

草鞋よ
お前もいよいよ切れるか
今日
昨日
一昨日
これで三日履いて來た

履上手の私と
出來のいいお前と
二人して越えて來た
山川のあとをしのぶに
捨てられぬおもひもぞする
なつかしきこれの草鞋よ

   ○

枯草に腰をおろして
取り出す參謀本部
五萬分の一の地圖

見るかぎり續く枯野に
ところどころ立てる枯木の
立枯の楢の木は見ゆ

路は一つ
間違へる事は無き筈
磁石さへよき方をさす

地圖をたたみ
元氣よくマツチ擦るとて
大きなる欠伸をばしつ

   ○

頼み來し
その酒なしと
この宿の主人言ふなる

破れたる紙幣とりいで
お頼み申す隣村まで
一走り行て買ひ來てよ

その酒の來る待ちがてに
いまいちど入るよ温泉に
壁もなき吹きさらしの湯に

若山牧水
若山牧水全集」所収
1928

網を投げる人

わたしはひねもす
あみをなげる
あみはおともたてないで
しづかにおりる
めにみえないあみ
わたしはあみのなかにゐる
それをひきよせるので
どこかで
おほきなてがうごいてゐる

山村暮鳥
「山村暮鳥全集」所収
1924

アンコとの対話

  アンコと呼べど其名を知らず少年は十二歳なりと云ふ。手に鞭をもちて日毎
  に牛を牧す。此詩は或朝彼と語りて、帰るさに成れるものなり。

「アンコよ
君に問ふことあり」
我れ此く云ひて彼と皆に
青野が上にねころびぬ。

日は晴れたり
大空は光のみ・・・・・
いかで其処に
何もなし。

「アンコは日毎此処に居て
何も考へることなきや
仕事の暇は
何時何時ぞ」

「我れは十時半来れば
牛をみな入れるなり
されば我れは此処に居て
其事より考へず。」

「されば今ここに
神ありと思はずや
アンコよ、日は照りて
牧場の露は乾くなり。」

アンコ答へて
「否、我れは神を見ざるなり
ただ知るは此の牧場にて
また彼の光のみ。

正午近くなれば
我れは太陽を仰ぎ
この萋々としたる草に
気ままに居るを喜ぶなり。

牛の数は十に余り
そは皆犢なるが
其一つはなほ病みて
気づかはしくぞ思ふなる。

彼等は二歳、また一歳
崖の端まで善く走る
彼等の脚は勁健ゆゑ
なかなか追へず。

其時崖の上に
簇がる雲の美しし
我れは其の輝きを
早く見んとて走るなり。」

「さればあの崖の上に
何を見しや」
「そは雲なりしかば
我れは雲を見て楽しとおもふ」

「アンコよ、冬が来て雪積らば
いかに恐ろしからんぞ」
「さなり、海風は
げに恐ろし。

海風が吹かば
我手は凍ゆべし、
されど其季来れば牛は子舎につき
我れも温かに休み得なり。」

「さらばアンコよ、これらの犢
もしアンコの所有ならば楽しからん」
我れかく云へば
彼はほほゑむ面持して答ふ
「否、然かあるも同じからん。」

三木露風
「良心」所収
1915