夕方の田園調布

僕が石柱の門札をのぞきこんでゐると
パトカーが止まつて 一人の警官が下りて来た
「どちらかお探しですか」
「いや別にさういふわけではない」
僕はそつぽを向きながらさう言つて歩みをつづけた

行きながらしばらくたつて
(あれは親切だつたのかもしれないな)
僕はそんな反省もした
ふと振り向くと
坂を下りて来るさつきの警官の姿が見えた
「あなたはオオタカオルさんですか」
さう言はれて僕は「ちがひます」とは言はなかつた
「その人はどういふ人ですか」
「家出人です」
「そのオオタといふ人は僕のやうに黒い帽子をかぶり大きいカバンを持つてゐるのですか」
「本署からの手配によるとさうなのです」
「あなたは黒い帽子をかぶり大きなカバンを持つてゐる人はみんなオオタカオルだといふのですか」
「冗談ぢやない」
警官と僕は長い時間睨みあつて立つてゐた
「尾行は勝手にしたらいいのだ
無線で連絡しあつたらいい
白線の外を歩いたら道路交通法でひつかけたらいい
僕のやうな年頃の老人はやたらに警官なんかに語しかけられたくないんだ
予供の頃悪いことをするとお巡りさんが来るよと言つて育てられてゐる
青年の時代は 人間として当然の思想を持つただけでブタ箱に入れられるといふおそろしい思ひもした
日本特高警察史をひもといてみたまへ」
僕は「ひもとく」といふ古語を使つた
桜の大木は枝を路上まで伸ばしてゐた
傷んで変色した葉を路上に降らしてゐた
「君はコーヒーをのみに行く一人の老人の散歩を滅茶滅茶にした」
ああ 夕方の田園調布
若い警官とは握手して別れた
グローブのやうな大きな手をしてゐた

しかし考へてみれば
ああ タ方の田園調布
曲り角の小さな旅館で僕は二時間の情事を持つたことがある
心の中の警官がいまも僕を追跡してゐるやうな気もする

桜の大木は枝を路上まで伸ばしてゐる
傷んで変色した葉を路上に降らしてゐる

小山正孝
「山居乱信」所収
1986

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