駅のプラットフォームに通じる階段か、大学の教室に向かう階段か、あるいは、音楽会の会場の入口に達する階段か。それはよくわからない。とにかく、眼の前にあるこの長い階段を、自分なりに全速力で駈け昇って行かなければ、間に合わない。自分の腕時計も、壁にかかっている大きな時計も、ある切迫した同じ時刻を指している。
家に帰る終電車にか、一年間いっしんに勉強して準備した入学試験にか、それとも、二度と聴けない名人ヴァイオリニストの演奏会にか。それはよくわからない。とにかく、のんびりしていると、決定的に間に合わないのである。
それで私は、じつに勢よく階段を駈け昇った。二十二段ぐらいはあっただろうか。そこで踊り場となっていた。このあとは、左のほうへ直角に曲って十歩ほど走り、そこでまた左のほうへ直角に曲れば、つぎに昇る階段が待っているはずである・・・・・。はじめての階段について、私はなぜかそんなふうに心得ていた。
ところが、そうではなかった!
踊り場を、まず左の方へ直角に曲って、五、六歩なお勢よく走りつづけたとき、私の体は、不意に宙に浮いた。なんという驚愕。踊り場は途中で切れていて、その先はなにもなかったのだ。
空中の高いところに投げだされ、まったく度を失った私の心は、それでもとっさに、右手の中指を踊り場の端にひっかけさせていた。そこのところをよく見ると、床は敷石でもコンクリートでもなく、部厚い鋼鉄の板で、その端にあいている小さな円い穴に、指を一本ひっかけた恰好になっている。
その矩形の鋼鉄の板は、地下工事が行われている上などに、たくさん整然と並べて張られ、その上を人間や自動車が通れるようにするところの、あの蓋いである。膨張する都会に住んでいる人間にとっては、おなじみのものだろう。
ずいぶん前のことであるが、女のひとのハイヒールの踵の先がほっそりと小さかった頃、町を颯爽と歩いていた若い女のその踵が、この鋼鉄の板の小さく円い穴にスッポリ入って、彼女がたいへん困っているのを、私は見たことがある。そのとき、ゴーストップの信号の色が変っても、靴がなかなか抜けず、何人かの通行人は立ちどまって、心配そうに彼女のしぐさを眺めていた。それ以来、あの小さく円い穴をなんとなく危険なもの、しかしまた、そこから地下を覗く好奇心をそそったりする、なんとなくユーモラスなもの、というふうに私は感じてきていた。
踊り場から墜落する寸前に、その穴と、かくも親しく面と面をつきあわせてめぐり逢おうとは!人生とはまったく奇妙なものだ。見おろすと、遥か下は、不気味にひろがる海である。青黒い波。ところどころ、白く波頭がくだけている。もう、絶体絶命だ。泣くひまもない。
私は、人生最後の縁であったその穴にかけた中指一本で海の上にぶらさがっている。その指が鋼鉄の板から離れるのは、あるいは、その指がちぎれるのは、あと一、二分の問題だろう。私は肥りすぎた。それで、ひどい罰があたったのだ。指一本の力をきっかけにして、鋼鉄の板の上に這いあがることは、もともと機械体操などが下手であった私にとっては、もはやどのようにしても不可能だろう。
私ははげしく後悔していた。
家内が私の肥りすぎを心配して数箇月やってくれたなんとか式痩せる食事法で、私は一時ほんとうに十二キロも痩せていたのである。その頃はバンドの端も七センチほど切りつめたし、自分の靴の紐もわりに楽に結べたものである。それだのに、夜中に一人でそっと起きては饅頭や、海苔で包んでぎゅっと握った飯や、ソーセージや、りんごなどを食べ、また、たまには、ナチュラル・チーズでコニャックをちょっぴり飲んだりして、いつのまにか、元の体重に戻ってしまったのだ。
清岡卓行
「夢を植える」所収
1976