Category archives: Chronology

空への告白

私は来るのを待っています。
青い間から
大手をひろげて私を抱きあげてくれるものを待っています。
ねてもおきても窓を開けはなって
祈るようにほおづえをついて
いつも空ばかり見つめています。
それより他に方法はないんだと思っています。
あんまり一面に青い日は
私は悲しくて口笛や歌ばかり歌って何も考えまいとします。
それは青さがあまりにもはてしなく
待つことしか知らない私があわれに無力になってしまうのでヤケになるからです。
どうして私は待つことしか知らないのでしょう。
待つことは悪いことでしょうか。
自分でもわからないのです。
私は乞食かもしれません。
空を見つめて肉の切れはしが落ちてくるのを悲しんだり胸をときめかして待っている
最もいやしい怠け者の乞食かもしれません。

矢沢宰
光る砂漠」所収
1967

朝の鏡

夜来の雨が小さな水溜りを作った
それは或る朝あけの人げない郊外電車の停留所の片隅のこと。
今日も遠い勤め通いの娘が一人
すこし破れた靴を気にしながらやって来て
一番電車を待っていた。
その足元の水溜りに
娘の姿が映り
娘のうしろの朝やけの雲の薔薇が映り
うすくれないに娘の周りを染めながら
少しずつ、少しずつ褪せていった。
やがて娘はさりげなく
一番電車で消えてゆくと
水際にはしばらく空の色だけが流れた。

それから何時ものように
朝の停留所は騒がしくなり
陽はきらきらと照りはじめ
又何時ものように
何もなかったとでも云うように
水溜りは踏みつぶされて乾いていった。
あの娘も、あの雲の薔薇も
誰一人知る者もないままに消えていった。

神様が地上にそっと置いてみて
また持ち去った、あの水鏡、水溜り。

野田宇太郎
「夜の蜩  野田宇太郎全詩集」所収
1966

わからない

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんは兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につっかかりました
お前はバカだな

妹は犬の頭をなでて
よしよしといいました

犬の名はジョンといいます

杉山平一
希望」所収
2011

治癒

深い傷の淵から
ゆっくりと癒されていくとき
傷口のさらにおくから
すこしずつ湧きあがってくる
この世でもっともすみ切った水にあらわれて
傷口はやがて新しい目になるだろう
もはやなんのためらいもなく
まっすぐ天にむかってひらかれたレンズの
焦点は深く視界は広く
ついに新しいおのれの星を発見するそのとき
あれほどいたかった傷口は
しずかに満々と水をたたえて
天にもっとも近い湖
新しい星一つうかべて
なおはげしくのぞみつづけるだろう
さらにあたらしい目差しだけを

征矢泰子
花の行方」所収
1993

長いあいだ
男の家に
海に棲まない魚が住みついていた
帰宅どき
男は
軒先から
家の奥ふかく太い網を打つ

潮の匂いを抜きとっても
毎夜
白い腹をみせ
激しく網に挑む魚よ
いつかは 網を食いちぎり
台所の壁にそって這いのぼり
天井を伝って
男を追っていくのか

今夜の夢はきりきりと疼く
網の重みに崩れかかった窓から
明りが洩れ
魚の鱗が光を浴びて
炎をあげている

身仕度をととのえた人を
夜の町に手放したあと
私は深い沼の底に沈んでいった

氷見敦子
「石垣のある風景」所収
1980

めまいよ こい

地球がまわり
俺は力ずくで坐っている

めまいよ こい
生きてることはすばらしい

風よ こい
ふかい空とつりあうために
錘のような心がある

地球がまわり
俺は力ずくで坐っている

山本太郎
「山本太郎詩集」所収
1957

見えない木

雪のうえに足跡があった
足跡を見て はじめてぼくは
小動物の 小鳥の 森のけものたちの
支配する世界を見た
たとえば一匹のりすである
その足跡は老いたにれの木からおりて
小径を横断し
もみの林のなかに消えている
瞬時のためらいも 不安も 気のきいた疑問符も そこにはなかった
また 一匹の狐である
彼の足跡は村の北側の谷づたいの道を
直線上にどこまでもつづいている
ぼくの知っている飢餓は
このような直線を描くことはけっしてなかった
この足跡のような弾力的な 盲目的な 肯定的なリズムは
ぼくの心にはなかった
たとえば一羽の小鳥である
その声よりも透明な足跡
その生よりもするどい爪の跡
雪の斜面にきざまれた彼女の羽
ぼくの知っている恐怖は
このような単一な模様を描くことはけっしてなかった
この羽跡のような 肉感的な 異端的な 肯定的なリズムは
ぼくの心にはなかったものだ

突然 浅間山の頂点に大きな日没がくる
なにものかが森をつくり
谷の口をおしひろげ
寒冷な空気をひき裂く
ぼくは小屋にかえる
ぼくはストーブをたく
ぼくは
見えない木
見えない鳥
見えない小動物
ぼくは
見えないリズムのことばかり考える

田村隆一
言葉のない世界」所収
1962

キリストに与へる詩

キリストよ
こんなことはあへてめづらしくもないのだが
けふも年若な婦人がわたしのところに來た
そしてどうしたら
聖書の中にかいてあるあの罪深い女のやうに
泥まみれなおん足をなみだで洗つて
黒い房房したこの髮の毛で
それを拭いてあげるやうなことができるかとたづねるのだ
わたしはちよつとこまつたが
斯う言つた
一人がくるしめばそれでいいのだ
それでみんな救はれるんだと
婦人はわたしの此の言葉によろこばされていそいそと歸つた
婦人は大きなお腹をしてゐた
それで獨り身だといつてゐた
キリストよ
それでよかつたか
何だかおそろしいやうな氣がしてならない

山村暮鳥
風は草木にささやいた」所収
1918

知らない町を歩いてみたい

とうかえでの細い木に小さな蟻が
無数にのぼったりおりたりしていた
蟻は何度ものぼったりおりたりした
蟻はとうかえでの甘い汁をなめたり運んだり
しているのだろうか?
ほんの少し感じるか感じないかの雨がふっているのに
蟻はのぼったりおりたりするのをやめなかった

バスはなかなか来なかった
一時間に一本か二本のバスは
看護学校入口前のバス停に二分も遅れてやって来た
バスが来ると霧のなかに無限にひろがる
新しい町が始まった

お茶畑と教会と電気屋の向こうに

美しいさまざまな木が植えられている畑があった
この町に引っ越して来てから
わたしはしきりに「じゃがいもを喰う人々」の
ヴァン・ゴッホのことを思い出した
ゴッホは何であんな風にたくさんの絵を
描いたのだろう 誰かを幸せにするために、と
言ったひとがいた

朝起きると私の部屋の窓から
ゆっくりと横たわる低い山のような丘陵のようなものが
わたしをうけいれてくれるような気がした
あんなに低い緑の山々がまるで昼寝でもするように
見えた

遠い国で生きているわたしの友達と話している
気にもなった
認知症にかかり パリから少し離れた施設に入った友達と
話している気になった
わたしも彼女も少しぐらいさびしくても
生きてはいけないということはないだろう

鈴木ユリイカ
詩誌「妃」18号所収
2016