かすてらの
こげた匂をかぐときは
わたしはままを思ひだす。
らんらたの
ちやぺるの鐘をきくときは。
わたしはままを思ひだす。
南天の
紅実に雪のふるときは
わたしはままを思ひだす。
遠山に
銀の雨ふる冬がきた。
ままに逢ひたい冬がきた。
竹久夢二
「春のおくりもの」所収
1928
私はこのむづがゆさに耐えられない。
羽虫の群れる太陽の下で、
暖かい牧場を眺めてゐる。
牛は尻尾を振りながら、
しきりに虫を追つてゐる。
宮中に楽しく揺すれはねかえる
尾はなんと不思議な機能であらう。
世紀の昔に失くしてしまつた長い尾を、
弾力ある紐のやうなものを、
この日向で一心に振りたい、振りたい。
あの尾を私に恵んで下さい。
私は臀部に力を入れて、
肉塊の神経のむづかゆい
背部を歪め、感覚を散らし、
尾閭骨に私は焦心する。
こんな明るい日中にゐて、
官能の秘密に耐えられない。
古化草原よ。
旧世界。
退化の感覚を抱く母は、
この感情の帰る郷土は、
どこの地平にあるのだらう。
過去は尾を奪ひ毛皮を奪ひ、
石器を、神話を、奪つてしまつた。
精胚のやうに衝動する
名づけやうもない遺伝の影を、
胸に悲しく感ずるばかりだ。
地峡の明るい風を浴び、
懶怠も日光に乾いてしまひ、
私の夢は昇天する。
獣のやうに草に腹匍ひ、
はかない獣の感情を入れて、
野生の、本能の匂ひをかぐ。
あの空に遠く高く、
荒誕祖先の楽園を呼ぶ。
歴史のむかうに沈んでしまつた
朧ろな原始へ帰らう、帰らう。
私はこのむづかゆさに耐えられない。
石川善助
「亜寒帯」所収
1936
今日は針の気げんがわるい
三度も指をつついてしまつたし
なかなか 糸もとほらなかつた
プッツ プッツ プッツ プッツ ──
針は布をくぐつては気げんのわるい顔を出しました
「お婆さん お茶にしませう」と針が
だが
お婆さんは耳が遠いので聞えません
尾形亀之助
「色ガラスの街」所収
1925
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
春はふけ、春はほうけて、
古ぼけた、草家の屋根で、よ。
日がな啼く、白い野鳩が、
啼いても、けふ日は逝つて了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
庭も荒れ、荒るるばかしか、
人も来ぬ葎が蔭に、よ。
茨が咲く、白い野茨が、
咲いても、知られず、散つて了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
何を見ても、何を為てもよ、
ああいやだ、寂しいばかりよ。
椅子が揺れる、白い寝椅子が、
寝椅子もゆさぶりや折れて了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
日は永い、真昼は深い。
そよ風は吹いても尽きず、よ。
ただだるい、だるい、ばかり、よ、
どうにもかうにも倦んで了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
空は、空は、いつも蒼い、が、
わしや元の嬰児ぢやなし、よ。
世は夢だ、野茨の夢だ、
夢なら、醒めたら消えて了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
気はふさぐ、身体は重い、
おおままよ、ねんねが小椅子、よ。
子供げて、揺れば揺れよが、
溜息ばかりが揺れて了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
昨日まで、堪へても来たが、
明日ゆゑに、今日は暗し、よ。
人もいや、聞くもいやなり、
それでも独ぢや泣けて了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
心から、ようも笑へず。
さればとて、泣くに泣けず、よ。
煙草でも、それぢや、ふかそか、
煙草も煙になつて了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
春だ、春だ、それでも春だ。
白い鳩が啼いてほけて、よ、
白い茨が咲いて散つて、よ、
かうしてけふ日も暮れて了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
日は暮れた、昔は遠い、
世も末だ、傾ぶきかけた、よ。
わしや寂びる、いのちは腐る、
腐れていつかと死んで了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
ほろほろ、ほろろん、
おお、ほろほろ……
北原白秋
「水墨集」所収
1923