雪の日、姉は膝をだいて、私の瞳になにを読んだか。
お前は恋をしたのだらう。
あわただしく、落葉のやうにあわただしく、私は手紙をしたためる。雪の日の街に出る、赤いポスト。
落葉の上を行く、舗道の上を行く。
鳴らないピアノ、舗道のピアノ。
マドリガル、私の恋歌、火のつかない私の煙草、
(海峡を見たか、あれから。私は海峡を、見たはたして。)
雪が来る、雪が来る。雪は時間の上にとまる。
津村信夫
「愛する神の歌」所収
1935
雪の日、姉は膝をだいて、私の瞳になにを読んだか。
お前は恋をしたのだらう。
あわただしく、落葉のやうにあわただしく、私は手紙をしたためる。雪の日の街に出る、赤いポスト。
落葉の上を行く、舗道の上を行く。
鳴らないピアノ、舗道のピアノ。
マドリガル、私の恋歌、火のつかない私の煙草、
(海峡を見たか、あれから。私は海峡を、見たはたして。)
雪が来る、雪が来る。雪は時間の上にとまる。
津村信夫
「愛する神の歌」所収
1935
風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯しない野原をさまようてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、そしてまたその荒まじい叫び声をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黒い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。
――とまれ!
私は立ちどまつて周囲に声のありかを探した。私は恐怖を感じた。
――お前の着物を脱げ!
恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、余儀なくその命令の言葉に従つた。するとその声はなほ冷やかに、
――裸になれ! その上衣を拾つて着よ!
と、もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。私は惨めな姿に上衣を羽織つて風の中に曝されてゐた。私の心は敗北に用意をした。
――飛べ!
しかし何といふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧みた。手は長い翼になつて両腋に畳まれ、鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた服従の用意をした。
――飛べ!
私は促されて土を蹴つた。私の心は急に怒りに満ち溢れ、鋭い悲哀に貫かれて、ただひたすらにこの屈辱の地をあとに、あてもなく一直線に翔かけつていつた。感情が感情に鞭うち、意志が意志に鞭うちながら――。私は永い時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの惨めな敗北からは遠く飛び去つて、翼には疲労を感じ、私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みてゐた。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗な命令の声ではなかつたか。
――啼け!
おお、今こそ私は啼くであらう。
――啼け!
――よろしい、私は啼く。
そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は啼いてゐた。
――ああ、ああ、ああ、ああ、
――ああ、ああ、ああ、ああ、
風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。冷めたいものがしきりに頬を流れてゐた。
三好達治
「測量船」所収
1964
なんという駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
まっ黒なかたまりが
投げこまれる
そいつはみんな生きており
汽車が走っているときでも
みんなずっと生きているのだが
それでいて汽車のなかは
どこでも屍臭がたちこめている
そこにはたしかに俺もいる
誰でも半分はもう亡霊になって
もたれあったり
からだをすりよせたりしながら
まだすこしずつは
飲んだり食ったりしているが
もう尻のあたりがすきとおって
消えかけている奴さえいる
ああそこにはたしかに俺もいる
うらめしげに窓によりかかりながら
ときどきどっちかが
くさった林檎をかじり出す
俺だの 俺の亡霊だの
俺たちはそうしてしょっちゅう
自分の亡霊とかさなりあったり
はなれたりしながら
やりきれない遠い未来に
汽車が着くのを待っている
誰が機関車にいるのだ
巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
どろどろと橋桁が鳴り
たくさんの亡霊がひょっと
食う手をやすめる
思い出そうとしているのだ
なんという駅を出発して来たのかを
石原吉郎
「サンチョ・パンサの帰郷」所収
1963
パインアップル、そしてア。ラリ。ラノ。ラミ。ラ
テーブルに置かれたさざんかは今宵しおれた
からいあまいテーブルにありがよつばう
どうですごきげんはと男が頭を下げた
すると急に女がよっぱらって
さざんかに小用した
今晩はごきげんねとさざんかに頭を下げると
急にはし折れる程伸び上がった
ああ
パインアップル、そしてア。ラリ。ラノ。ラミ。ラ
吉行エイスケ
「ダダイズム」初出
1922
お前らの手の皮と俺らの頬の皮とどちらが厚いか
お前らの鉛筆と俺らの指骨とどちらが太いか
お前らの指先と俺らの喉笛とどちらが先に押しつぶれるか
お前らの金をうちつけた靴裏と俺らの尻っぺたとどちらが堅いか
それをハッキリと呑みこませてやろう
無表情な俺らが
そろそろ焦り出すお前らに
いよいよおし黙る俺らが
いよいよ喚きたてるお前らに
それをハッキリと呑みこませてやろう
縊り殺して水をかけ
殴り殺して水をかけ
蹴殺して水をかけ
それが商売の
それで月給のあがる
傷をつけずに殺す術を知っているお前らに
それをハッキリと呑みこませてやろう
呑みこませてやろう ハッキリと
鉛筆
革紐
竹刀
鉄棒
指先
手のひら
靴裏の前に
声は立てずに気を失って行く俺らであることを
叫びは洩らさずに息を吹きかえして来る俺らであることを
俺らはプロレタリア 俺らは機械 俺らはハガネ 俺らは不死身だ
田木繁
「松ケ鼻渡しを渡る」所収
1934
大謀網に気付いたのは夜になつてからである。それまでひろびろと張られた網の目に戯れついたり、絲にかかつて揺れる藻をつついたりした彼等であつたが、そいつが陸へ陸へ狹ばめられ手操られてゐるのを知つた時、みなは一瞬ハツと蒼ざめ、つぎに日頃の群游の習性を蹴飛ばしてしまつた。
海と獲物を区切つた網のなか、のがれ出ようとする魚たちのおのれこそ逃げ終はせんと喰はす必死の体当りも無駄であつた。
飛走するひき、無数の流星が蒼闇の海に火花をちらし、網に当つて砕けた。ここで再び蒼白の尾を引いて疾走し直す奴もゐた。鰓深々絲を喰ひ込ませて血みどろにあがきくねるのもゐた。ぶつかり合つた魚と魚は燐火の中で歯を剥いた
動くともなく動く網綱。せばまるともなくせばまる境界。魚たちはぎらぎら飛び跳ねたが、やがて濱辺のかゞりが見え、砂をこする網底の音が陸の喚声に混ぢるとき、捨身の激突に口吻は赤黝くはれ上り、眼玉に血がにじみ、脱け落ちる鱗は微に燃えてひらひら海底へ沈んでゆくのである。
鈴木泰治
「詩精神」初出
1934
コンロから御飯をおろす
卵を割ってかきまぜる
合間にウィスキーをひと口飲む
折り紙で赤い鶴を折る
ネギを切る
一畳に足りない台所につっ立ったままで
夕方の三十分
僕は腕のいいコックで
酒飲みで
オトーチャマ
小さなユリの御機嫌とりまで
いっぺんにやらなきゃならん
半日他人の家で暮らしたので
小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う
「ホンヨンデェ オトーチャマ」
「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」
「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」
卵焼きをかえそうと
一心不乱のところへ
あわててユリが駆けこんでくる
「オシッコデルノー オトーチャマ」
だんだん僕は不機嫌になってくる
化学調味料をひとさじ
フライパンをひとゆすり
ウィスキーをがぶりとひと口
だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
「ハヤクココキッテヨー オトー」
「ハヤクー」
かんしゃくもちのおやじが怒鳴る
「自分でしなさい 自分でェ」
かんしゃくもちの娘がやりかえす
「ヨッパライ グズ ジジイ」
おやじが怒って娘のお尻をたたく
小さなユリが泣く
大きな大きな声で泣く
それから
やがて
しずかで美しい時間が
やってくる
おやじは素直にやさしくなる
小さなユリも素直にやさしくなる
食卓に向かい合ってふたり座る
黒田三郎
「小さなユリと」所収
1960
丁字の匂ひ
火薬の匂ひ
オードコロンの匂ひ
皮膚の
小さい動物の匂ひ
333333333
159603
23256====00003
V r r r r r r r ++××=×= 0
+++-+∀rrrrrrrrrrrrrrrrr+××
+×××+Vrrrrrrrrrrrrrrrrr+××
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Tokio, Le 11 fevrier, 1922
ma bien-aimée
アーナーターノースーガーターミーニーアーブーガー
トーマーツーテーヰールー
欝金香の花が温室に悩む
十二月の空は早い
一月の空は寒い
二月の空は虛しい
三月の空は
待てども――
あんなに遠い
平戸廉吉
「平戸廉吉詩集」所収
1931
くらい海の上に 燈台の緑のひかりの
何といふやさしさ
明滅しつつ 廻転しつつ
おれの夜を
ひと夜 彷徨ふ
さうしておまへは
おれの夜に
いろんな いろんな 意味をあたへる
嘆きや ねがひや の
いひ知れぬ――
あゝ 嘆きや ねがひや 何といふやさしさ
なにもないのに
おれの夜を
ひと夜
燈台の緑のひかりが 彷徨ふ
伊東静雄
「詩集夏花」所収
1940