ぢぢいと ばばあが
だまつて 湯にはひつてゐる
山の湯のくずの花
山の湯のくずの花
田中冬二
「青い夜道」所収
1929
かわいそうな私の身体
お前をみていると涙がこぼれてくる
やわらかい乳房と若さに輝いた肌はどこにいったのか
切りさかれ ぬわれ やかれたお前の無残な傷痕
ああ でも どうか私を許してほしい
お前の奥深く 今も痛みにふるえ
赤い血潮をふき出しながら
それでも もえようとしている
私の心がひそんでいるのだから
ブッシュ孝子
「白い木馬」所収
1974
私は最初に見る 賑やかに近づいて来る彼らを 緑の階段をいくつも降りて 其処を通つて あちらを向いて 狭いところに詰まつてゐる 途中少しづつかたまつて山になり動く時には麦の畑を光の波が畝になつて続く 森林地帯は濃い水液が溢れてかきまぜることが出来ない 髪の毛の短い落葉松 ていねいにペンキを塗る蝸牛 蜘蛛は霧のやうに電線を張つてゐる 総ては緑から深い緑へと廻転してゐる 彼らは食卓の上の牛乳瓶の中にゐる
顔をつぶして身を屈めて映つてゐる 林檎のまはりを滑つてゐる 時々光線をさへぎる毎に砕けるやうに見える 街路では太陽の環の影がくぐつて遊んでゐる盲目の少女である。
私はあわてて窓を閉ぢる 危険は私まで来てゐる 外では火災が起こつてゐる 美しく燃えてゐる緑の焰は地球の外側をめぐりながら高く拡がり そしてしまひには細い一本の地平線にちぢめられて消えてしまふ
体重は私を離れ 忘却の穴へつれもどす ここでは人々が狂つてゐる 哀しむことも話しかけることも意味がない 眼は緑色に染まつてゐる 信じることが不確になり見ることは私をいらだたせる
私を後ろから眼かくしをしてゐるのは誰か? 私を睡眠へ突き墜せ。
左川ちか
「左川ちか詩集」所収
1911
言葉で表現されたものは真実とは遠いものである
物事は表現され得るものではないからだ
その一瞬において 価値をあらしむるのだ
潮に侵入された部屋の中を鯛は暴れまわった
そして部屋の外へ飛び出した
空間には外も内も有り得ない
音もなく死の扉は開かれた
頭と顋を切断されて鯛はその生涯を椀の中で過した
鯛の眼は汚れた人間の手を見据えていた
キリストの復活を真似て鯛はついに蘇った
どこからともなく喜びの歌がきこえる
潮は天井まで満ち溢れ吸物椀も漂流する
鯛は悠々と尾鰭をうごかして泳いでいた
高橋新吉
「海原」所収
1984
槐の蔭の教へられた場所へ、私は草の上からぐさりと鶴嘴をたたきこんだ。それから、五分もすると、たやすく私は掘りあてた、私は土まみれの髑髏を掘り出したのである。私は池へ行つてそれを洗つた。私の不注意からできた顳顬の上の疵を、さつきの鶴嘴の手応へを私は後悔してゐた。部屋に帰つて、私はそれをベッドの下に置いた。
午後、私は雉を射ちに谿へ行つた。還つて見ると、ベッドの脚に水が流れてゐた。私のとりあげた重い玩具の、まだ濡れてゐる眼窩や顳顬の疵に、小さな赤蟻がいそがしく見え隠れしてゐる、それは淡い褐色の、不思議に優雅な城のやうであつた。
母から手紙が来た。私はそれに返事を書いた。
三好達治
「測量船」所収
1930
いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫も
無益な千万の波動をつひやすのだ
水の静けさを貴んで
静寂の価を量らなければいけない
あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい
出せば則ち雷火である
あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
それでいい、それでいい
その夢を現にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない
その上
この澄みきつた水の中へ
そんなあぶないものを投げ込んではいけない
私の心の静寂は血で買つた宝である
あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である
この静寂は私の生命であり
この静寂は私の神である
しかも気むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾乱を惹き起すのである
あなたはその一点に手を触れようとするのか
いけない、いけない
あなたは静寂の価を量らなければいけない
さもなければ
非常な覚悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起す波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない
百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければならない
それが出来ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない
御覧なさい
煤烟と油じみの停車場も
今は此の月と少し暑くるしい靄との中に
何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか
あの青と赤とのシグナルの明りは
無言と送目との間に絶大な役目を果たし
はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる
私は今何かに囲まれてゐる
或る雰囲気に
或る不思議な調節を司る無形な力に
そして最も貴重な平衡を得てゐる
私の魂は永遠をおもひ
私の肉眼は万物に無限の価値を見る
しづかに、しづかに
私は今或る力に絶えず触れながら
言葉を忘れてゐる
いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
高村光太郎
「智恵子抄」所収
1912
或る荒れはてた季節
果てしない心の地平を
さまよい歩いて
さんざしの生垣をめぐらす村へ
迷いこんだ
乞食が犬を煮る焚火から
紫の雲がたなびいている
夏の終りに薔薇の歌を歌つた
男が心の破滅を歎いている
実をとるひよどりは語らない
この村でラムプをつけて勉強するのだ
「ミルトンのように勉強するんだ」と
大学総長らしい天使がささやく
だが梨のような花が藪に咲く頃まで
猟人や釣人と将棋をさしてしまつた
すべてを失つた今宵こそ
ささげたい
生垣をめぐり蝶とれる人のため
迷って来る魚狗と人間のため
はてしない女のため
この冬の日のため
高楼のような柄の長いコップに
さんざしの実と涙を入れて
西脇順三郎
「近代の寓話」所収
1953
俺の放つ矢を見よ。
第一のはしくぢつた、
第二の矢もしくぢつた、
第三の矢もまたしくじつた。
第四、第五の矢もしくじつた
だが笑ふな。
いつまでもしくぢつて許りはゐない。
今度こそ、
今度こそと
十年余り
毎日、毎日
矢を射つた。
まだ本物ではないにしろ
たまにはあたりだした
見よ
今度の大きな矢こそ
人類の心の真たゞなかを
射あてゝみせる
そしてぬけない矢を
俺の放つ矢を見よ。
武者小路実篤
武者小路実篤全集第11巻「詩千八百」所収
1976