Category archives: 1930 ─ 1939

 夕暮とともにどこから来たのか一人の若い男が、木立に隠れて池の中へ空気銃を射つてゐた。水を切る散弾の音が築山のかげで本を読んでゐる私に聞えてきた。波紋の中に白い花菖蒲が咲いてゐた。

 

 築地の裾を、めあてのない遑だしさで急いでくる蝦蟇の群。その腹は山梔の花のやうに白く、細い疵が斜めに貫いたまま、なほ水掻で一つが一つの背なかを捉へてゐる。そのあとに冷たいものを流して、たとへばあの遠い星へまでもと、悪夢のやうに重たいものを踏んでくる蝦蟇の群。

 

 瞳をかへした頁の上に、私は古い指紋を見た。私は本を閉ぢて部屋に帰つた。その一日が暮れてしまふまで、私の額の中に散弾が水を切り、白い花菖蒲が揺れてゐた。

 

三好達治

測量船」所収

1930

わが半生

私は随分苦労して来た。

それがどうした苦労であったか、

語ろうなぞとはつゆさえ思わぬ。

またその苦労が果して価値の

あったものかなかったものか、

そんなことなぞ考えてもみぬ。

 

とにかく私は苦労して来た。

苦労して来たことであった!

そして、今、此処、机の前の、

自分を見出すばっかりだ。

じっと手を出し眺めるほどの

ことしか私は出来ないのだ。

 

   外では今宵、木の葉がそよぐ。

   はるかな気持の、春の宵だ。

   そして私は、静かに死ぬる、

   坐ったまんまで、死んでゆくのだ。

 

中原中也

在りし日の歌」所収

1936

サーカス

幾時代かがありまして

  茶色い戦争ありました

 

幾時代かがありまして

  冬は疾風吹きました

 

幾時代かがありまして

  今夜此処での一と殷盛り

    今夜此処での一と殷盛り

 

サーカス小屋は高い梁

  そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

 

頭倒さに手を垂れて

  汚れ木綿の屋蓋のもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

それの近くの白い灯が

  安値いリボンと息を吐き

 

観客様はみな鰯

  咽喉が鳴ります牡蠣殻と

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

      屋外は真ッ闇 闇の闇

      夜は劫々と更けまする

      落下傘奴のノスタルジアと

      ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

中原中也

山羊の歌」所収

1934

春の日の夕暮

トタンがセンベイ食べて

春の日の夕暮は穏かです

アンダースローされた灰が蒼ざめて

春の日の夕暮は静かです

 

吁! 案山子はないか ── あるまい

馬嘶くか ── 嘶きもしまい

ただただ月の光のヌメランとするままに

従順なのは 春の日の夕暮か

 

ポトホトと野の中に伽藍は紅く

荷馬車の車輪 油を失い

私が歴史的現在に物を云えば

嘲る嘲る 空と山とが

 

瓦が一枚 はぐれました

これから春の日の夕暮は

無言ながら 前進します

自らの 静脈管の中へです

 

中原中也

山羊の歌」所収

1934

作品第一〇〇四番

今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです

ひるすぎてから

わたくしのうちのまはりを

巨きな重いあしおとが

幾度となく行きすぎました

わたくしはそのたびごとに

もう一年も返事を書かない

あなたがたづねて来たのだと

じぶんでじぶんに教へたのです

そしてまったく

それはあなたのまたわれわれの足音でした

なぜならそれは

いっぱい積んだ梢の雪が

地面の雪に落ちるのでしたから

 

宮沢賢治

1933

小作調停官

西暦一千九百三十一年の秋の

このすさまじき風景を

恐らく私は忘れることができないであらう

見給へ黒緑の鱗松や杉の森の間に

ぎっしりと気味の悪いほど

穂をだし粒をそろへた稲が

まだ油緑や橄欖緑や

あるひはむしろ藻のやうないろして

ぎらぎら白いそらのしたに

そよともうごかず湛えてゐる

そのうち潜むすさまじさ

すでに土用の七日には

南方の都市に行ってゐた画家たちや

ableなる楽師たち

次々郷里に帰ってきて

いつもの郷里の八月と

まるで違った緑の種類の豊富なことに愕いた

それはおとなしいひわいろから

豆いろ乃至うすいピンクをさへ含んだ

あらゆる緑のステージで

画家は曾って感じたこともない

ふしぎな緑に眼を愕かした

けれどもこれら緑のいろが

青いまんまで立ってゐる田や

その藁は家畜もよろこんで喰べるではあらうが

人の飢をみたすとは思はれぬ

その年の憂愁を感ずるのである

 

宮沢賢治

補遺詩篇」所収

1933

蟻が

蝶の羽をひいて行く

ああ

ヨットのようだ

 

三好達治

南窗集」所収

1932

落葉松

昨日 林でみかけた人、だがあの人ではない。

 

どうしたのだらう、帽子を手に持つて、私は何を考えていたのだろう。

 

「今晩は 今晩は。」

樹々の奥で、霧の奥で、燈火がともる。

 

津村信夫

愛する神の歌」所収

1935

昨日はどこにもありません

昨日はどこにもありません

あちらの箪笥のひき出しにも

こちらの机の引き出しにも

昨日はどこにもありません

 

それは昨日の写真でしょうか

そこにあなたの立っている

そこにあなたの笑っている

それは昨日の写真でしょうか

 

いいえ昨日はありません

今日を打つのは今日の時計

昨日の時計はありません

今日を打つのは今日の時計

 

昨日はどこにもありません

昨日の部屋はありません

それは今日の窓掛けです

それは今日のスリッパです

 

今日悲しいのは今日のこと

昨日のことではありません

昨日はどこにもありません

今日悲しいのは今日のこと

 

いいえ悲しくはありません

何で悲しいものでしょう

昨日はどこにもありません

何が悲しいものですか

 

昨日はどこにもありません

そこにあなたの立っていた

そこにあなたの笑っていた

昨日はどこにもありません

 

三好達治

測量船」所収

1930

月夜の浜べ

月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際に、落ちていた。

 

それを拾って、役立てようと

僕は思ったわけでもないが

なぜだかそれを捨てるに忍びず

僕はそれを、袂に入れた。

 
月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際に、落ちていた。
それを拾って、役立てようと

僕は思ったわけでもないが

   月に向ってそれは抛れず

   浪に向ってそれは抛れず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晩に、拾ったボタンは

指先に沁み、心に沁みた。

 

月夜の晩に、拾ったボタンは

どうしてそれが、捨てられようか?

 

中原中也

在りし日の歌」所収

1938