Category archives: 1920 ─ 1929

良い朝

今朝ぼくは快い眠りからの目覚めに
雨あがりの野道を歩いて来て
なぜかその透きとほる緑に触れ、その匂に胸ふくらまし
目にいっぱい涙をためて
いろんな人たちの事を思った。
私の知って来た数かずの姿
記憶の表にふれたすべての心を
ひとつひとつ祝福したい微笑みで思ひ浮べ
人ほど良いものは無いのだと思ひ
やっぱり此の世は良い所だと思って
すももの匂に
風邪気味の鼻をつまらし
この緑ののびる朝の目覚めの善良さを
いつまでも無くすまいと考へてゐた。

伊藤整
「雪明りの路」所収
1926

回転鞦韆

子供たち! よく廻つてるね
君等のあとを追ふて
木の葉が鳥のやうに蹤いてゆく

その遠心力で
子供たち!
君等の無邪気を撒きちらすんだね
それでこの樹の多い公園は
明るくさはやかにさざめいてゐるんだね

竹中郁
「黄蜂と花粉」所収
1926

凝視

郊外を歩いてゐるとき
ふと私は 小川の中に立つ異様の女を見た
ぼろぼろに裂けた着物をきて
裾を露はにかかげ
浅い流れの中にぢつと立つてゐた
彼の女の足許の何かを凝視めてゐるやうに深く首を垂れてゐた

私は更に近づいた時
彼の女の微かな啜り泣の声を聴いた
彼の女は明かに狂人であつたが
しかもその例へやうのない淋しい凝視と嗚咽は
すつかり私の心を暗く囚へてしまつた
私は全ての過去を暴かれた様に狼狽した
彼の女の浅ましく衰へた愛慾の残影は
己に滅えようとしてゐた私の悔恨を
支へ様のない大きな溝の中に流し込んだ

彼の女は恐らく白紙の様な現在の心の面に
その美しい悲しい幻影を描いてゐるのではあるまいか
彼の女は唯 あるが儘の人生を其の薄い網膜の上に写して楽しんでゐるのではなからうか
私は限りなく我意な自分を思つた

自らがそのひとの罪人である様に羞恥を感じた

久しい後に彼の女が首を擡げた時
私はその鈍い雪灯のやうな瞳が
私の過去の悪戯を責めてゐるやうに思つた
彼の女は魅せられた様に 信じられない様に
なじる様に 訴へる様に 私の方を見てゐた
罪を有たないものの到底知ることの出来ない苦痛は私の心を重く圧へつけた
私は堪へ切れずに其処を去つた
併しながら私は未だにそのうるんだ女らしい声音と
おどおどしたその力無い眼の色を忘れることが出来ない

多田不二
「夜の一部」所収
1926

戦争はよくない

俺は殺されることが
嫌ひだから
人殺しに反対する、
従って戦争に反対する、
自分の殺されることの
好きな人間、
自分の愛するものゝ
殺されることの好きな人間、
かゝる人間のみ戦争を
讃美することが出来る。
その他の人間は
戦争に反対する。
他人は殺されてもいゝと云ふ人間は
自分は殺されてもいゝと云ふ人間だ。
人間が人間を殺していゝと云ふことは
決してあり得ない。
だから自分は戦争に反対する。
戦争はよくないものだ。
このことを本当に知らないものよ、
お前は戦争で
殺されることを
甘受出来るか。
想像力のよわいものよ。
戦争はよしなくならないものにせよ、
俺は戦争に反対する。
戦争をよきものと断じて思ふことは出来ない。
 
武者小路実篤
「種蒔く人」初出
1921

樹下の二人

――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉へがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

高村光太郎
智恵子抄」所収
1923

隣りの死にそうな老人

隣りに死にそうな老人がゐる

どうにも私は
その老人が気になつてたまらない
力のない足音をさせたり
こそこそ戸をあけて這入つていつて
そのまま音が消えてしまつたりする
逢ふまいと思つてゐるのに不思議によく出あふ
そして
うつかりすると私の家に這入つてきそうになる

尾形亀之助
色ガラスの街」所収
1925

長い髪によごれたリボンを結んであそぶ彼の女

長い髪によごれたリボンを結んであそんだ彼の女は
夜になると部屋にくらく座つたまゝ動かない
疲れた心臓の尖端をヂヨキヂヨキ鋏で切りはぢめる
─────ウドンを買つて来て食べやう
─────また心をはさみ切つてはいけない

昨日はアルコールにふくれた蛙が死んだよ
今日は偽瞞にみちた小さな脳髄の蛙が死んだよ
どつちもざまの悪い骸骨となつた
何もない胃をがりがり食ひ破る鼠も死んだ
─────絶淵には
   白いペンギン鳥が糞だらけになつて死んでゐる

飢餓は歯をくろくよごしてゐる
私は葱を嚙んで晩飯にしても寝られる
煙突のやうに無愛想につゝ立つたまゝでも平気だ
私はすでに私のためには苦しまないが
ヂヨキ ヂヨキ ヂヨキ…………………………
そんな顔をしないで
疲労の頂点できりきりまはつてゐる心臓をねむらせろ
─────ウドンを買つて来て食べやう
─────夏ミカンを買つて来て食べやう

萩原恭次郎
死刑宣告」所収
1925

呪詛

たえずうたがひ、たえず嘆き、
たえず悶えるこの心を、
むしりとりたいのだ、
飢ゑた鳥の胃袋と、
とりかへてしまひたいのだ。

父は大酒に酔ひつぶれてゐた、
うづ高い青表紙の書庫にこもつて、
母はわびしさに泣いてゐた、
神よ、あの呪はれた受胎の日を、
ならうことならどうにかして下され。

燃えただれたその触手をのべて、
永遠に暗い、永遠に哀しい、
しかも永遠にみだらな、
ここのところを、
焼きとつてくれぬか。

みづからを墜し、
もの皆を墜落に導き、
しかもなほいのりを忘れぬ──。
これは天国への、
これは地獄への隧道だ。

なまぬるい日あたりに、
三白草よ、おごれ、
饐えるまで、腐るまで、
目もくらむするどい悪臭に、
聖なる園をけがしたいのだ。

ゐたたまらなさに歌口をしめして、
今吹き鳴らす野笛のしらべに、

ああ、転調!
すべての転調!

怪しい香をくろ髪に焚きこめて、
この遠慮がちな食慾に、
あらゆる饗宴をゆるさうか、
私の魂よ、
無智になれ、盲目になれ。
地もやぶれよと踊り狂ふ二神、
ああ、消えてはうつり、
うつつては消え、
息する間もなくのべられる真紅の場面、
快楽よ、
かくて私はお前の肉になりたいのだ。

深尾須磨子
「呪詛」所収
1925

海辺の恋

こぼれ松葉をかきあつめ
をとめのごとき君なりき。
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき。

わらべとをとめよりそひぬ
ただたまゆらの火をかこみ、
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み、

入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか、
海べのこひのはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ。

佐藤春夫
殉情詩集」所収
1921

くずの花

ぢぢいと ばばあが
だまつて 湯にはひつてゐる
山の湯のくずの花
山の湯のくずの花

田中冬二
青い夜道」所収
1929