Category archives: 1980 ─ 1989

喜び

男は
鯛の生きづくり
と 注文した。
鯛はありませんが
鰈ならあります
と 店員が答えた。
運ばれてきた皿の上で
口を天井に仰向け
自分の姿態をスカートのようにひろげてみせた魚。
ひらかれ そがれ 並べられた
白く透きとおるほどの身の置きどころ。
お酒をやると喜びます
店員が言った。
男がとっくりを手に
魚の口から酒をそそぐと
パクッとうごいた。
もう一口!
連れの女もまねた。
それから互に杯を傾け合った。
酒は半身の冷たい絶壁を
骨づたいに
熱く 熱く 落ちて行った。
――まだ生きている。

石垣りん
やさしい言葉」所収
1984

男は疲れていた
人類の鼻という鼻に。
はなばなしい希望に
うちひしがれて
肉ダンゴを
食おうか どうしようか
迷いがでている
──これからの一生は
  鼻とは関わりなく生きてみたい
妻に向かって そう言おうとして
妻のひかる鼻を見
やめる
そんなふうな夕食どきである
ところで
わたしも疲れているのだが
わたしの鼻に。

黒瀬勝巳
「幻燈機の中で」所収
1981

くちびる

あなたのくちびるを想った日々
あなたのくちびるをはげしく想った日々
その内側に
歯がずらり並んでいるなど
考えもせずに

黒瀬勝巳
「幻燈機の中で」所収
1981

せっけん

こんなに
ちいさく なった
おふろばの
せっけん

うちじゅうの
みんなの こころに
やさしく
ちりしいて

1まいだけ
のこった
バラの
はなびらのようだ

まどみちお
くまさん」所収
1989

夏休み

少年チェホフは川で
水浴びをして風邪をひいた
風邪をひいたチェホフは医者へ通った

勉強して自分も医者になろう
医者になりたい
チェホフは夏じゅう
そう 思い続けた

──彼を一生苦しめた
胸の病気も
その夏休みの風邪からはじまった

大木実
「蝉」所収
1981

夕方の田園調布

僕が石柱の門札をのぞきこんでゐると
パトカーが止まつて 一人の警官が下りて来た
「どちらかお探しですか」
「いや別にさういふわけではない」
僕はそつぽを向きながらさう言つて歩みをつづけた

行きながらしばらくたつて
(あれは親切だつたのかもしれないな)
僕はそんな反省もした
ふと振り向くと
坂を下りて来るさつきの警官の姿が見えた
「あなたはオオタカオルさんですか」
さう言はれて僕は「ちがひます」とは言はなかつた
「その人はどういふ人ですか」
「家出人です」
「そのオオタといふ人は僕のやうに黒い帽子をかぶり大きいカバンを持つてゐるのですか」
「本署からの手配によるとさうなのです」
「あなたは黒い帽子をかぶり大きなカバンを持つてゐる人はみんなオオタカオルだといふのですか」
「冗談ぢやない」
警官と僕は長い時間睨みあつて立つてゐた
「尾行は勝手にしたらいいのだ
無線で連絡しあつたらいい
白線の外を歩いたら道路交通法でひつかけたらいい
僕のやうな年頃の老人はやたらに警官なんかに語しかけられたくないんだ
予供の頃悪いことをするとお巡りさんが来るよと言つて育てられてゐる
青年の時代は 人間として当然の思想を持つただけでブタ箱に入れられるといふおそろしい思ひもした
日本特高警察史をひもといてみたまへ」
僕は「ひもとく」といふ古語を使つた
桜の大木は枝を路上まで伸ばしてゐた
傷んで変色した葉を路上に降らしてゐた
「君はコーヒーをのみに行く一人の老人の散歩を滅茶滅茶にした」
ああ 夕方の田園調布
若い警官とは握手して別れた
グローブのやうな大きな手をしてゐた

しかし考へてみれば
ああ タ方の田園調布
曲り角の小さな旅館で僕は二時間の情事を持つたことがある
心の中の警官がいまも僕を追跡してゐるやうな気もする

桜の大木は枝を路上まで伸ばしてゐる
傷んで変色した葉を路上に降らしてゐる

小山正孝
「山居乱信」所収
1986

何かとしかいえないもの

それは日曜の朝のなかにある。
それは雨の日と月曜日のなかにある。
火曜と水曜と木曜と、そして
金曜の夜と土曜の夜のなかにある。

それは街の人混みの沈黙のなかにある。
悲しみのような疲労のなかにある。
雲と石のあいだの風景のなかにある。
おおきな木のおおきな影のなかにある。

何かとしかいえないものがある。
黙って、一杯の熱いコーヒーを飲みほすんだ。
それから、コーヒーをもう一杯。
それはきっと二杯めのコーヒーのなかにある。

長田弘
食卓一期一会」所収
1987

人間の言葉を借りて

生まれたくなかった
胎内で抵抗した
何度か流産のチャンスがあった
チャンスは薬物の力でつぶされた
その日は”難産”だった
緊急処置の帝王切開で
わたしは生まれた
三年ぶりに二人目の子を得た若い父母の喜びが
わたしには、うとましかった
生まれたくなかった
育ちたくなかった
しかし
順調に育った

或る日
三歳になる兄が
眠っているわたしの顔に
小さな透明のビニールの袋をかぶせた
袋は頭をピッタリ包み
わたしは息が出来なくなった
チャンス到来
忽ち気が遠くなり
わたしは人間でなくなった

わたしの異状に兄は驚き
母のもとへ走った
母が駆けつけ
すべてを察した
青ざめて
ビニールの袋をはずし
わたしを荒々しくゆさぶった
動かなかった
母は電話をかけ、病院に車を飛ばした
母の供述のちぐはぐに
医者は不審を抱いた
乳児がビニールの袋をかぶる筈がない
医者の通報で警官が来た
母は事の次第を正直に語った
語って泣いた
警察の穏便な処置で、兄は罪を免れた
母と兄が罪になることなど、わたしは望まなかった
人間でなくなりさえすればよかったのだから
わたしの望みが叶えられ、人間でなくなった日
わたしは思い出していた
以前、人間だったことを
再度の人間稼業はごめんだと真底思っていたことを
わたしの望みが何処かの神のお耳に入ればいいと
思っていたことを

理由は
今更、人間に話しても仕方がない
陽気な顔をして何度でも人間に生まれたがっている者に
わたしは、ただ、微笑を贈るばかり

わたしの望みが叶えられ、人間でなくなった日
若く優しい父母は泣き
小さな兄は訳もわからず走りまわっていた
わたしは詫び、静かに会釈をして
そこから立ち去って来た
わたしの世界に
わたしと同じ意思たちの住む明るい世界を
人間は信じるでしょうか?

吉野弘
自然渋滞」所収
1989

ショウガパンの兵士

小麦粉はよくよくふるって、
ジンジャー・パウダーと塩と一緒に
ミキシング・ボールに入れて、
オートミールと赤砂糖を混ぜておいて、
そして、小さなソースパンにラードを敷いて、
ゴールデン・シロップをたっぷりと注いで、
ほんのすこし牛乳をくわえて火にかけて、
熱く溶かしてミキシング・ボウルに注いで、
さらに卵を割りいれて混ぜあわせて、
四人の兵士のかたちに
生地をつくって、
オーヴンに入れてきっちりと焼くと、
素敵なショウガパンの兵士のできあがりだ。
いやだ、兵士だなんて、と一人がいった。
てんでまちがってる、と一人がいった。
とにかく逃げだすんだ、と一人がいった。
ぼくらを匿まってくれ、と一人がいった。
もちろんさ、と子どもたちはこたえた。
そして、まんまと大人たちの目を盗み、
四人のショウガパンの脱走兵は姿を消した。
子どもたちの手びきで、
子どもたちの口のなかへ、
もう誰も兵士でなくていい場所へ。

長田弘
食卓一期一会」所収
1987